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水鏡の光は誰がために  作者: 瑠玻 刃
第一章 光に導かれた〝非〟勇者
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第4話 三者三様、そして文字はかく語りき

 城郭都市ラグロニーネの陽光を浴びる水神の神殿――その厳かな応接室では、三人の男女が緊迫した空気を紡ぎ出していた。


「――つまり、水鏡の勇者殿は、こちらの世界に適応するため、しばらくは公の場に出せないと?」


 豪奢な法衣を纏った老神官長ラウレンスが、片眉を上げてリーデルに問いかける。


「そのとおり。当館の書庫にある書物には、異界からやってきた者の肉体が〝世界に馴染む〟必要があると記述されている。そして、それには相応の時間がかかるとも、ね。そのような状態で無理をさせようものならば、勇者の器そのものが崩壊……簡単に言えば落命しかねないだろう」


 レオナと同じプラチナの輝きを持つ、美しいブロンドから覗く青い瞳。妹のそれよりも淡く、冬の青空を映す氷雪のような視線を、眼前の神官長に向ける。

 そんな記述はないどころか、そんな書物もない。リーデルは、それらしく平然と嘘をのたまった。

 二十六歳という若さでありながら、一領主としての圧倒的なカリスマと洗練された威厳を放ちながら。

 しかし、その端正な顔には微塵の動揺もなく、完璧な領主としての仮面が張り付いていた。


「なので、彼が〝馴染む〟までの間、保護をすることにした。なにせ、伝承の通りならば、世界を救いたもう神の剣だからね」


 翔馬の、黒目黒髪の容姿は確かにこの世界では珍しいし、目を引くだろう。しかし、言ってしまえばそれくらい。リーデルにとっての翔馬は、戦う能力もどころか、その意思すらない、ただのからっぽの子供である。

 問題は、そこに〝水鏡から現れた〟という逸話が付くことだ。

 当然、周囲の目の色は変わるだろう。

 あの少年にそのつもりがなくても、表舞台に引きずりだされることだろう。

 この国には、そして世界には、そうなると自信を持って言えるだけの事情があるからだ。


「ふむ……」


 リーデルの対面に座るラウレンスは、口元に手をやりながら、一思案した後に静かに息を吐く。

 どこから漏れ出たか、街にはすでに〝勇者が現れたらしい〟といった噂が流れていると報告も上がっていた。


「市中では『水鏡の勇者が現れた』との噂が出ているとも聞き及んでおります。神殿の者たちへの口止めは徹底しておりますが、いつまでも隠し通せるものではありますまい。そこはいかに」


「噂が拡大するようなら、そこで一芝居打つよ。そこはこちらで考える。……神官長、重ねてのお願いだが、この件については他言無用だ。街の混乱もそうだが、本国中央が嗅ぎつければ、何をしてくるか分かったものではないからね。中途半端な公表は、騒ぎをかえって大きくするだけだ」


 リーデルが、勇者の存在は徹底して秘匿したい理由はふたつあった。

 ひとつは、本国の現王エドアルド――自分たちを密かに庇護してくれる叔父の立場を守るため。

 ハルト王国の政情は今、極めて不安定な状態にある。ゆえに、本国の前王派、現王派のどちらにも、あの〝勇者〟を利用されるわけにはいかなかった。

 もちろん、本国中央のすべてが自分の敵というわけではないが、かの勇者の存在をして、どう転ぶかはまったく予測ができない。


「……御意に。ハルト王国の安定のためにも、我らもできる限り協力いたしましょうぞ」


「ああ、すまないね。苦労をかける」


 ラウレンスが頷いて答えるのを見やり、リーデルはそう声をかけた。

 

(このまま大人しく、檻の中で〝置物〟として眠っていてもらわねば困るからね)


 秘匿したい理由のもうひとつ。それは妹の繊細な心を守るため。

 かの少年が、脅威との戦いにせよ、政治での戦いにせよ、表舞台に出れば食い物にされるだけだろう。そして、それらに対処する能力を持たない少年は、無残な最期を迎えることになりかねない。

 結果、何が起こるか。勇者に依存する妹レオナの心が、今度こそ完全に壊れる。

 それだけは絶対に避けなければならない。

 不確定要素は、可能な限り手元で維持するのが得策。それが、リーデルの合理的な答えだった。


「レオナもそれでよいね。勇者の顕現《けんげん》が嬉しいのは私とて同じ。だが、今は」


 そのリーデルの横、同席していたレオナは静かに胸元で手を組んでいた。


「はい、兄様。承知しました」


 プラチナシルバーの髪から覗く、紫がかった瑠璃色《ラピスラズリ》の瞳が、切実な光を宿して揺れている。

 昨日、水鏡の光から突如現れたその存在は、どこか戸惑いと不安を抱えているように見受けられた。

 それが身体の不調からくるものであれば、説明がつく。


 (エスティ様……。お労しいことに、この世界に来ただけで、お身体にそれほどの負担がかかっていたなんて……)


 レオナの胸を満たしていたのは、エスティへの深い同情と、それ以上の純粋な歓喜だった。

 亡き母の言葉通り、そしてこの国の伝承の通り、水鏡は本当に勇者様を連れてきてくれた。これで、内面に暗い復讐の炎を燃やし、いつか最前線で命を散らすのではないかと恐れていた最愛の兄を、この理不尽な世界から救い出してもらえる。

 彼女は「エスティ様が万全になれば、きっと世界は、兄様は救われるのだ」と、微塵も疑っていなかった。


(今はただ、エスティ様がこの世界に馴染まれるのを、私は全力でお支えしよう)


 部屋に流れる空気の中、三者の思惑は見事なまでに擦れ違っていた。

 勇者を〝ただの置物〟として軍事的・政治的に隔離したいリーデル。

 勇者を〝世界と兄を救う絶対の希望〟として健気に信じ、その開花を待つレオナ。

 勇者を〝ハルト王国のパワーバランスの崩壊〟にさせまいとするラウレンス。

 誰も、館の書庫で読めない異世界の文字を前に、ただ己の無力さに冷や汗を流している高城翔馬という少年の〝本当の姿〟を見てはいなかった。


 ◇


 静養期間という名の免罪符の中で、翔馬はギルバートに勧められた大判の歴史書を前に、一人取り残されていた。

 そこに記述されている文字が、まったく読めない。それもそのはず。国どころか世界が違う。

 言葉が通じていることも不思議でならないが、文字を翻訳してくれる便利なものもないのだろうと一人、苦悩していた。


(はぁ……)


 ずっしりと重い表紙を開き、先ほど見せられた挿絵の数々を改めて見つめる。

 棚に並ぶ書物のすべては、日本語でも、英語でもない、見たこともない歪な記号としか認識できない。

 読めない記号の羅列と、あまりに生々しくも現実離れした暴力的な絵の対比に目がくらむ。

 ひとまず落ち着こうと、ギルバートから差し入れられた温かい茶の入ったカップを一口すする。

 そののち、深いため息が漏れた。


「お互いのための、優しい嘘か……」


 神殿で見た、あまりにも眩しく美しいレオナの祈り。

 端から自分に期待しないリーデルの冷徹さ。

 そして、先ほど出会った老執事の静かな眼差し。

 自らの立場や歴史、背景というフィルターを通じ、都合よく〝水鏡の勇者エスティ〟に期待し、あるいはその役割から遠ざけようと、勝手に歯車を回している。


(また、ここでも、ただ食って寝るだけになるのか……)


 自分で自分を言い表すとしたら、無気力ともいえない消極性と自覚はしている。

 何かをしたほうがよいと思っても、手が伸びない、足が出ない。自分がやらなくても、誰かがやってくれる。

 それどころか、むしろ。


(自分がやって失敗して、誰かの期待を裏切るくらいなら、手を出さないほうがいい)


 自分で自分の意思を明確に示さない。それが、周囲も、自分も守れる最も安全で楽な手段だと信じて。周囲が敷いたレールの上を走るだけ。友人らは「そういうやつ」として付き合ってくれた。

 これからも〝静養期間〟を活用して、大人しい居候のフリをして流されていれば、きっと上手くいく……。


「……本当に……そうなのか? そう言い切れるのか?」


 翔馬はふと考える。

 自発性のなさ、積極性のなさが許されるのは、平穏な現代社会という強固な安全網の中、周囲の理解があればこそ。平穏だから、〝要領のいい生き方〟という成功体験となって自分を支配し、平穏だから、周囲が〝ちゃっかりした奴〟と勝手に評価したに過ぎない。

 ではこの世界はどうか。

 根底から違う。書庫の窓から外は、絵空事やおとぎ話ではない、剣と魔法と……書物の挿絵にある、圧倒的な破壊をもたらす超常の存在が息を潜める世界。

 こんな異常な世界で、自分の意思も持たず、他人の思惑の歯車に流されるまま生きていけばどうなる?

 ぞわり、と鳥肌の立つような違和感が背中を駆け抜けた。期待を裏切って失望されるのが怖いという、甘っちょろい不安ではない。


(……これは……違う)


 もっと根源的な、命の危機に直面した危機感が告げる恐怖。待っているのは、自分の想像もつかないような、巨大な濁流に飲み込まれていく未来だ。

 この世界の生々しい質感と、そこに生きる人々の余裕のなさを肌で感じれば感じるほど、その直感は確信へと変わっていく。

 確証はない。だが、これまでのように〝要領よく〟いくわけがない。

 

(ダメなんだ……今のままじゃ……)


 元の世界にあった安全など、この世界では誰も用意してくれない。

 この世界で縮こまって何も見ずに時間をやり過ごすのは、最も生存確率の低い悪手になりかねないのではないか。

 何よりその無策な逃避は、若い主を案じるギルバート、そしてあの純粋なレオナの祈りに無賃乗車するようにしか感じられない。


(……っ……!)


 一歩を踏み出すことの恐怖、その先にある未来への不安。

 踏み出さないことの安心、その先にある未来への疑問。

 どちらを取るか。二つに一つ。事ここに至って、翔馬は選択を強いられる。


(……誰も助けてはくれない。自分の足で歩かないと)


 何もできないとしても。魔法や剣を使えないとしても。

 ここで諦めるのは、心が腐り、死を受け入れるのと同じだ。この異常な世界を生き延びるために、まずは選ばなければならない。

 選ぶためには、知らなければならない。そのためには、他人の意図が入り混じった言葉ではなく、この世界を、自分の意志で掴み取る必要がある。

 過去から何度も逡巡しては行動をしなかった、そんな翔馬の臆病な心に灯る葛藤《かっとう》。

 その果てに、ひとつの言葉が生まれた。


「……読みたいな」


 誰に強制されたわけでもない。

 彼がその生涯で初めて、生存のために自らの明確な意志で、目の前の巨大な壁を乗り越えようと願った、ちいさな、ちいさな一歩だった。


「どうにかして、読みたいんだけどな――」


 ぽつりと。静まり返った書庫に声が落ちる。分厚い紙面に指先を触れ、そう言葉を紡いだ刹那《せつな》。


 ――ちりり、と指先に微かな熱が走った。


「え……?」


 翔馬は目を見開いた。

 インクで刷られただけの、意図も意味も読み取ることができない〝記号〟が、かすかに淡く光をおびて明滅した。

 彼の指先が触れた場所から、まるで呼吸を始めるかのように。

 ほんの一瞬、光の粒子が記号の輪郭をなぞるように浮き上がり、彼の脳裏へ直接、その記号が持つ意味の〝断片〟が滑り込んでくるような奇妙な錯覚。


(あ……)


 光はすぐに消え、書庫は元の静寂を取り戻した。気のせいかと思うほどの一瞬の出来事。しかし、翔馬が目をこらすと、先ほどまでただの幾何学模様にしか見えなかった記号の羅列が、ほんのわずかだけ、意味を持った文字として、文章として、脳裏に引っかかるようになっていた。

 翔馬は、ブレザーの袖を少し捲り上げ、自分の細い手首と、傷のない綺麗な手のひらを見つめる。

 そこにはやはり、苦労の気配はない。いつもの〝綺麗な〟自分の手だ。


「……今のは……?」


 運命の歯車が、彼の意思を置き去りにして回り始める中、彼はその歯車に噛み合うための自分自身を、その手で掴み取ろうとしていた。

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