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水鏡の光は誰がために  作者: 瑠玻 刃
第一章 光に導かれた〝非〟勇者
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第3話 歴史の回廊、超常の乱世

 どこまでも澄み渡る空の下。

 カーテンの隙間から差し込む穏やかな朝光にまぶたの裏を刺され、翔馬は目を覚ました。

 ふかふかのベッドから、見慣れない高い天井を見上げる。

 スマートフォンのアラームもなく、母親の怒鳴る声も聞こえない。代わりに聞こえるのは小鳥のさえずり。

 無意識に横のテーブルに手を伸ばし、スマートフォンを探ったところで、それがないことにようやく気づいた。

 翔馬の意識はすぐに、やはり夢ではなかったのだと、現実に引き戻された。


 身を起こして回りを見る。一人で使うには広すぎる部屋。

 リーデルの執務室で見たような上質な調度品に紛れ、自分のブレザーとシャツが、まるで剥製のように仕立て用の木型にかけられている。


「どうなるんだろうな……これから……」


 誰が答えるわけでもない問いは、部屋に差し込む白い光とは裏腹に、濃い陰の底へと落ちていった。


 コンコン、と控えめなノックの音が響いたのは、彼が制服に着替え、調度品の椅子に腰掛けた瞬間だった。「どうぞ」と答えると、入ってきたのは仕立てのいい衣服に身を包んだ若いメイドだった。


「失礼いたします、エスティ様。朝食の支度が整いました」


 丁寧に一礼をしたメイドが、上目遣いにこちらを見やる。

 彼女の瞳には、昨日神殿で見た人々と同じく、隠しきれない緊張と好奇の色が浮かんでいた。この世界にやってきてから幾度となく向けられている視線だが、慣れる気配は一向にない。


 促されるままに案内された広間には、温かいスープと見たこともない穀物のパンが並んでいた。

 どちらも白い湯気を立てており、その香ばしい匂いが否応なしに食欲を誘う。

 なんとも難儀なもので、どれだけ無気力に沈んでいても腹は減るのだ。

 一人で食べるには広すぎる部屋に置かれた、簡素ながら頑丈そうなテーブルの端につき、木匙でスープを口に運びながら、翔馬はふと疑問を口にした。


「あの……リーデル様やレオナ様はどちらに?」


 部屋の壁際に控えていたメイドは、小さく頭を下げて答える。


「お二人は、早朝より水神の神殿へ向かわれました。昨日の〝一件〟について、ラウレンス神官長へご説明をされると聞いております」


「……あ……そうですか」


 淀みなく丁寧に説明するメイドに返す言葉もない。

 パンを噛み締め、その香ばしい風味を感じながらも、翔馬は胸の奥がちくりと痛んだ。主役、あるいは元凶であるはずの自分が、ここに放置されているその事実に。

 それは、昨日リーデルが示した、静養期間という名の優しい〝嘘〟が、早くも機能し始めていることを示していた。

 翔馬は、彼の素早い手配に感嘆すると同時に、自分がそこにいなくていいのかという後ろめたさと、部屋に引きこもっていられることへの情けない安堵が共に駆け巡り、なんともいたたまれない気持ちになる。

 パンやスープの温かさとは裏腹に、自分の空っぽな胃の腑がじわじわと冷えていくような感覚。同時に、三面を〝鏡〟に囲まれた部屋で、自分にすがるように両手を組んだレオナの姿が、どうしても脳裏から離れなかった。


 食後、手持ち無沙汰になった翔馬は、別のメイドからリーデルの言付けを受けた。

 曰く「屋敷内は自由にしていい。身体が馴染むまで無理は禁物」とのことだった。

 ここでも「世界に馴染むまでの静養期間」が口実にされている。

 徹底したものだ。

 三食昼寝付きという条件は冗談ではないようであり、それは翔馬にとってこの上ない贅沢だが、それがかえって重苦しくもあった。


 廊下のガラス窓から庭園に目をやれば、細部まで手入れの行き届いた、美しい生垣が見える。そこかしこで鮮やかな大輪を咲かせる花々は、このあたりの秋を彩るものだと後に知る。


(貴族の屋敷だからか、庭がすごく広いな……)


 ふと翔馬は、外の空気を吸いたくなり、屋敷の勝手口から庭へと出た。

 屋敷には多くの人がいるようだが、庭師をはじめとして、誰もが忙しそうに動き回っている。

 空を見上げれば、現代のそれよりも透き通った深い青が広がっていた。


「何もしない……いや、できない……だな」


 なぜ、自分がここに召喚されたのだろう。

 周囲の豊かな色彩とは裏腹に、自分には色がまったくない。進路調査票すら白紙で出したような自分に、この世界はいったい何を求めているというのだろうか。

 そんな答えのでない問いが、頭の中をぐるぐると駆け巡る。その時。


「――当館の庭園は、お気に召されましたかな?」


 不意に背後からかけられた低く落ち着いた声に、翔馬は肩を跳ね上げて振り返った。

 そこに立っていたのは、仕立ての良い黒の衣服を隙なく着こなした、五十代後半から六十台前半ほどの男だった。白髪の混じる髪を端正に整え、背筋を真っ直ぐに伸ばしたその佇まい。

 一介の奉公人とは思えない知性と、修羅場を潜り抜けてきたであろう者の風格が漂っている。おそらく、彼がリーデルの言っていた〝執事〟なのだろうと察した。


「申し遅れました。私はこの館の差配を預かっております、ギルバート・レインと申します」


 ギルバートは胸に手を当て、深く、それでいて無礼にならない完璧な角度で翔馬へ一礼した。

 その目は、リーデルのような冷静な値踏みでも、レオナのような盲信でもない。

 ただ、翔馬のブレザー姿という異質な装いを見つめながら、その奥にある何かを見極めようとするような、静かな〝期待〟が淡く宿っているように見えた。


「リーデル様より、エスティ殿のお身体がこの世界に順応するまで静養され、その間に、この国の歴史や言葉を学ばれると伺っております。当館二階の東翼には、歴代の辺境伯が集めた書籍を収蔵した書庫もございます。もし、この世界の理をお知りになりたければ、いつでもお使いください。微力ながら、この老骨もお手伝いいたしましょう」


 館のために忙しなく働く人たち。

 その対極にいる自分。

 リーデルの言いつけを守れば、ただ部屋に引き籠って三食昼寝付きを享受すればよいのだが、そこに後ろめたさがないわけではなかった。

 何よりも、このまま庭を散策するよりは時間をつぶせそうだ。

 それに、この先、この世界で生き続けなければならないとすれば、少しでもこの世界のことを知っておくべきではないか、そんな思いが翔馬の背中を押した。

 もとより、人とかかわらずに時間をつぶせる恰好の理由なのもあって、勉強が嫌いなわけではなかったし、静かなので図書館も好きだった。


「あの……それなら、その書庫を案内してもらえませんか?」


 翔馬の言葉に、ギルバートの目元がわずかに和らいだように見えた。


「畏まりました。では、どうぞこちらへ」


 ギルバートの後に従い、静かな廊下を進む。すれ違う使用人たちが一様に足を止め、翔馬のブレザー姿に視線を送りながら頭を下げる。そのたびに翔馬は身の置き所のなさに小さく肩を丸めた。

 やがて辿り着いた東翼の最奥、意匠の凝らされた両開きの重厚な木製扉をギルバートが静かに押し開く。


「こちらでございます。リーデル様もご使用になるため、平時より施錠をしておりません。以後はご自由にお入りください」


 屋敷を護る騎士の詰め所直上ゆえ、警備面の心配がないということもございますがね、と続けて、ギルバートは翔馬を中へと促す。

 書庫へ一歩足を踏み入れた翔馬は、その圧倒的な光景に言葉を失った。


 高い天井まで届く無数の本棚が幾重にも並び、壁面はすべて革装丁の古書で埋め尽くされている。

 窓から差し込む柔らかい光には細かな塵が踊り、古い紙とインクの匂いが濃密に満ちていた。現代の図書館すら圧倒するような知識の要塞が、そこにある。


「凄い……」


 ぽつりと漏らした翔馬の呟きに、ギルバートは静かに頷いた。


「この地はハルト本国中央からは遠く離れた辺境ですが、それゆえに数々の戦火を免れ、オラニム帝国と呼ばれた時代の貴重な正史や、失われたとされる古い記録が数多く残されております」


 どの書籍に何が記述されているかは分からないが、少なくとも重要文化財級、ということだけは伝わってくるその威容。

 一領主のコレクションとしては極めて異様ともいえるその光景に、翔馬は知らず知らずのうちに気圧されていた。


「何から手を付けてよいか迷われるようでしたら……そうですな。まずは、このハルト王国の成り立ちや、我々が対峙している勢力との戦乱の歴史が記された、ここらの年代記からお読みになるのがよろしいかと」


 ギルバートはいくつか並ぶ本棚の一つを指し示したあと、その落ち着いた声で、かつてこの世界を揺るがした勇者の伝承を語った。

 そして、翔馬が手にした大判の歴史書を開き、数々の凄惨な挿絵を指し示す。

 そこには、現代の兵器とも異なる、天変地異のような炎を放つ魔法の行使、地を割り建造物を紙屑のように両断する異形の軍勢――〝魔族〟の姿が、生々しいインクのタッチで描かれていた。

 絵画からすら悍《おぞ》ましい圧力が伝わってくるような、文字通りの超常の乱世。それが、この世界の日常なのだとギルバートは淡々と告げる。


「……リーデル様もレオナ様も、背負うものが大きすぎるお方です。どうか……エスティ様が、あの若き主たちをお救いいただける光であらんことを、切に願っております」


 その言葉に含まれる本当の意味は、翔馬には分からない。

 ただ、確実に重さを持つその言葉に、息を呑んだ。

 ギルバートの声色には、ただの形式的な願いではない、何やら血の滲むような過去の後悔と情念が混ざっているように感じられたからだ。


 応える言葉を持たない翔馬は、ただ曖昧に頷くことしかできなかった。また一つ、返せない期待の負債が増えていくことを感じながら。

 ギルバートはもう一度深く一礼すると、翔馬に机と椅子を勧め「後ほどお飲み物をお持ちしましょう」と告げて、音もなく書庫を退室していった。

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