第2話 何もできない勇者と、優しい嘘
翔馬はレオナに手を惹かれたまま、神殿からほど近い石造りの荘厳な屋敷――小城といっても過言ではない、その建物の重厚な扉の奥へと連れられた。
〝小城〟の中は、見た目の威圧感に比べると暗さはなく、従者と思しきメイドたちが忙しなく動き回る。そして、レオナの姿を視界に認めると、次々と腰を折っていた。
レオナはそれを意に介すことなく、中央の階段を上がり、正面の丁寧な装飾が施された木扉を二回ノックする。
まもなく「どうぞ」と響く声を確認し、レオナは扉を開けた。
品のいい調度品が並ぶその部屋。大きな執務机の向こうには一人の男がいた。
「リーデル兄様! 水鏡の勇者様がお見えになりました!」
レオナが弾んだ声で報告すると、書類に目を通していた――リーデルと呼ばれた男が、ゆっくりとこちらを見やる。
レオナと同じプラチナの輝きを持つ美しいブロンドを爽やかな短髪に整えた、端正かつ細面の青年。
レオナよりもさらに淡く、冬の青空を映す氷雪のような青い瞳が、ブロンドからちらりと覗いた。
「兄様、エスティ様は水鏡の光の中から現れたのです! 間違いありません、彼こそが世界を、そして私たちを救う――」
興奮を抑えきれない様子で、エスティこと翔馬を紹介するレオナ。
その説明を聞きながら立ち上がり、こちらへと歩みを進めたリーデルは、優しく妹の肩に手を置いた。
「そうか、よく連れてきてくれた! ……だが、レオナ、落ち着きなさい。そちらの勇者殿は、状況をきちんと把握できておられないのではないかな?」
「え……」
兄に諭され、はっとして翔馬の方向を見る。
状況をよく呑み込めないまま、この場に連れられた少年の表情を見て、しまったといったような表情を浮かべる。が、リーデルは責めることなく言葉を続けた。
「嬉しいのは分かるが、順序もあろう。……うーん、そうだね。まずは私から、国内外の状況を勇者殿にお伝えしておくとしよう。お前は一度神殿に戻りなさい。神殿も混乱しているのではないかな?」
まるでここまでの場面をすべて見たかのような言葉を紡ぐリーデル。レオナは不安そうに声を上げた。
「……ですが、兄様……」
「大丈夫だよ。さすがに、〝勇者〟殿に無体な真似はしないさ」
リーデルの静かだが諭すようなトーンと、優しい微笑みに、レオナは残念そうに小さく息をつく。
「……分かりました。では、エスティ様を、兄様の元へお連れしたと神官長へ報告してまいります。委細を兄様に委ねたことも」
「あぁ。そうしてくれると助かるよ。明日、私も神殿に伺うと伝えておいてくれないか?」
「承知しました。……では」
レオナは小さく一礼し、名残惜しそうに部屋を退室した。
去り際、翔馬に「また後ほど」と健気な笑みを残して。
かちゃりと扉が閉まり、広い執務室に残されたのは、リーデルと、学校の制服であるブレザー姿のまま立ち尽くす翔馬の二人だけだった。
部屋が完全な静寂に包まれた瞬間、リーデルは翔馬を値踏みするように一瞥する。そこには敵対や悪意は感じられない。ただ平坦で、ただ冷静だった。
エスティは、その視線に思わず肩を竦める。
「……あいにく、執事が外出していてね。茶と菓子を出したいところなのだが」
そういいながら、リーデルの目が、まずエスティの手に留まる。
線が細く、手のひらにも指の付け根にも苦労が見られない。
重い剣を日々振り回し、血を滲ませて肉体を苛んできた武人の手では決してない。何不自由なく、平和な生活の中で守られてきた、驚くほど〝綺麗な手〟だと分かる。
さらにリーデルは、かすかに目を細めてエスティの全身の気配を探る。
この世界の人間ならば、誰しもが持っているはずの器――大気中のマナに共鳴する雰囲気が感じられなかった。
だが、器そのものがない、とは少し違う。マナを受け止める受け皿に穴が空き、からっぽであるかのような……。
この世界のルールが通用しないかのような、文字通りの異分子の気配だった。
簡易的な魔法すら発動できないであろう持たざる者の気配に、リーデルは、フッと張り詰めていた肩の力を抜き、執務椅子の背もたれに体を預ける。
「……さて、エスティといったね。君も座るといい。申し遅れたが、私はこのラグロ辺境伯領を治める、リーデル・グライアス・ハルトニアだ。気軽に、リーデルと呼んでくれて構わないよ」
そして、机の上に積まれている書類に視線を戻しながら、静かに言った。
「状況がよく分からないけれども、君があの〝水鏡〟から現れた、ということは事実なのかい?」
「……気がついたら、鏡のある部屋にいました」
「……そうか。あの部屋は神殿の最も奥にあり、神殿騎士の警備も厳重だ。扉以外に出入りができる構造ではない」
あの部屋とは、レオナと出会った部屋のことだろう。
混乱を隠しきれていない翔馬でもわかるように、といった配慮か。リーデルはゆっくりと翔馬の反応を見ながら続ける。
「そして、〝水鏡〟は世界に危機が訪れるとき、外界から勇者を呼ぶという伝説がある。すなわち、あの部屋に突如として現れた君は、伝説にいう〝水鏡の勇者〟たる存在……ということになる」
レオナのいう〝勇者〟の意味が、ようやく翔馬にも理解できた。
あの部屋に出てきた人間は、どうやらそういう扱いをされるのだということ。
そして、リーデルの言葉とレオナの反応からして、ここは伝承の勇者を求めるような世情であるということも。
「……僕が勇者……と?」
翔馬は、確かめるようにリーデルへ問いかけた。
「……うーん。いや、失敬。君は……どうにも違うね。おそらく、戦いを知らない、どこか平和な国から来たのかな? 自分がなにもできない、と思っている」
「……」
翔馬は驚いて目を丸くした。
レオナを説き伏せたときといい、今といい、この男はまるですべてを見てきたかのように発言をする。
「……当たっていたかな? 残念ながら、我が領、そしてこの世界を取り巻く脅威は、絵空事の勇者を待っていてくれるほど、悠長で生易しくないものでね」
私は自分の力で、我が剣で、奴らに一矢報いることしか考えていないのだが、とリーデルは続けた。
その視線を書類から翔馬へともう一度切り替え、その瞳を真っ直ぐに見据える。
「……」
極めて冷静な状況判断。目の前の男から告げられる言葉は、事実であるがゆえに言い返せない。言葉の端々に感じるのは、敵対ではない冷たい刃物のような鋭さ。
それをまるで首筋に当てられているかのような緊張からか、手足が冷たくなっていく感覚を覚える。
「……もっとも、本国の連中が君のことを聞けば、政争の道具にしようと騒ぐだろう。まったく、困ったものだね」
翔馬の不安そうな表情を知ってか知らずか、リーデルは少し思案した後、言葉を続ける。
「どうだろうか。君は不服かもしれないが、私は君を食客としてこの屋敷に留め置きたい」
突然の提案に、翔馬はさらに不安の色を濃くする。一体どういうことなのか。
使えるような人物ではないなら、放逐しておしまいになるだろうに、言い換えれば保護すると言われているようなものだ。
「なに、安心するといい。君が何者だろうと、私には関係ないんだ。ただの客人として、この屋敷の部屋で大人しくしていてくれれば、三食昼寝付きを約束しよう」
それは、ともすれば存在の拒絶ともいえる内容である。
しかし、突如この世界に放り込まれて、左右も分からず、勇者だの世界の脅威だの、世界を救えだのと言われても困る。
そもそも、自分には何もできそうにないし、やらされたくもない。
レオナの〝勇者〟に対する過剰な期待に窒息しそうな翔馬にとって、リーデルの「何もしなくていい。大人しくしていろ」という言葉は、皮肉にも極上の救いだった。
自分で決めず、これまで通りに過ごせば安全だ、というのだから。
こんなの願ったり叶ったりではないか。
「それはそれでありがたいのですが……」
だが、それではレオナの〝勇者エスティ〟に対する期待と真逆の行動になるのではないか?
そんなこと自分が考えなくともよいのだろうが、翔馬の脳裏には、ふとそんな疑問が浮かんだ。
「話が速くて助かる。……とはいえ、だ。レオナの〝勇者〟に対する盲信ぶりを見ただろう? いろいろあって、あの子はその存在に過度なほど期待をしていてね。君をただ部屋に閉じ込めておけば、あの子は『なぜ勇者様とともに戦わないのか』と私を突き上げるだろう」
それは翔馬であっても容易に想像できることだ。
またしても自分の表情に出ていたのか、頭に浮かんだ疑問を察したのかは定かではない。翔馬を見ながら、リーデルは、くくくと可笑しそうに笑った。
「私としては、あの子をこれ以上傷つけたくはないんだ。何より、水鏡に導かれた君が、ただの無力な一般人だと知れば、あの子の心は今度こそ折れてしまうだろうからね」
「……」
いろいろあって傷ついた?
あの美しい少女に何があったのだろうか。
思うところはあるものの、翔馬は、その疑問を掘り返すほどの度量を持ち合わせていない。
「だから、レオナと周囲にはこう説明する。『勇者殿は、異世界からの転移直後で、こちらの世界に身体が馴染んでいない。無理をすれば命に関わるため、しばらくは館で静養しながら、世界の文字や歴史を学ぶ期間とする』と。……これならレオナも納得するだろうし、君が戦えないことへの言い訳にもなる」
エスティはゴクリと唾を呑んだ。リーデルの眼光が、ブレザーの胸元を射抜くように向けられる。リーデルはふっと自嘲気味に口元を歪めた。
「優しい嘘、というやつだよ。お互いにとってね。君にとっては、何もできない自分を正当化できる格好の隠れ蓑だろう? 存分に活用するといい。レオナの前では、私も未来の勇者を育てる寛大な兄であり領主、というわけだ」
翔馬には、断る選択などなかった。
いや、そもそも選択などしていない。応諾するしかなかったのだ。
◇
夜。窓の外には、見たこともない歪な形の月が浮かんでいる。
これが悪夢なら覚めてほしいのだが、時間が経てば経つほど、身体の感覚と共に、見えている世界が現実であることから逃げられなくなっていく。
与えられた一室は、先の執務室と同じように品の良い調度品が並んでいる。その窓の隙間から滑り込む夜風には、冷たさとわずかな枯草の匂いが混ざっていた。
一人で過ごすには持て余すその部屋の端。翔馬は情けないほどの深い安堵とともに、部屋のベッドに身を沈めた。
神殿から戻ってきたレオナの視線が痛かったが、そこはリーデルがカバーしてくれた。曰く「勇者殿は転移直後で、非常に身体に無理があるご様子だから、早めに休んでいただくとしよう」と。
いろいろ言いたげで、質問をしたげなレオナであったが、待ちに待った〝勇者様〟に無理をさせられないと悟ったか、彼女は存外あっさりと兄の言うことを聞いた。
「……これから、どうなるんだろう」
見知らぬ天井を見上げながら、翔馬は呟いた。
だが、答えは決まっている。どうするもこうするもない。元の世界でも、この異世界でも、結局自分は何も選ばない。
言い訳を探して、うまく周囲に合わせていけばいい。
窓から差し込む歪な月の光は、かつて白紙のまま提出した進路調査票のように、彼の空っぽの心を冷たく照らし出していた。




