第1話 その鏡は、光を纏う
「――いてて……」
高城翔馬の意識は、最後に見上げた、どんよりとした雨空の記憶から突如として切り離された。
深く息を吸った瞬間、肺の奥を刺したのは、冷え切った石の匂いと、嗅ぎ覚えのない濃厚な水の薫りだった。
背中に伝わる床の冷たさは、それが夢ではないことを告げている。身体をどこかにぶつけたのか、あちこちに痛みを覚えながら、ゆっくりと身を起こした。
ぼんやりとする頭と視界。
脳裏に浮かんでくるのは、白紙のまま提出した進路調査票、担任のなんとも言えない表情、何も考えず後にした校舎。
好きに選べるだけの自由はあるはずなのに、自分がどこへ進めばいいのかすら見えていない日々。
自由であることが、かえって枷となって自分の手足を縛りつけ、その場に取り残されているかのような感覚が、今もこびりついている。
顔を顰めながら見上げる。
視界へ飛び込んできたのは、扉のある一面を除き、“鏡”に囲われた奇妙な部屋だった。
鏡面には継ぎ目ひとつなく、一枚のガラスのような艶と滑らかさがある。鏡は淡い残光を帯びながら、ゆっくりと明滅していた。
「え……? なんだ……ここ……」
そして、その鏡面には、薄く水が張られているかのように、かすかな波紋が揺れていた。
そのせいだろう。鏡というにはあまりにも像が朧気だ。輪郭も色も、水面越しに覗き込むように滲んでいる。
翔馬は自分の姿を探すように鏡面へ目を凝らした。
しかし、そこには淡い揺らぎがあるばかりで、自分らしい輪郭を見つけることができなかった。
首元を押さえながら周囲を見回す。
すると、部屋の中心に、祈りを捧げているかのような姿の少女が一人こちらを見て、驚愕に目を見開いていた。
「……え……? 本当に……?」
まるで、舞台演劇のワンシーンかのよう。鏡の放つ残光を浴びる少女の姿に、思わず目を留める。
あどけなさと大人っぽさが入り混じるような微妙な年ごろ。自分と同じくらいだろうか。プラチナシルバーのロングヘアが淡い光のなかできらめく。
優しさを感じる、紫がかった瑠璃色の瞳。なめらかで白磁のような肌。
豪奢だが、清廉さを感じる上品な衣服を纏った彼女は、信じられないといった様子で、翔馬を見つめていた。
見ているだけで吸い込まれそうな、その完成された美しさが、同じ空間にいる自分にはあまりにも不釣り合いで、余計に気後れを誘う。
「……本当に……“水鏡の勇者”様……?」
翔馬は、少女の口から漏れ届いた“勇者”のキーワードにピクリと反応し、不安を覚えた。
ゲーム、小説、漫画やアニメ、枚挙にいとまがないほど登場する物語の主人公。自らの道を切り開き、逆境にめげず、仲間と民を導く英雄あるいは職業。
そう、何も自分で決められない自分とは正逆の存在。
「ええと……」
その言葉の意味するところを尋ねようと、彼女の瞳を見た――瞬間、翔馬の背筋にゾッと冷たいものが走る。
それは期待。否、それすら超える、あまりにも純粋で無条件の肯定。すなわち畏敬。それが自分に向けられている、と直感的に。
「あなたが……世界を、兄様を救ってくださるのですね……?」
その言葉は透明感を湛えつつ、切実なものとして翔馬の耳に、確実に届いた。
胸元で組まれている手に、力が入っていることがここからでも分かる。
いまだに、夢と現実の区別がついていない翔馬だが、あまりの突飛な状況に、頭はかえって冷静になった。
(ああ、これは間違いない。物語の世界の、冒頭によくあるシーンだ)
少しずつ目が慣れ、耳が慣れ、鼻が慣れ……あたりに漂う冷え切った空気と石の感覚に、水の薫りを改めて感じる。
身体に走る鈍い痛みが、間違いなく告げている。
これは、まぎれもない現実だ、と。
(でも、一体何が?)
その疑問に答える者はいない。最後の記憶は、教室、呆れ顔の担任、どんよりとした雨空。そう、学校を出て――遠雷の音と共に突如目の前が明るくなり、気が付いたらここにいた。
「え……と……」
言葉が出ない。勇者など、どれだけ贔屓目に見ても、今の自分に不相応な呼び名であることは疑いようもない。
これまで何不自由なく暮らし、周囲からは大小問わず、幾度となく期待をされてはいた。しかし、真正面から応えることをしてこなかった。
それでも許されてきたのは、家族や教師、友人に恵まれたためだとも分かっている。無気力とはまた違う、単に行動力の伴わない空っぽの人間。
それが自分の正体だ。
そんなことを知る由もない相手から向けられる、まるで神そのものを仰ぎ見るような眩しすぎる視線は、心地よさではなく、翔馬の胸を鋭い針のように刺した。
僕はただの高校生だ!
自分の進路すら自分で決められないんだ!
勝手に期待するな!
……これが物語の中だとして、そう叫んだら、目の前の少女はおとなしく身を引くだろうか?
いや、彼女の美しい瑠璃色の瞳は、たちまちに絶望へ染まるだろう。
そう、自分は勇者だ! この世界に蔓延る闇を払ってみせる!
……とでも答えたら、きっと彼女は畏敬の念をより強めることだろう。
同時に、その名称が持つ圧倒的な期待と重責を、自分の人生そのものとして引き受けなければならなくなる。
どちらも何としてでも避けたい。それが翔馬の答えだった。
自ら積極的に相手の期待に応えようとしないくせに、期待を削ぎ落とすことも避けたい。いつもの無責任な考えがぐるぐると頭を巡る。
「いや……僕は――」
逡巡の末、やっとのことで絞り出した答えは、どちらともいえない中途半端なものだった。
だが、その小さな声は、熱を帯びたレオナの言葉に重なった。
「勇者様のご来訪を、今か今かと心待ちにしておりました。……申し遅れました。私は、この“水鏡”を守り、伝承を語り継ぐ水神の神殿の巫女。レオナ・グライアス・ハルトニアと申します」
聞き惚れるような声と、流麗な礼。
その洗練された動きとは正逆に、翔馬の困惑と逡巡に気づかないほど、彼女の期待は熱を帯びていた。
「……お名前を……お名前を伺ってもよろしいですか? 勇者様……」
レオナからのさらなる問いかけ。懇願するかのような瞳が翔馬を射抜く。
翔馬は、喉がカラカラに干上がっていくのを明確に感じていた。
(名前……。名前……?)
ふと思う。彼女に高城翔馬の名を出したら、どういう反応をするだろうか。
自分の存在が、自分のあずかり知らないところで、この異世界にある運命のレールに乗せられてしまうのではないか。
瞬時にそんな想像を巡らせ――翔馬は反射的に、頭の奥に浮かんだ名前を掴み、口にした。
「……えと……。……ST……」
ゲームのアカウントや、誰の目にも留まらないインターネットの片隅で、何年も前から使い続けているハンドルネーム。
イニシャルを用いた、仮想世界でのもうひとつの呼び名。
誰にも本気で名乗ったことのない、けれど、自分の意思で選んだ、唯一の名前だった。
「……あぁ……エスティ様、とおっしゃるのですね……!」
とたん、パッと花が咲いたように笑顔を見せるレオナ。
やってしまった。
彼女は、目の前にいる翔馬を今はっきり“勇者”と認識したことだろう。
勇者ではないことを明確に否定せず名乗れば、必然的にそうなる。
気づかなかった自分が何より悪いが、今更撤回などできない。胸の奥に、黒い澱のような罪悪感が沈んだ。
「では、エスティ様。まいりましょう。我が兄、リーデルの元へご案内いたします」
「え?」
レオナはゆっくりと歩み寄る。
翔馬が酷く困惑していることなど知る由もなく、翔馬の前に立ち、きれいな笑みを見せた。
ドン!
鈍い音が聞こえたのはその刹那。部屋の重厚な扉が勢いよく開け放たれると同時に、異変を察知した神殿の神官や、剣を帯びた騎士たちが雪崩れ込んできたのだ。
「レオナ様! いったい何事が――」
「曲者か!? レオナ様から離れろ!」
「こいつ……いったいどこから……!?」
殺気立った騎士数人が、一斉に剣を引き抜く。
あまりの気迫に、翔馬は思わず数歩後ずさった。その拍子に視界の端で、左右の壁がちらついた。
――映っている。
朧気ながら、剣をこちらに向けて構える騎士の輪郭が。
息を呑む神官の影が。
中央に立つレオナの、淡くきらめくプラチナシルバーが。
揺らぐ“水面”越しではあっても、たしかにそこにいる者として映っている。
では、自分は?
恐る恐る、翔馬は自分の右手を持ち上げてみた。しかし、左右どちらの鏡にも、持ち上げた右手に応じる揺らぎは現れない。
まるで、そこに“誰もいない”かのように。
(……なんで、僕だけ……?)
騎士も、神官も、レオナでさえも、それに気づいた様子はない。
この部屋の中で、自分だけが、“映る”対象にすら数えられていないかのようで、不思議と疎外感を覚えた。
しかし、翔馬の動揺を知ってか知らずか、レオナは神官や騎士たちを睥睨すると、すっと片手を掲げた。
その佇まいは、先ほどエスティへ畏敬の視線を向けていた少女のものではなく、圧倒的な気品と凛とした強さのあるものだった。
「控えなさい。剣を収めるのです」
鈴を転がすような、しかし誰も逆らえない威厳を含んだ声が室内を打つ。
「この方は、私の前で、水鏡の光によりこの世界へ顕現せしお方。私たちが長きにわたり待ち望んだ、救世の勇者様です。無礼は許しません」
「水鏡の勇者……? おとぎ話ではなかったのか……!?」
「本物……そんなまさか……?」
レオナの言葉に怒気を抑えざるを得ない騎士たち。
それを見ながらレオナが続ける。
「まずは私が責任を持ち、兄リーデルの元へお連れします。神官長への詳細な報告は、改めて私から。また、無用な混乱を起こさぬよう、このことは他言無用にて」
自分の知らないところで、勝手に話が進んでいってしまう。運命に流されるとはこのことか。
尤も、自分の生き方はいつもそうだった。なるようになるし、誰かの意見や行動に乗っかる、調子の良い事なかれ主義だ。
それに対するレオナの気圧されるほどの毅然とした態度。
神官や騎士たちは息を呑み、それ以上動けない。通路に集まる他の神官や巫女、騎士たちは、どよめきながらも道をあけるしかなかった。
場違いな衣服を身に着けた自分へ向けられる、何十人もの畏怖と不審の視線。
前を行くレオナの、小柄ながらも凛と胸を張った背中。
それに引き替え、よれよれの制服姿で、ただ手を引かれるがままに俯いて付いていく自分。
その対比が、翔馬の少なからずある自尊心を酷く削っていく。
穴があったら入りたいとはこのことか。
彼は、胃が縮み上がるような心地のまま、レオナに手を引かれるがままに神殿を後にした。




