第57話 商人たちの粋、心の熾火
カーテンの隙間から差し込む朝の光が瞼の裏を刺す。
翔馬は気だるげに寝返りを打ち、ゆっくりと瞳を開いた。見えるのは部屋の天井。
じっと見つめたまま、まず口から漏れ出たのは、情けないほど深い呻き声だった。
「……うぅぅ、胃が苦しい……」
香草で匂い付けされた上質な肉、調子に乗って呷ったテノラーダの麦酒。
胃袋の奥に、昨夜詰め込まれたそれらがそのまま居座っているような重みが残る。
旅の間、質素なパンや干し肉、スープばかりを口にしていた身体に、最高級の料理を怒涛の勢いで流し込んだ代償は、想像以上に高くついたらしい。
翔馬はふーっと息を吐くと、のそのそと掛け布団を押し退けて、軋む身体を起こそうとした。
――グォォォォ……ゴロロロロ……ッ。
「……ひっ!」
突如、寝台の足元から地響きのような怪音が響き渡り、翔馬の背筋がぞわりと震えた。
反射的に身を引いて、恐る恐る床を見下ろす。
すると、そこには見慣れた赤黒い短髪を盛大に散らし、大の字になって爆睡している男の姿があった。
手甲を嵌めたままの両腕をこれでもかと投げ出し、口を半開きにしたまま、地鳴りのようないびきを轟かせている。
――ぐおぉぉ……ぐがぁぁぁ。
「……えぇ? なんでガルファンさんが……?」
翔馬は目を瞑り、こめかみを押さえながら必死に昨夜の記憶を手繰り寄せた。
散々飲み食いした宴の果て。
千鳥足で「おいおい、俺ぁまだまだ飲めるぞぉ!」と喚き散すガルファンの肩を抱き、どうにかこうにか、レオナと二人がかりで神殿まで連れ帰った――まではよかったものの、なぜかガルファンは自室のある区画を通り過ぎた。
そのまま、翔馬に充てがわれた客間へやってきたかと思いきや、「ちょっと横になんぞ……」と呟いたが最後、床に突伏して轟沈。
細身の翔馬がどれほど引っ張ろうが、引き締まった体躯はびくともしない。
結局、息を切らした翔馬が「……もういいや」と諦めて、掛け布を一枚被せて放置したのだった。
「……あぁ、そうだった。……でもガルファンさん、どれだけ飲んだんだろう? 普段あんなに早起きなのに」
床で気持ちよさそうな表情をして眠るガルファンを横目に、呆れ混じりに息を吐く。
そして、寝台の脇に置かれた水差しから器に水を注ぐと、一気に喉へ流し込んだ。
喉が潤い、食道と胃に冷たさが広がると共に、昨夜の賑やかで、どこか非現実的なほど温かかった宴席の光景を鮮やかに呼び覚ました。
◇
翔馬一行が無事に“帰還”したことを祝う宴は、テノラディア侯爵カルロの私邸、その豪華な大広間で開かれた。
長テーブルの上には、これでもかとばかりに積み上げられた名物の香草焼き肉や煮込み、冷えたエールの木樽が所狭しと並んでいた。
主賓として座らされた翔馬の正面には、相変わらず作業着の袖をまくったバートン、太い腕を組むボリス、そして金貨をポケットで弄ぶヴィンセントの三人が並んでいた。
「――でよ、エスティ。お前さんが残していったあの図面だが」
エールの大ジョッキを豪快に空けたバートンが、手帳を卓上へ放り出しながら口火を切った。
「検証してみたんだが、正直、そのままじゃあ駄目なところが山ほどあったんだよ」
その言葉に、翔馬の眉がピクリと跳ねた。
隣でワイングラスを傾けていたヴィンセントが、目を細めてクスクスと笑う。
「そうでしたね。図面はよかったのですが、現場で扱うには少しばかり繊細過ぎまして。ですから、必要なところは現場のやり方に合わせて、弄らせてもらいましたよ」
「ガハハ! 今じゃあ元の計画と見比べたら、別物みたいになってんぞ! だが、前よりずいぶん良くなった!」
ボリスが丸太のような腕で翔馬の肩をドスンと叩いた。
現場で弄った。
別物みたい。
その言葉を聞いた瞬間から、翔馬の胸の奥で知的好奇心が暴れ始める。
一体あれからどう変わったのか。現場の人間はどこをどう直したのか。自分の図面から何が削られ、何が足されたのか。
気になって気になって仕方がなくなり、翔馬の視線がせわしなく泳ぎ始める。
「……あ、あの……! 具体的には、どこをどう変えたんですか……?」
「ハハッ! 分かりやすいツラしてんぜ!」
身を乗り出して尋ねる翔馬に、バートンが白い歯を剥き出しにして吹き出した。
「気になるなら、明日にでも現場を見に来やがれ! 口で説明するより、その目で見た方が一発で分か――」
「え! いいんですか!? じゃあ、是非そうさせてもらいます!」
「やれやれ……貴方は変わらないですね」
食い気味に即答した翔馬の勢いに、バートンとボリスが苦笑を浮かべ、ヴィンセントが肩をすくめながら呟いた。
隣で肉を貪っていたガルファンすら「おいおい、飯食ってる時まで仕事の話かよ」と呆れ果て、さらにその隣では、レオナがずっと楽しそうに口元を綻ばせていたのだった。
――そして、宴も深まり、酒と料理が一段落した頃。
翔馬は、胸の奥底にずっと引っかかっていた、もうひとつの“重大な事実”を切り出すべく、意を決して居住まいを正した。
「……あの、カルロ様。それに、バートンさん、ボリスさん、ヴィンセントさん」
真剣な眼差しを向けた翔馬に、一同がわずかに視線を止める。
「僕から皆さんに……どうしても、ちゃんとお話ししておかなければならないことがあって……」
それは、自分が“この世界の人間ではない”ということ。
王城の大広間で自ら名乗った“水鏡の勇者”という立場のこと。
翔馬は最後まで逡巡した。
伝説の存在と見られてしまえば、あの心地よい距離感が壊れてしまうかもしれない。
どこか、よそよそしい態度を取られてしまうかもしれない。
それでも、失礼を犯した自分を対等に扱ってくれた人たちに、伝えぬままにはできなかった。
膝の上で拳を握りしめ、覚悟を決めて口を開きかけた――まさにその瞬間。
「――あぁ、もしかして、水鏡の勇者様だっていう話ですか?」
ヴィンセントが、手にした果実酒のグラスを優雅に揺らしながら、事も無げに言った。
「…………え?」
翔馬の思考は完全に停止した。
目を丸くし、間抜けに口を半開きにして固まる青年の前で、ボリスが卓をドカンと叩いて大爆笑を始める。
「ガッハハ!! おい見ろよ! エスティのツラ!! こんな腑抜けた顔すんのかよ!?」
「……え、ちょ……? えっ……!? な、なんで知って……!?」
「ふふふ……。甘く見られては困ります。貿易都市が取り扱うのは、“物資”だけではないのですよ?」
ヴィンセントが楽しそうに目を細め、琥珀色の瞳を妖しく光らせる。
「情報。それも有力な“商品”なのです。……つまり『ハルト王城で、黒髪黒目の男が剣を掲げて名乗りを上げた』という“商品”は、随分前にこのテノラーダへも“到着”しているのですよ。……あとは『王城の扉をド派手に蹴破って突入した、怪力無双の勇者様』というのも、ね。フフッ、貴方がそんな真似をするとは驚きました」
「え? いや! 最後! 全然違う! それガルファンさんですからね! 大扉を壊したの、僕じゃないですからね!?」
商人の噂話特有の、尾ひれのついた“武勇伝”に眩暈を覚えながら、思わずエールの注がれたジョッキをダンと置くと、立ち上がって早口で否定した。
翔馬の必死な姿を見たガルファンは、酔いで顔を赤くしたままジョッキ片手に「扉吹ッ飛ばしたの俺~! でもぉ~指示したのコイツ~!」と、頭をふらふらと揺らしていた。
「ガルファンさん!? あの時はああする以外なかったって言ったじゃないですかぁ!」
その二人の姿を見て、一瞬の沈黙。そして一同が腹を抱えて笑う。
「……ったく。ま、俺らにしてみれば、勇者だろうが、おとぎ話の英雄だろうが、どっちでもいい」
バートンが目尻の涙を拭いながら、翔馬に向き合い、大きな掌で翔馬の背中をバチンと叩いた。
「お前が、俺らに生意気な口を叩いた“クソガキ”だってことは変わらねえからな」
「そうだぜ! 今さら勇者様ヅラされても、誰も敬いなんかできねえって! ガハハ!」
「ふふふ……そのとおりですね。貴方はどこまでいっても、この貿易都市の“仲間”なのですから」
ボリスにヴィンセントが続ける。
翔馬は、背中の背中を擦りながら、呆気にとられて三人の顔を見回した。
からかい、笑い飛ばし、けれどその奥にあるのは、一切の壁を作らない信頼と愛情そのものに見えた。
肩書きは関係ない。現場で汗と泥にまみれた日々を共に送った“エスティ”という人間を、そのまま受け止めていた。
胸の奥底に張り付いていた澱みが、温かく溶け去っていったのだった。
◇
(……ホント敵わないな、あの人たちには……)
昨夜の情景を思い返し、翔馬は客間の窓辺で自然と笑みをこぼした。
床では相変わらず、ガルファンが大の字になって豪快ないびきを掻いている。
この男が起き出すのを待っていたら、一日が丸ごと吹き飛んでしまいそうだった。
「……よし。行ってこよう」
翔馬は緑のチュニックを着込み、腰に蒼穹の剣を佩く。
ガルファンを起こさぬよう、足音を忍ばせて客間の扉を静かに押し開けると、足早に神殿の門をくぐり抜けて倉庫街へと向かった。
春の清々しい朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。
早朝の倉庫街は、すでに活気ある怒号と車輪の軋みで満ちていた。
立ち並ぶ巨大な紫黒石の倉庫群の一角、七番倉庫と八番倉庫の間に差し掛かった瞬間、翔馬の足がピタリと止まった。
「……あ」
翔馬の瞳が、目の前の光景を食い入るように見つめた。
かつて自分が図面を引き、カルロと三人の親分たちに提案した改善計画は、古い備品庫を撤去して新設された車列路と、奥へと続く荷役用の新しい通路を造るものだった。
だが、そこに広がっていたのは、翔馬の頭の中にあった“整然とした美しい図面”とは、まるで違う光景だった。
「そこ、三番の樽を回せ! 青の三角だ!」
「あいよ! 角の待避所に入れておくぞ!」
現場を行き交う人足たちの掛け声に、翔馬は歩み寄りながら細部を観察した。
計画の中で、翔馬が文字と数字で仕分けようとした荷札は、木箱の側面に大きく描かれた丸、三角、四角といった図形の印へと変わっていた。
文字が読めない若い人足でも、遠目から一目で積み場が分かる工夫が施されている。
通路の幅も、翔馬が定規で引いた均一な直線ではない。荷馬車がすれ違う要所だけが意図的に広く取られ、逆に、荷車を一時的に退避させて荷下ろしを待つための窪みが、壁のあちこちに新しく削り出されていた。
荷役用の道具は一箇所に綺麗に並べられるのではなく、作業区画ごとの柱へ吊るされ、手を伸ばせば即座に掴めるようになっている。
さらには、毎日頻繁に出し入れされる穀物の袋が、保管指定位置である奥の棚ではなく、入口に近い手前の土間にうず高く積まれていた。
壁には、人足たちが炭で殴り書きした『本日分・朝出荷』という巨大な目印まで。
(……計画と全然違う)
翔馬の脳裏に、かつて仕上げたあの羊皮紙の図面がよぎる。
だが、目の前にあるのは、現場の人間が、自らの手と身体の使い勝手に合わせて調整したものだった。
結果、荷車は詰まることなく、誰かが荷を下ろせば、別の誰かが流れるように引き継ぎ、奥へ運んでいく。
怒号は相変わらず飛び交っているが、苛立ちや疲労の濁りはない。自らの持ち場を淀みなく動かしている、誇らしげな熱気が満ちていた。
「……僕の案じゃあない」
思わず零れ落ちた呟き。その背後から、手帳をパンと閉じる乾いた音が響いた。
「あったりまえだろ! 俺たちの現場なんだからよ!」
その声に振り返ると、作業着の袖をまくり、首に手ぬぐいを巻いたバートンが立っていた。
バートンは手帳で翔馬の額をぺしと叩くと、腕を組み、顎をしゃくって活気にあふれる倉庫を見つめている。
「お前さんが置いていった図面は、いい“材料”だった。だが、材料のままじゃ飯は食えねえだろ。使えるところは使って、合わねえところは変えて、足りねえとこは現場の人間が知恵を絞って足した。それだけのことだ」
バートンは白い歯を見せ、ニカッと笑った。
「どうだ、エスティ。文句あるか?」
「…………」
翔馬は、もう一度、汗を流して働く人足たちを見つめた。
端切れを結びつけられた木箱が、リレーのように運ばれていく。不格好に広げられた通路を、荷馬車が危なげなくすれ違う。
自分が蒔いた種を、現場に生きる人々が自らの意志で選び取り、作り変えてくれた。
胸の奥底から、言葉にならない温かい熱が、じわりと全身へ広がっていく。
「……文句なんてとても。僕が考えたものより、ずっとずっと凄いです。……ありがとうございます、バートンさん。皆さんの仕事が楽になったなら、本当に嬉しいです」
翔馬は顔を上げ、心からの笑顔をバートンに向けた。
照れくさそうに鼻を擦ったバートンは、大きな掌で翔馬の肩を無骨に叩いた。
現場の喧騒の中、二人の間に流れる空気は、どこまでも澄み切っていた。
翔馬が神殿へ戻ったのは、太陽が天頂へと昇りかけた頃だった。
翌日の出立に備え、買い出しや馬車の点検をしておいたほうが良さそうだと足早に戻り、見慣れた赤銅色の門をくぐる。
すると、入口の石段で、目を糸のように細くしぱしぱと瞬かせながら、幽霊のように佇んでいる男が視界に入った。
「……ガルファンさん……?」
「……うぅぅ……頭が割れる……。……あぁ、エスティか……どこ行ってやがった……? ぐぅぅ……日差しが目に刺さる……」
いつもの手甲が着けられておらず、野性味あふれる雰囲気も完全に消え失せ、ただの重度の二日酔いの男がそこにいた。
今にも口から魂が抜け出しそうな顔をして、いつもとは違うかすれ声を、やっと絞り出していた。
「ええと……倉庫街を見学してきたんですけど……。……ガルファンさん、明日の準備も無理そうですね?」
「すまねえ、もう少し寝かせてくれ……チャコとチャイに嫌われる気しかしねえ……」
そう言うなり、ガルファンはふらふらと神殿の奥へ引き返していった。
その背を見送りながら苦笑いしていると、二人の姿を見かけたか、回廊から軽やかな足音が近づいてきた。
「エスティ」
声をかけてきたのはレオナだった。その表情は柔らかく、プラチナシルバーの髪が春風にふわりと揺れている。
レオナは翔馬の前に立つと、その顔をじっと見つめ、ふっと愛らしげに目を細めた。
「……なんか、すごくいい顔してる」
「え? そうかなぁ?」
「うん。とても清々しくて……見てる私まで、なんだか温かくなっちゃうような」
何を見てきたのか、どんな言葉を交わしてきたのか。レオナはその詳細を深く問い質そうとはしなかった。
ただ、翔馬が何か大切なものを見てきたことを、その表情だけで受け止めた。
「……そっか。……じゃあ、レオナ。このあと少し付き合ってくれる? オルバ神官長に加護のお願いをしたくて……」
「はい! 喜んで!」
二人は並んで、神殿の最奥――祈祷の祭壇へと向かった。
静まり返った祭壇の間。赤銅色の炉床で、ひと筋の焔が静かに燃え上がっていた。
水神の神殿のような、包み込まれるような冷涼さはない。だが、荒々しく燃え盛る火柱もない。
祭壇の前で静かに膝をついた翔馬を、神官長オルバが温かな眼差しで見守っていた。
「……エスティ殿。心は定まったかな?」
「はい」
翔馬は胸の前で手を組み、揺らめく焔を見つめた。炉床の上で踊る炎は、決してひとつの形に留まらない。
風に揺れ、薪の形に寄り添い、絶えずその姿を変えながら、けれど決して消えることなく確かな熱を放つ。
(……形を、決めつける必要なんかない)
翔馬の脳裏に、倉庫街の光景が蘇る。
自分が渡した図面と違う形に作り変えられ、けれど確かに現場の熱となっていた仕組み。
火種は渡すことができる。けれども、どう薪を組み、どう燃やすかまで、自分が決めてよいわけでもない。
――チリリ、と胸の奥が熱を帯びた。
祭壇の焔から、淡い光が粒となってふわりと立ち上り、翔馬の全身を優しく包み込んでいく。
左手首の紫黒石のブレスレットが、その輝きを受け止めるように柔らかく明滅した。
水の加護が『尽きることなく、滾々と湧く澄んだ泉』であるならば、炎の加護は『身体の芯で、赤々と熱を放ち続ける熾火』のようだった。
凍えた指先を温め、前へ踏み出す勇気を与えてくれる、静かで力強い熱。
「……見込んだとおり、そなたの心は道標の光。その温かな光を――炎を、いつまでも絶やさぬように」
オルバの厳かで温かな声が、静寂に満ちた祭壇の間に染み渡っていった。
◇
翌朝――すっかり二日酔いから復活したガルファンが御者台に座り、馬車の前で手綱を力強く握り直していた。
チャコとチャイも、二日間の休養で完全に体力を取り戻し、心地よさそうに鼻息を鳴らしている。
神殿の門前には、ガルヴィンをはじめとするレニム家の一族や、僧侶たちがずらりと並んで見送りに立っていた。
だが、そこにカルロや、バートンたち三人の頭元締めの姿はない。
「……あの親分連中、とうとう顔見せに来なかったな」
御者台から見下ろすガルファンが苦笑混じりに呟いたが、その声に不満の色は微塵もなかった。
彼らが今この瞬間も、膨大な物資と人間が渦巻く現場の最前線で、泥に塗れて戦っていることを知っている。
仕事を放り出してまで、別れの感傷に浸るような真似は、あの男たちの流儀ではないことも。
「エスティ殿。カルロ様や御三方から、こちらが」
ガルヴィンが進み出て、抱えていた包みを翔馬へと手渡した。
丁寧に解かれた布の中から現れたのは、深い灰色の、薄手で仕立ての良い旅用の半外套だった。
肩から背中を軽やかに覆う短い丈。縁にはテノラーダの職人による幾何学模様の美しい刺繍が施され、胸元には、鈍い深紫の光を放つ紫黒石の留め具がしっかりと設えられている。
添えられていた手紙には、ヴィンセントの美しい筆跡で、ただ短い言葉だけが書かれていた。
『旅商人が使う実用品です。西の草原は風が強いと聞きますが、暑くなれば冬用の厚い外套より、こっちの方が役に立つでしょう。それでは、良い旅を』
「……ふふっ」
翔馬は、思わず笑みをこぼした。実直で、飾らず、けれど旅立つ者の無事を誰よりも願う、現場の男たちならではの心遣い。
その粋な贈り物に感謝しながら、翔馬は半外套を羽織ると、胸元に設えられた紫黒石の留め具をパチンと留める。
驚くほど軽く、けれど春のまだどこか冷たい風をしっかりと遮ってくれるそれに、再び笑みが漏れた。
「よく似合っておられますよ、エスティ殿」
ガルヴィンが静かに微笑み、バルザックが丸太のような腕を組んでガハハと豪快に笑った。
「我が息子よ! 勇者のため、その拳を存分に振るって参れ!」
「へっ、言われなくてもな!」
ガルファンが手綱を鳴らし、パチンと乾いた音が春の空に響き渡った。
二頭の蹄が力強く石畳を蹴り上げ、馬車が滑らかに動き出す。
窓から身を乗り出した翔馬とレオナは、手を振る神殿の人々へ向けて、大きく腕を振り返した。
「じゃあ、また!!」
見慣れた紫黒石の巨壁が、少しずつ遠ざかっていく。
胸元に灯る温かな炎と、師たちから受け取った粋を纏い、一行を乗せた馬車は一路、未だ見ぬ西の地平――草原の国ファルーダへ向けて力強く走り出した。




