第56話 紫黒の街、ふたたび
城郭都市ラグロニーネを出立してから、およそ三週間が過ぎていた。
街道沿いの木々は、芽吹いたばかりの柔らかな若葉から、日増しに力強さを増す瑞々しい青葉へと移り変わっていた。
翔馬たちは、テノラーダまでの道中、かつて立ち寄った宿場町クロイツで一泊の宿を取っていた。
初めて訪れた際、翔馬は頭の中で計算した正論だけを振りかざし、住人や商人の生活を顧みずに自らの理屈を押し付けた。それが過ちであるとテノラーダで思い知り、王都へ向かう道中で深々と頭を下げて謝罪したあの街。
今回訪れたクロイツでは、宿の主人や役人たちが、かつてのような権力への恐れや諂いではなく、「無事にアルアバを越えたんだな!」と、純粋な歓迎の笑顔で迎えてくれた。
そして、険しいゴラン峠を越え、風の吹きつける荒地を進み、やがてテノラーダを抱く外輪山の稜線を下りきる。
――春霞の向こうに、大地から切り出された漆黒の巨壁がその全貌を現した。陽光を浴びて深紫の鈍い光を放つ、巨大な石の防壁。
ハルト王国をはじめ、大陸各地を結ぶ八本の街道が交差する要衝にして、鉄と炎の都――貿易都市テノラーダ。
「見えてきたぜ! 懐かしのテノラーダだ!」
御者台からガルファンの野太い声が飛ぶ。前を曳くチャコとチャイが、見慣れた風の匂いを感じ取ったのか、嬉しそうに甲高い鼻息を鳴らして蹄の音を弾ませた。
前と同じ、東の大門をくぐり抜けると、立ち並ぶ重厚な紫黒石の建築群と、耳を圧するほどの喧騒が一行を包み込んだ。
大型の荷馬車が車軸を軋ませながら、次々と倉庫へ吸い込まれていき、それとは別に、小型の荷車が隙間を縫うように散っていく。
かつてはただの混沌にしか見えなかった人と物の奔流が、いまやそれぞれの生活と役割を乗せて脈打つ、ひとつの巨大な生態系として翔馬の目に映る。
荷役たちの怒号交じりの掛け声、立ち上る香辛料と、鉄を打つ熱気。
半年前、何者でもなかった少年が打ちのめされ、泥水を啜って立ち上がった街の呼吸が、変わらずそこにあった。
「……なんか、懐かしいな」
「テノラーダで過ごした日々が、なんだかずいぶん昔のことに思えてくるね」
隣で窓の外を眺めていたレオナが、プラチナシルバーの髪を揺らしながら柔らかく微笑んだ。
その髪に輝く紫黒石の髪留めと、翔馬の左手首にあるブレスレット。この街で手に入れたふたつの思い出が、窓から差し込む陽光を静かに反射している。
「うん。……帰ってきたんだなって気がするよ」
翔馬が小さく息を吐いたその時、御者台の小窓からガルファンが顔を覗かせた。
「さてエスティよ、まずはどこへ行く? ひとまず宿でも取って荷を下ろすか?」
「……いえ、ガルファンさん。行きたい場所があります」
翔馬は背筋を正し、街の中央にそびえる赤銅色の屋根を見据えた。
「炎神の神殿へお願いします。オルバ神官長や、皆さんへ……無事に戻ったことと、これからの旅の報告をしなきゃいけませんから」
「へっ、違えねえ! よぉし、神殿へ回すぞ!」
ガルファンが白い歯を見せて手綱を操り、馬車は行政区画の中央へと進路を取った。
◇
重厚な紫黒石の列柱と、天を衝く赤銅色の屋根。背後に並ぶいくつもの煙突からは陽炎が揺らめき、周囲の鍛冶工房からカーン、カーンと澄んだ金属音が規則正しく響き渡る。
神殿の鉄門前に馬車が滑り込んだ瞬間、門前にいた武闘僧侶たちの中から、一際長身で引き締まった体躯の男が進み出てきた。
「……ガルファンか」
眉間に深い皺を刻み、寸分の隙もない立ち姿を崩さない男――ガルファンの実兄、武闘僧侶隊隊長のガルヴィン・レニム。その両手には、以前とは異なる、しかしガルヴィンの実力を損なうことのない造りと分かる黒い手甲がはめられていた。
御者台から飛び降りたガルファンが、その表情を見ながら苦笑混じりに手を挙げた。
「おう、兄貴。戻ったぜ……って、相変わらず堅ぇツラしてんな。出迎えるときくらい笑ったらどうなんだ?」
「……ふん。お前は相変わらず無駄口が減らんようだな」
ガルヴィンはつれない言葉で弟を一瞥したが、馬車を降りてきたレオナ、そして翔馬の姿を捉えると、その表情をわずかに緩めた。
あの日、修練場の冷たい石床で泣き崩れていた少年。だが今、腰に長剣を佩いた翔馬には、それを持て余すような所在なさがない。
そして何より、以前のように視線を落とすことなく、真っ直ぐこちらを見返していた。
ガルヴィンは、即座に居住まいを正すと、右拳を左掌に打ち当てて胸の前へ掲げる――武門の格式高い礼をとった。
「レオナ様、エスティ殿。お二人が旅立つとの報せは、水神の神殿よりこちらにも届いております。長旅、真にご苦労にございました。……両親も、貴方がたが到着次第、直ちに案内せよと息巻いておりましてな。……このまま素通りされてしまいますと、私が父から鉄拳を喰らうことになります故、どうぞこちらへ」
「……ぶはっ! どうしたってんだよ! 兄貴もとうとう冗談を言うようになったのか!?」
腹を抱えて兄を見やるガルファンに、ガルヴィンが煩わしそうな視線を向け、わずかに眉を寄せる。
兄弟のやり取りに翔馬とレオナが頬を緩ませていると、神殿の奥から、回廊を揺らす足音が近づいてきた。
「ガハハハ! 到着されたか!」
地響きのような豪快な笑い声。現れたのは、白髪交じりの短髪に凄まじい威圧感を纏う巨漢――武闘僧侶総長、バルザック・レニム。
その隣には、深紅の神官服を優雅に着こなした母、マリアーネが慈愛に満ちた笑みをたたえて控えていた。
「うむ! よくぞ戻られた、エスティ殿! それにレオナ様も!」
「エスティ様、レオナ様。お元気そうで安心いたしました。さあ、どうぞ中へ」
手を取りかねない勢いで温かく迎える両親に、ガルファンは「まったく、いつも大袈裟なんだよ」と首筋を掻いてそっぽを向いたが、その口元は隠しようもなく綻んでいた。
「なんか、安心した」
「……ええ。こうして温かく迎えていただける場所があること、本当に心強い」
遠く離れた地であっても、自分たちを受け入れ、無事を喜んでくれる人たちがいる。
それはラグロニーネでも、このテノラーダでも同じなのだと、翔馬はレオナと顔を見合わせて微笑み合った。
◇
案内されたのは、神殿最奥にある祭壇の間。
外の熱気が嘘のように遮断された静謐な空間で、深紅の法衣を纏った老神官長オルバ・ケラーが、穏やかな眼差しで一行を迎え入れた。
「……よくぞ無事に戻られた、エスティ殿、レオナ殿。そしてガルファンよ」
オルバの深く理知的な双眸が、翔馬の腰に佩かれた蒼穹の剣、そして何より、その黒い瞳に宿る静かで揺るぎない光を捉えた。
「ハルトイニアでの一件、水神の神殿よりの親書にて聞き及んでおる。……自らの意志で水鏡の勇者として名乗りを上げ、彼の国の危機を救ったとな」
「……国の危機、なんて言うと大袈裟ですけれど……」
翔馬は静かに首を振り、一歩前へ進み出た。
「オルバ神官長。あの時、神官長が示してくださった『道標の光』の言葉があったからこそです。僕は迷わずに、助けたい人を助けられました」
翔馬は左手を掲げ、手首に巻かれた紫黒石のブレスレットを見つめた。
指先でそっと触れると、銀細工の印を通して、微かにチリリと心地よい温もりが巡る。
「……僕は、僕自身がどうしてこの世界に来たのか、自分の目で確かめてみたいと考えています。ここから先は、初代勇者アースムの足跡を辿る旅です。そのために……この炎神の神殿で、精霊の加護をいただけないでしょうか」
青年の真っ直ぐな眼差しに、祭壇の間へ静かな沈黙が満ちる。
オルバは翔馬の黒い瞳をじっと見据えると、やがて深く、満足そうに頷いた。
「ふむ……。エスティ殿、覚悟を決めたそなたへの加護の儀式、いつでも執り行おう。……バルザック、マリアーネ。我が神殿は、この勇者へ持てる限りの力を尽くして報いるぞ」
「応とも! 旅に必要な物があれば言え! 我らに用意できるものなら、いくらでも力になろう!」
バルザックが丸太のような腕で胸を叩き、ガルヴィンも無言で深く首肯した。
その横で、ガルファンが「だから大袈裟だっての」と苦笑いを零していたが、家族と神殿の力強い温もりが、翔馬たちの胸の奥を満たしていった。
翔馬たちは、炎神の神殿、そしてレニム家の手厚い歓待を受けたあと、ひとまず客間に旅の荷を下ろし、オルバの勧めで領主館へと使いを出した。
初めてこの街を訪れた際は、神殿を通じた正式な依頼を立ててなお、カルロとの面会を取り付けるまでに数日間の待機を要した。
しかし――使者を出してからわずか半刻の後、領主館の側近自らが神殿へ馬車を寄越し、恭しく頭を下げたのである。
「シュタイン侯爵閣下より、直ちにお連れせよとの命にございます」
翔馬たちはその迅速極まる対応に面食らったが、誘いに応じて、テノラディア侯爵家の紋章が入った馬車へと乗車した。
やがて、走り出した馬車の向かいに座るガルファンが、ニヤリと口元を吊り上げて翔馬を見る。
「へっ、カルロのオッサンも、お前の顔が見たくてたまらねえと見えるな」
「……かえって怖いんですけど……」
馬車に揺られ、行政区画の最奥にそびえる領主館へ。
切り出された紫黒石が寸分の隙もなく組み上げられた要塞のごとき館を抜け、通されたのは、かつて翔馬が二度にわたって自らの覚悟を試された執務室だった。
重厚な黒石の執務机の奥。白髪の混じる赤茶色の短髪に、鷹のように鋭い眼光。実用的な革の胴甲を纏い、山積みの決裁書類を前に座っていた男――テノラディア侯爵カルロ・フォン・シュタインが、扉の開く音とともにゆっくりと顔を上げた。
「待たせたな。……まったく、書類仕事ばかりで敵わん」
低く、威厳ある声。カルロは卓上の羽ペンを置くと、椅子を引いて立ち上がり、大股で翔馬たちの前へと歩み寄ってきた。
その鋭い双眸が、翔馬の全身を、そして背後に立つレオナとガルファンを頭から爪先まで検分するように撫で回す。
「ふむ。ハルトイニアで派手に暴れた挙句、エドアルド王の前で啖呵を切ったと聞いたが……五体満足で戻ったようだな、エスティ殿」
「はい、侯爵閣下。……あの時は、緊急通行証と馬車の手配、本当にありがとうございました」
翔馬が深く頭を下げると、カルロの口元の端がわずかに吊り上がった。
「礼には及ばん。己の意志で進み、掴み取った結果なのだろう? 胸を張れ」
軽薄さなど微塵もない、百戦錬磨の領主としての賛辞に、翔馬は自然と口元を緩め、ふっと息を吐いた。
カルロは腕を組むと、部屋の隅に控えていた従者へ視線を向けた。
「さて、積もる話もあろうが……エスティ殿。突然ではあるが、貴殿の無事の帰還を祝し、ささやかながら一席設けさせてもらいたいと考えている。どうかね?」
「え……? それは大変ありがたいのですが……侯爵閣下はお忙しいのでは?」
驚く翔馬に、カルロは不敵な笑みを深めた。
「ふん。ここで何もせず帰してしまうほど、我がテノラーダは冷たくない。……それに、既にあの三人にも声をかけてしまっていてな」
「え……? 会長さんたちも……?」
翔馬の脳裏に思い浮かぶのは、テノラーダで現場の厳しさ、泥臭さを身をもって体感させてくれた三人の“師”の顔だった。
「当然だろう? 貴殿が残していった『宿題』の成果を、あの連中がどれほど楽しそうに語っていたか……その耳で、目で、直接確かめるといい」
カルロの言葉が終わるか終わらないかの瞬間、扉の外がにわかに慌ただしくなり、執務室の重い扉がバンッと豪快に開け放たれた。
先頭に立つ男が翔馬の姿を認めるなり、太い眉を跳ね上げた。
「おいおい! 本当に帰ってきてるぞ!」
響き渡った野太い怒声とともに姿を現したのは、作業着の袖をまくり上げた物流の頭元締め、バートン。
その後ろには、胸板の分厚い皮鎧を軋ませて豪快に笑う倉庫組合のボリス、そして仕立てのよいシルク服のポケットで、金貨をチャリンと鳴らす商業のヴィンセントが並んでいた。
「バートンさん! ボリスさん、ヴィンセントさん!」
「ガハハ! 元気そうじゃねえか、エスティ!」
ボリスが丸太のような腕で翔馬の背中をドカンと叩く。
翔馬の身体が前へのめりかけたが、足裏でぐっと床を踏みしめ、苦笑いしながらもしっかりと踏みとどまった。
「相変わらず、忙しいところで呼び出されましてね……ですが」
ヴィンセントが翔馬を見ながら、ポケットから金貨を取り出して、手の中で遊び始める。そして、口元をニヤッとさせた。
「ハルト王城を引っ掻き回した若者がいると、商人の間じゃ随分な噂になっているのですよ。話を聞けば聞くほど、どうにも覚えのある“クソガキ”でしてね。……そんなことをやらかすとしたら、我々の“弟子”以外にないでしょう? そんな面白そうな話、聞かないわけにはいきませんよ」
ヴィンセントが細い目をさらに細めて微笑む。
バートンは手帳を小脇に挟み、太い腕を組むと、白い歯を剥き出しにしてニカッと笑った。
「いつぞやお前が偉そうに言いやがっただろ。“一人で全部抱え込むな”ってな。だから今日は副官どもに押し付けてきたってわけだ! さあエスティ、積もる話は酒と肉を喰らいながらだ。今夜は付き合ってもらうぞ!」
翔馬は目をぱちくりとさせながら、三人の顔を見回した。
そして隣のレオナとガルファンへ視線を向けると、二人は何も言わず、誇らしげな笑顔で頷いてみせた。
「はい! ぜひ!」
厳しい冬を越え、再び巡り合った師たちの眼差しに囲まれながら、翔馬もまた、自然と笑っていた。




