幕間Ⅳ 静かすぎる屋敷
翔馬たちが北へ向けて旅立った翌朝のこと。
城郭都市ラグロニーネに建つ領主の屋敷は、うららかな春の陽光に包まれていた。
だが――屋敷の中を歩くリーデルの眉間には、どうにも居心地の悪そうな皺が刻まれていた。
「……」
長い廊下に響くのは、自らの革靴の足音だけ。
静かだった。あまりにも静かすぎる。ここひと月と少々、朝から中庭で「そんなもんか!」「動け! 足が止まってんぞ!」と叫ぶガルファンの野太い怒声や、手甲を打ち鳴らす耳障りな金属音、そして翔馬の「えぇぇい!」と半ば自棄になったような声が響き渡っていたはずなのだ。
それが今朝は、庭で遊ぶ小鳥の囀りしか聞こえてこない。違和感を覚えながら首を傾げ、一階中央西奥の大広間、その横にある厨房を通りかかる。
ちらりと見えたそこには、料理長が巨大な鍋を前に呆然と立ち尽くしている姿があった。
「……どうしたんだい、料理長。味付けに失敗でもしたのかな」
「あ、リーデル様……。いえね、習慣ってのは恐ろしいもんでして……」
料理長はお玉を握りしめたまま、心底困り果てた顔で鍋のスープをかき混ぜた。
「ここしばらく、ガルファン様が来られていたでしょう? おかわり用の大鍋も、エスティ様が『美味しいです!』って平らげてた夜食のパンも、レオナ様にお出しするハーブクッキーも……もう作らなくていいんですよね。頭じゃ分かってんですが、うっかり三人分多く仕込んじまいまして……。こんなに余って、どうすりゃいいんでしょう……」
はぁとため息を吐きながら、寂しそうな目をする料理長に、リーデルは肩を竦めて答えるしかなかった。
「……衛兵たちに、多めに分けてあげるといいんじゃないかな」
苦笑いで厨房を後にしたリーデルは、次に東翼の一階――騎士の詰め所の前を通りかかった。
そこでもまた、非番の警備騎士たちが、手持ち無沙汰そうに腕を組んで天井を見上げていた。
「あっ、リーデル様! おはようございます! ……いやぁ、気味が悪いですね」
「……どうしたんだい?」
「何がって、上ですよ」
騎士が天井――直上にある書庫を指差した。
「いつもなら、本を抱えすぎて『うわっ』とか言ってる声とか、衛兵に『そんなに持てる!?』って止められてる声が響いてくるでしょう? あれが聞こえてこないと、なんだか時間が止まったみたいで、調子が狂ってしまいまして……」
「あー……」
リーデルの脳裏に、あの“本の虫”の表情が浮かぶ。
「……静かなのも何か寂しいな、と思いまして……」
そう零す騎士たちに呆れた表情を浮かべつつ二階へ上がると、今度は廊下の角で、空のトレイを抱えた若い侍女が三人、肩を落としてため息を吐いていた。
「私、毎朝レオナ様が『エスティ、朝ですよ!』ってお部屋へ呼びに行かれる、あの可愛らしいお姿を楽しみにしていたの……」
「分かる……。あたしも、これから何を楽しみに朝を迎えたらいいのかしら……」
「お二人が書庫から出てくる姿も、仲睦まじくて好きだったわぁ……あれが“推し”ってやつなのかしらね……」
「それも分かる……とても分かる……」
「……あたし、“推し”の喪失に耐えられない……」
(……えぇ……そんなことまでしていたのか、あの子は……。……というか、以前エスティが呟いていたその妙ちくりんな言葉は何なんだい……)
侍女たちの喪失感たっぷりな表情に、再び呆れた表情を浮かべたリーデルだったが、背後に音もなく控えていた老執事――ギルバートの方を振り返った。
「……やれやれ。静かだね、ギルバート」
「はい、リーデル様」
「…………静かすぎて、落ち着かないどころか不気味ですらあるよ」
「左様でございますな。屋敷の者たちも、すっかり調子を狂わされているようで」
すまし顔の老執事の目元には、微かに困惑が入り混じっていた。
翔馬、レオナだけでなく、王都から戻ってからはガルファンも頻繁に屋敷へ出入りをしていた。
何ヶ月か前。リーデル自らが用意した“公務”として、三人がテノラーダへ旅立った時も、屋敷は静かだった。
だが、なぜだろう。今朝の静けさは、あの時とはまるで違って感じられた。
「……静かなのは、けっして嫌いではないんだがね」
そうつぶやくリーデルに、ギルバートは何を言うでもなく、ただ静かに目を閉じるだけだった。
◇
執務室へ向かう前、リーデルはふと足を止め、西翼の奥にある客間の前で立ち止まった。
そこは、つい昨日まで、あの黒髪の青年が使っていた部屋だった。
ドアノブに手をかけ、静かに押し開ける。
朝の澄んだ光が差し込む室内は、チリひとつなく綺麗に整頓されていた。机の上に並んでいたはずの、何冊もの分厚い古書も、走り書きされた羊皮紙のメモもない。
本人は、もうここにはいない。みっつ隣にある、妹の部屋も同じだ。
リーデルはゆっくりと部屋の中へ入ると、ふと視界に入った衣類棚の扉をそっと開けると、棚の最奥に見覚えのある衣服が置かれていた。
「……あの子は、これを置いていったんだね」
あの少年が初めてこの屋敷へ訪れた日に着ていた、元の世界の衣服。
――紺色のブレザーが、皺ひとつなく丁寧に畳まれて残されていた。
「はい。エスティ殿は『今の僕は、自分の足で歩きたい。だから、帰ってくるまで、預かっていただけませんか』と、仰っておられました」
「……フフ、帰ってくる……か。仕方ないね。じゃあ、預かってあげるとしようか」
ギルバートの静かな声に、リーデルはふっと息を吐くと、口元を緩めてそっと木扉を閉める。
意図はしていないだろう。ただ「帰ってくる」の一言が、リーデルの胸で温かく広がっていくのを確かに感じていた。
翔馬の部屋をあとにして執務室へと向かい、いつもの豪奢な執務机の前に腰を下ろす。
ふうと息を吐くと、ドアの横に控える老執事へぽつりと呟いた。
「少し前までの私は、きっとレオナを旅に出そうなんて考えもしなかっただろう。安全な場所に閉じ込めることが守ることだと……私の義務だと思い込んでいた」
リーデルの青い瞳が、遠い過去をなぞるように細められる。
ハルトイニアの王城、その大会議室で涙ながらに叫ぶレオナの姿が脳裏に浮かぶ。
「だが、もう誰かに守られ、奇跡を祈る少女じゃあない。レオナ自身が選んだ道だ。自分の足で荒野を歩めるほど、強くなったんだ」
ギルバートは、ただ深く頭を垂れ、穏やかな笑みを浮かべた。
「はい。きっと、エスティ殿の存在も大きかったのでしょう。あの方も随分と変わられました。あの日、この屋敷の廊下ですれ違う使用人の一礼にすら肩を丸めて怯えていた少年が……王城の大扉を蹴破り、自らの意志で剣を抜こうとは」
「……フフ、よく言うよ。君はそれに賭けていただろう? ……対して私は、あの子には何もできないと思っていたはずなんだがね」
リーデルは自嘲気味に口元を歪めた。
見る目がなかった、と言えばそうなのかもしれない。だが、そうは言わなかった。
「……いや。あの時は、本当に何もできなかったんだ。だから、私は平穏という名の檻を用意した。……それでも、“きっかけ”さえあれば、人は変わることができる。それはあの子が教えてくれたことだね」
リーデルは立ち上がると、窓の外を見つめた。屋敷の窓から見えるのは、春の風に揺れる木々。
ここから北へと続く街道は見えない。しかし、泥臭くもがき、何度も壁にぶち当たっては膝の土を払い、前を向こうとしたあの少年の姿が脳裏に浮かんだ。
「失礼ながら、リーデル様もずいぶんと変わられたように存じます」
「フン。あの子がきっかけというのは、些か不本意だがね」
リーデルは再び机に向き直り、老執事にニヤリと悪戯っぽく笑った。
「あの子たちの旅は、世界の広さを確かめる旅だ。この先で何を見ることになるのかなんて、あの子たち自身にも見えていないだろうね。……だからこそ、帰ってきたときに、一体どこまで成長しているのか。私はそれが楽しみでならない」
春の柔らかな風が、広大なハルトの大地を駆け抜けていく。世界は、彼らが思っているよりも、ずっと、ずっと広い。
そこへ踏み出していった三人の背中に、若き領主は静かな祈りを重ね、老執事はただ黙って頷いていた。
「そうだ、ギルバート。ひとつ訂正しておこう。王城の扉を吹き飛ばしたのはガルファンだよ。間違えると、あの子から文句を言われるから、重々気をつけた方がいい」
「はっはっは。それはとんだ失礼を。心に留めておくとしましょう」
リーデルとギルバートはそうして笑い合う。
やがて、執務椅子に腰掛けたまま、大きく伸びをして背筋を正すと、端正な顔にいつもの冷徹で不敵な笑みを戻した。
「さて、あの子たちが帰ってきた時のためだ。呆れられない程度には、仕事を片付けるとしよう」
「左様でございますな、リーデル様。……でしたら、まずはこちらから」
ギルバートは深々と腰を折ると、足元に積まれた木箱から何かを取り出し、机の上へと乗せた。
ドササササササッッ!!
重苦しい音とともに、執務机の上に積み上げられたのは、極めて分厚い羊皮紙と帳簿の巨大な束だった。
「……んー?」
リーデルの動きが、完全に凍りついた。
淡い青の瞳から光がすうっと消え、乾いた唇がわなわなと震える。
口角が上がり、乾いた笑いが漏れた。
「……フフッ……ギルバート」
「はい、何でございましょう」
「……私は悪い夢でも見ているのかな?」
「ご安心を。これは王都ご滞在中、ならびに査察の後始末にかかる未決裁書類の、“残り半分”にございます。……エスティ殿という助っ人がおらぬ今、リーデル様ご自身に辣腕を振るっていただくほかございません」
ギルバートは寸分の乱れもない完璧な角度で頭を下げ、そして、目元にこれ以上ないほど悪辣で楽しげな笑みを浮かべた。
「茶のおかわりであればいくらでもお出しいたしましょう。ですから、どうぞ存分にお励みくださいませ、リーデル様」
「ギルバート……。君、絶対に楽しんでいるだろう……?」
「はてさて? 何のことやら、私にはさっぱり分かりかねますな。……なお、期日順に並べておりますが、こちらの“山”は本日中にご裁可いただきたく」
「……やっぱり楽しんでいるよね。……フフッ……よし、やってやろうじゃないか。このリーデルを舐めてもらっては困るよ?」
苦笑を浮かべながらやれやれと頭を抱える若き主と、涼しい顔でインク壺と羽ペンを差し出す老執事。
春の光が差し込む静かすぎる執務室で、ラグロ領主の新たな“過酷な戦い”が、静かに幕を開けたのだった。




