第54話 ただいま、ラグロニーネ
白銀の巨城――ハルト城を揺るがした動乱から、およそ一ヶ月。
カストールら現王派の権益は、先の裁定どおりに縮小され、前王派のバウアーは領地への蟄居、私兵団は解体された。
エドアルド王の決断のもと、法務官ヘナスバスによる厳格な法運用と、リーデルが示した行政再建の方策が噛み合い、特定の貴族らに牛耳られていた王国の政は、急速にその秩序を取り戻しつつあった。
それにより、王都ハルトイニアに漂っていた、どことなく張り詰めた空気は、いつしか穏やかなものへと変わっていった。
連日連夜の会議に追われるリーデルを横目に、ガルファンはフォス率いる近衛騎士団の修練場へ殴り込んでは、容赦のない稽古で騎士たちをちぎっては投げる日々を送る。やがて、騎士の何人かが弟子入りを請うほどとなり、ガルファン本人も、彼らの純粋な向上心に満更でもなさそうな笑みを浮かべていた。
翔馬はといえば、エドアルド王の特別許可が得られたのをいいことに、王城の書庫で古書を漁る日々を送っていた。やがて、それだけでは飽き足らず、王都中心部にある王立図書館へ乗り込むと、書棚を片っ端からひっくり返さんばかりの勢いで没頭した。食事を忘れてはレオナに叱られ、帰りが遅くなってはリーデルに呆れられていた。
そうして王都の新体制が徐々に整い、いよいよ四人がラグロニーネへ戻る朝が訪れた。
冬の張り詰めた冷気の中に、どこか微かな春の鼓動が混ざり始めた、突き抜けるような青空の下。
王城の正面大門には、入念に整備されたテノラーダの高速馬車に、四頭の駿馬が繋がれていた。
前列を曳くのは、すっかり長旅に慣れたチャコとチャイ。そして後列は、王家から下賜された二頭の馬だった。
「――全軍、剣を掲げよ!」
騎士団長フォスの野太い号令が、城門の石壁に木霊する。
大門の両脇に居並ぶ数十名の近衛騎士たちが、一糸乱れぬ動作で銀色の剣を抜き、天へと掲げた。
かつてこの同じ門の前で、そして大会議室の前で刃を交え、立ち塞がった男たち。その剣の切っ先は今、王城を騒乱から救い、前を向かせた者たちへの、最大級の敬意として輝いていた。
仰ぎ見る城壁のバルコニーには、王冠を外したエドアルド王が静かに立ち、力強く右手を掲げている。
リーデルがエドアルドに応じて強く頷く。
「……長居しすぎたね。……さ、帰ろうか。“私たちの街”へ」
御者台のガルファンへ声をかけ、リーデルが馬車へ乗り込み、レオナ、翔馬もそれに続く。
手綱がしなり、蹄が力強く石畳を蹴った。
白銀に輝く城門をくぐり抜け、馬車は一路、ハルト中央街道を南西へ向けて疾走を始めた。
◇
ハルトイニアからラグロニーネまでは、およそひと月の距離。
四人にとって、もはや急ぐ旅ではなかったが、それでもラグロニーネで待っている人たちがいる。
一日、また一日とラグロニーネへ近づくにつれ、空気は春の温かさを含み、雪解け水が小川となってせせらぎを響かせるようになっていた。
やがて、見慣れた穏やかな丘陵地帯が広がると、遠くの青空の彼方に、春霞の中から巨大な石壁の輪郭が浮かび上がった。
(……あ……ラグロニーネ……。帰ってきたんだ)
翔馬は、窓から遠く見える街並みに、どこか懐かしさを覚えていた。
馬車がゆっくりと東の城門を抜けると、見覚えのある市場の屋根、どこかのんびりとした人々と荷車の往来、遠くに覗く神殿の尖塔が視界に飛び込んでくる。以前は何も知らず、ただ馬車の窓から眺めていただけの景色なのに、今は一つひとつに記憶がある。
(……本当に、帰ってきたんだ……。半年ぶり……か)
やがて、街の中心付近へと進むと、沿道を行き交う街の人々から、どっと歓声が上がる。
王都で起きた動乱の報せは、すでにこの地にも届いていた。そして、領主の無事と、王都での不当な査問を退けたという報せに、市場の商人たちも、往来の職人たちも、一様に手を振って馬車を迎えた。
四頭立ての馬車が領主の屋敷前へ滑り込む。
そこにはすでに、屋敷の使用人たちや、補給廠の役人たちが揃って出迎えていた。先頭に立つのは、仕立てのよい黒の衣服に身を包み、端正に白髪を整えた老執事――ギルバート・レイン。
御者台からいつものようにガルファンが軽やかに飛び降り、続いて馬車の扉が開くと、初めに大地へと降り立ったのは、リーデルとレオナだった。それをギルバートが堪えきれないといった様子で、静かに、だが確かな足取りで真っ直ぐに歩み寄る。深く刻まれた目元の皺の奥、琥珀色の瞳が、隠しようもなく潤んでいた。
「……リーデル様、レオナ様……。よくぞ、よくぞご無事で戻られました……」
普段の冷静沈着な姿からは想像もつかないほど、その老いた声は微かに震えていた。
王都での動乱、張り詰めた査問会の報せを聞いてから今日に至るまで、どれほどの心労と祈りを重ねてきたか。二人の姿を確かめるように見つめる老臣へ、リーデルはいつもの不敵な笑みを浮かべつつも、温かな眼差しで短く息を吐いた。
「留守を任せきりにしてすまなかったね、ギルバート。……見ての通り、無傷で帰ってきたよ」
「ギルバート、ご心配をおかけしました。ただいま戻りました」
レオナが柔らかく微笑み、胸元に手を添えて頭を下げる。
かつてこの地で、心に凍てついた傷を抱えてきた二人が、王都に吹き荒れた嵐を乗り越え、以前よりもずっと晴れやかな光を瞳に宿して並び立っている。その姿を前に、ギルバートは胸を撫で下ろし、深く、長い息を吐き出した。
そして――老執事の視線は、二人を支えて帰還した者たちへと向けられた。
御者台の脇で腕を組み、ニヤリと不敵に笑うガルファン。そして、馬車のステップを踏みしめ、最後に大地へと降り立った黒髪黒目の少年――翔馬の姿を捉えた瞬間、ギルバートの息がふっと止まった。
この屋敷へ初めて足を踏み入れたあの日。少年は何ひとつ自分で決めることができず、怯え、制服のブレザーの裾を握りしめるだけの存在だった。だが、今そこに立つ少年はどうだろう。
深緑のチュニックの上に、テノラーダの幾何学文様を刻む外套を堂々と羽織り、その腰には、ハルト王家の至宝たる蒼穹の剣を佩いている。
この半年間、少年が何を見て、何を経験してきたのか、そのすべてを知る由はない。しかし、自らの意志で前に進もうとする者だけが持つ、静かで力強い光が、その瞳の奥に宿っていた。
あの日、主の命に背いてまで少年に過去を明かし、“老骨の最後の我儘”として託したひと筋の希望。その賭けは、主と妹君を救い出すという、想像を遥かに超える形で目の前に結実していた。
ギルバートの胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。
老執事は居住まいを正すと、胸にそっと右手を当て、四人へ改めて深々と腰を折った。
「……改めまして。皆様、お帰りなさいませ。この老骨、皆様のこのご無事のお姿を、今か今かと待ち望んでおりました」
そして顔を上げると、最後に翔馬へ視線を向ける。
「……エスティ殿。本当に、よくぞご無事で……。そして、お二人のために力を尽くしてくださり……ありがとうございます」
静かな声に滲む、万感の感謝と敬意。翔馬は、隣のレオナと顔を見合わせると、初春の風のように爽やかな、満面の笑顔を返した。
「ただいま戻りました、ギルバートさん」
ギルバートは目尻をわずかに緩めると、ふと翔馬の腰にある蒼穹の剣へ視線を落とした。だが老執事は何も尋ねず、満足そうに頷く。
春の柔らかな風が、城郭都市ラグロニーネの街を優しく駆け抜けていった。
◇
その日の夕刻。
馬車から荷物を下ろし、片付けに追われ、ようやく半年ぶりに自室へ戻った翔馬は、懐かしい部屋の中をゆっくりと見回した。
メイドたちの仕事のおかげか、埃ひとつない。机も、寝台も、窓辺に置かれた小さな燭台も、旅立った日のままだった。
その視線が、ふと衣装棚で止まる。
かちゃりと戸を開けると、奥には、きれいに畳まれた紺色のブレザーが残されていた。
「……懐かしいな」
半年と少し前まで、この制服だけが、自分と元の世界を繋ぐ標のような気がして、手放すことすら怖かった。
翔馬は、しばらくじっと眺めたあと、脱いだテノラーダの外套を、衣装棚の中へそっと掛けた。
◇
ラグロニーネへ帰還してから、翔馬は以前と同じように補給廠へ顔を出し、荷運びや帳簿整理を手伝いながら、空いた時間のほとんどを書庫へ注ぎ込んだ。
レオナも、神殿の日課をこなす傍ら、テノラーダの炎神の神殿で見聞きし、学んだ多くのことを神官たちへ報告していた。
ガルファンもまた、ラグロニーネに戻ってすぐにラグロ補給廠へ向かった。第四輸送隊の隊員たちと再会し、その“戦績”をじっくりと確認する。
長く不在にしていたにも関わらず、第四輸送隊の面々は、副長以下ガルファンの言いつけを守り、多少の遅れを出しはしたものの、無事故無破損で荷を前線へ届けていた。
その中心で声を張り上げている副長を眺めながら、ガルファンは何も言わず、満足そうに鼻を鳴らした。
そうして慌ただしく日常を取り戻しながら、さらにひと月ほどの時が流れた。
街のあちこちに立つ木々は若葉を芽吹かせ、風には春の到来を告げる湿り気と、柔らかな土の香りが混ざり合っている。
(う~ん……)
領主の屋敷、東翼二階。窓から差し込むうららかな陽光の中に、細かな塵が踊っている。
静まり返った書庫の奥、エスティこと高城翔馬は、机の上に何冊もの分厚い古書を広げ、苦悶の表情を浮かべていた。
(……やっぱり、そう簡単には見つからないか)
王都でエドアルド王から託された古い写本には、初代水鏡の勇者アースムの足跡が、いくつか書かれていた。
その大半は旅先での出来事や日常の記録だったが、その中には、魔を払う力を得るために、各地にある精霊を祀る神殿において、加護を授かったという記述が見られた。
以来、翔馬は補給廠での業務を手伝う合間を縫っては書庫へ籠もり、何百冊、何千冊という蔵書から目ぼしいものを拾い、歴史書や記録を漁っては、それらしいメモを羊皮紙に書き留めていた。
びっしりと文字の並んだメモは、いまやそれ自体が冊子にならんばかりの厚みになっている。
手元の羊皮紙をめくっては、ああでもないこうでもないと独り言を呟き、深いため息を漏らす。
(精霊は六柱。水、火、風、土、光、闇……。四柱の神殿はいいとして、光と闇の神殿は、どこにも具体的な場所が書かれていない……)
それは実在するのか、あるいは後世の比喩や創作なのか。さらなる手掛かりはないかと古書の文字を指先でなぞると、左手首の紫黒石のブレスレットが、淡い光を帯びて規則的に明滅した。
かつてのように脳を針で貫かれるような頭痛はない。穏やかに巡るマナが、言葉の意味をそのまま脳裏へと染み込ませてくれる。だが、手に入るのは断片的な神話の逸話ばかりだった。
「明確な記述がないな……。でも、伝承を繋ぎ合わせると、海を越えたあっちの大陸のどこかにあるような気もするんだけど……」
考えても答えは出ない。
翔馬は椅子からずり落ちるように浅く腰掛け、両手両足をこれでもかというほど思い切り伸ばした。
深呼吸をして視線を上げ、窓から差し込む陽光に目を細めた、その時だった。
「――またそんな難しい顔をしてる」
不意に、呆れたような、けれど温かな声が静寂を破った。
翔馬が顔を上げると、そこには両頬を少し膨らませ、お盆を手にしたレオナが立っていた。
「何度か呼んだのに、もう!」
「あ、レオナ。ごめん……ちょっと熱中しちゃって……」
「熱中はいつものことでしょう? ハルトイニアでも、あれほど兄様から叱られたじゃない」
「ごめんごめん。自分でも懲りないなとは思っているんだけどね」
翔馬はハルトイニア滞在中、エドアルドの許可を得て、王城内の書庫で初代勇者の記録がないかと調べを進めていた。
調べを進めるといえば聞こえがよいが、実際には、片っ端から古書を抜き出しては読み、抜き出しては読みを繰り返した。それでもめぼしい情報が得られないとなると、さらに許可を得て、いよいよ王立図書館の閉架書庫まで攻め込む始末。
あまつさえ、テノラーダへ旅立つ前、このラグロニーネの書庫で本に埋もれる“事故”もあったというのに、朝から晩まで図書館に籠り、食事すら摂らない翔馬に対して、いよいよリーデルが呆れて言った。
――あのね……。熱心なのは分かる。分かるけれども……君はそろそろ“加減”という言葉を覚えた方がいい。
ラグロニーネに戻ってからも、なお解けない謎がどうしても気になり、他国の年代記や、オラニム帝国時代の歴史書、さらには珍妙な民間伝承を集めた書籍まで引っ張り出して、机に積み上げていた。
これではリーデルから三度目のお叱りを受けてしまうな、と冗談を言いながら翔馬は苦笑し、レオナはその時の小さくなっていた翔馬の姿を思い出したのか、ふふっと肩を揺らした。
「まったく、エスティは本当に本の虫だこと。……温かいハーブティーを淹れてきたから、少し休んだら?」
「うん、ありがとう」
王都での騒動を経て、二人の間にあった形式張った言葉の壁は、いつしか自然に取り払われていた。
互いの弱さも格好悪さも知った上での、確かな信頼がそこにある。
レオナは机の端にカップを置き、隣の椅子に腰を下ろすと、机の上に広がる古い地図を覗き込んだ。
「……それで、光と闇の神殿については、何か分かった?」
「それがまーったく。まるで意図して隠されているみたいに情報がないんだ。エドアルド王の仰った通りだよ」
翔馬は肩をすくめた。さすがは研究者といったところで、エドアルド王の知識量は凄まじかったが、その学者王ですら『有力な一次資料が見当たらない』と首を横に振っていた始末。翔馬が多少調べたところで、得られるものはほとんどなかった。
「資料を読む力と、有力な手掛かりを見つける力は、やっぱり別物みたいだね。……こうなったら、実際に世界中を歩き回って、少しずつ情報を集めるしかなさそうだ。古の勇者が辿った足跡を、ひとつずつ確かめながら」
翔馬はお茶を一口すすり、古地図を丁寧に折りたたんで手帳へ挟み込んだ。
その横顔を見つめていたレオナが、ふいにクスクスと笑い声を漏らす。
「……ふふふっ」
「え? 何かあった?」
「……ごめんなさい。……手がかりがなくて困っているはずなのに、エスティ、なんだか楽しそうな顔をしていたから」
「えっ? 僕、そんな顔してた?」
「してた、してた」
そんなつもりはないのにと、不服そうに眉を寄せる翔馬へ、レオナは悪戯っぽく微笑み返した。
その瞳にはもう、おとぎ話の勇者を仰ぎ見るような色はなかった。
「……まぁいいよ。それでさ、レオナ」
「うん?」
「……本の虫の、ささやかなお詫びとしてなんだけど……。今夜、もしよかったら、前に寄ったあのお店にご飯を食べに行かない?」
翔馬が照れくさそうに首筋を掻きながら誘うと、レオナの瑠璃色の瞳がパッと輝いた。
「え!? はい! ぜひ行きましょう、エスティ!」
満開の花のような笑顔が咲き誇る。
翔馬の手首のブレスレットと、レオナの銀髪に揺れる紫黒石の髪留めが、春の木漏れ日を浴びて、柔らかくきらめいていた。
◇
(……まったく、心配して損したぜ)
書庫の入り口、分厚い扉の影から、こっそりと二人の様子を覗き見ていたガルファンは、深く、だが呆れたようなため息を吐き出した。
書庫からまったく出てこないエスティが、もしや書物に埋もれて行き倒れていやしないかと、様子を見に来てみれば、この始末だ。
「……テノラーダであんだけウブなツラしてたくせに、仲良し夫婦の空気じゃねえか。見てるこっちの身にもなってほしいもんだぜ」
苦笑混じりに首を振ると、両手首の革の手甲をカチリと打ち合わせた。
春の柔らかい陽の中で笑い合う二人の姿と、互いに前を向いていることを確かめた男は、満足そうに口元を吊り上げる。
「……ま、それじゃ俺も、さっさと腹括るかね」
ガルファンは踵を返し、春風が吹き抜ける廊下を、迷いのない足取りで歩み去っていった。




