幕間Ⅲ 傷だらけの兄妹
王都ハルトイニアの北西部に聳え立つ、ハルト王城。
その西にある緩やかな丘の木立に抱かれた王家の墓所は、澄み切った冬の静寂に包まれている。吹き抜ける風は冷たく肌を刺すが、その中にも、どことなく春の気配が感じられるようになっていた。
そして、見上げる空には雲ひとつなく、どこまでも深い青が広がっている。
墓所の入り口。石造りの門の傍らには、ハルト王家の紋章が刻まれた四頭引きの馬車が静かに佇んでいた。そして、木漏れ日が落ちる墓所の最奥、厳かな白い墓石の前で、リーデルとレオナは並び立ち、静かに祈りを捧げていた。
手向けられたのは、冷たい冬の土で凛と花開く、白く可憐な雪割りの花。
微かな風が二人のプラチナの髪を揺らし、花びらをかすかに震わせていた。
(……父上、母上。私もようやく、前を向いて歩き出せそうです)
リーデルは心の中で、亡き両親へ静かに語りかけた。
七年前のあの日、両親を魔族に奪われ、手にした蒼穹の剣を抜くことすらできなかった己の無力さ。
その絶望と悔恨を、復讐という冷たい鎧で覆い隠し、しかし前線に出られない無力感の中、ラグロ領で一人泥を被ることだけを己に課してきた。
だが、その呪縛は解けた。
いずこからやってきた不器用で生意気な少年が、己の命を懸けてあの剣を抜き、自らの足で立って叫んでくれたことによって。
(……不甲斐ない息子を、どうかこれからも見守っていてください)
そっと瞼を開いたリーデルの横顔を、レオナは瑠璃色の瞳でじっと見つめていた。
その視線に気づいたリーデルが、ふっと口元を和らげ、妹へと首を傾げる。
「……どうしたんだい?」
その声は、かつてラグロ領の執務室で放っていた冷徹な響きではなく、遠い昔、幼い日の妹に語りかけていた温もりをそのまま宿していた。
レオナは胸の前で両手をそっと重ね、深く息を吸い込むと、一切の迷いを拭い去った、凛とした瞳で兄を見据えた。
「……兄様。お願いがございます」
「お願い……?」
「はい。……エスティの旅に、同行させてはいただけないでしょうか。彼がこれから歩み、世界を確かめるその旅路に……。私は、彼の隣へ並び立ちたいのです」
リーデルの淡い青い瞳が、僅かに見開かれた。
翔馬に対し、貿易都市テノラーダ行きの“公務”を申し渡した直後のこと。ラグロニーネの屋敷で、彼女が叫ぶように願い出たときの光景が、鮮やかに脳裏をよぎる。
――身体を気遣い、傍で寄り添う者がどうしても必要なのです。
――エスティを一人きりで貿易都市へ行かせて、また倒れてしまったら……私、一生自分を許せません。
あの時のレオナは、失うことに恐怖していた。
エスティという、世界を、兄を救いたもう存在を一人旅立たせ、失ってしまうかもしれない恐怖。
おとぎ話の奇跡にすがる切実さから、泣き出しそうな顔で「同行させてくれ」と願い出てきた。
だが、いま目の前にいる妹の佇まいは、そのときとはまるで違う。
(……この子は、これほどまでに強くなっていたのか)
神殿の奥で心を凍らせ、ただ祈るしかできなかった無垢な少女は、もうどこにもいない。
誰かに守られるためではなく、誰かに奇跡を押し付けるためでもない。
地にしっかりと自らの足を付け、自らの意志で、大切な誰かの隣に並び立とうとしている。
(……あの少年と共に歩いた時間が、この子にこんな顔をさせるようになったんだね……)
リーデルは静かに目を伏せ、薄く息を吐いた。
そして、ゆっくりと妹に向き直ると、その双眸に滲む痛みを隠すことなく、深く頭を垂れた。
「……レオナ。言いたいことは分かった。……まず、私から謝らせてほしい」
「兄様……?」
「私は……あの日からずっと復讐に囚われて、お前を置き去りにしていた。お前を守るためだと自分に言い訳をし、ラグロ領へ連れていき、何ひとつ相談もせず……すべてを一人で抱え込んで……。それが、かえってお前に余計な心配と苦労ばかりを背負わせ、両親を失った悲しみに泣くことすら、許してやれなかった」
掠れた声が、墓石の間に落ちていく。
完璧な領主であろうとし、非情な兄であろうとした青年の、剥き出しの懺悔だった。
「本当に、すまなかった。……不甲斐ない兄を、どうか許しておくれ」
「……頭を上げてください、兄様」
柔らかな、しかし確かな意志を宿した声が、リーデルの耳を打った。
レオナは歩み寄り、兄の冷えた右手を、自らの温かな手で優しく包み込んだ。
「どうか、謝らないでください。兄様が血を吐くような思いで私を守ろうと、ラグロニーネへ連れてきてくださらなければ、私はきっと……あの日のまま立ち止まっていたことでしょう。兄様が守り続けてくれたからこそ、今の私がいるのですから……」
レオナは微笑んだ。
その瑠璃色の瞳には、恨みも、責める色も、欠片ほども存在していなかった。
「それに……兄様がそうしてくださったからこそ、私は、エスティと出逢うことができました」
レオナはそっと視線を転じ、墓所の入り口へと目を向けた。
遠く、馬車の車輪に背を預け、白い息を吐きながら身振り手振りで話すガルファンと、それに困ったように笑いながら頷いている、黒髪の少年の姿が見える。
その姿を捉えた瞬間、レオナの口元に、春の陽だまりのような満面の笑顔が咲いた。
「エスティとの旅で、私は知りました。……間違えても、立ち止まって反省すればいいのだと。挫けても、膝の土を払い、もう一度立ち上がって前へ進めばいいのだと」
レオナの脳裏に、ラグロニーネからここに至るまでの出来事が去来する。
今となっては旅の思い出となった出来事のすべてに、あの少年がいた。
「……あの人は少し生意気で、脆くて、手がかかって、格好悪いところばかりです。……けれど、誰よりも必死で、決して諦めずに前を向こうとする。そんなエスティを見ていたい。支えたい。都合のいい勇者ではなく、仲間として共に隣を歩みたいのです」
ひとこと、またひとことと紡ぎながら、レオナは再びリーデルを見つめ返した。
瞳の奥には、兄に守られるだけのか弱い妹でも、ただひたすら祈り続ける巫女でもなく、己の未来を己の足で選び取る一人の人間としての誇りと覚悟が満ちていた。
「それが、私の選んだ答えで……私の覚悟です、兄様」
二人の間を吹き抜ける風が、ふっと凪いだ。
リーデルは妹の手のぬくもりを感じながら、その眩しいまでの成長を静かに受け止めると同時に、肩に載せ続けていた重荷が、すっと滑り落ちていくように感じられた。
(もう、この子を守るために、閉じ込めておく理由なんかないんだね……)
妹はとっくに、自分の足で荒野を歩めるほど、強く、気高く育っていたのだから。
リーデルの口元に、いつもの皮肉めいた、けれど底抜けに優しい笑みが戻った。
「……やれやれ」
リーデルは妹の手を優しく握り返し、ゆっくりと頷いた。
「分かったよ。……エスティと共に、広い世界を見ておいで。あの少年はどうにも危なっかしい。本当に手がかかるからね。放っておけば、また余計な無茶をして倒れるに決まっている。……お前が隣にいてくれるなら、私も少しは安心できるよ」
その言葉に、レオナの瞳からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
けれど、それは悲しみの涙ではない。心から信頼する兄に、背中を押してもらえた歓びの涙だった。
「――はい! ありがとうございます、リーデル兄様!」
花が咲き誇るような、これまでの人生で最も美しい笑顔が、墓所に輝いた。
両親の眠る墓石の上を、温かな木漏れ日が照らしている。
両親を失った痛みも、七年の間に刻まれた傷も、消えてなくなることはない。
それでも――二人を過去へ縛りつけていた氷の鎖だけは、澄み渡る青空の下、静かに溶け始めていた。




