第52話 玉座の決意、解かれし呪縛
大会議室に吹き付けた風が引いていく。
豪奢な長卓の上、散らばった羊皮紙の隙間で、空気が張り詰めていた。
上座に立つエドアルドから立ち上るマナは、かつての先代エンデルス王を思わせる威容を帯びていた。
温厚で大人しい学者肌の王と侮り、操り人形として玉座に縛り付けていたはずの男が放つ芯のある覇気に呑まれ、現王派だけでなく、前王派も床に腰を抜かしたまま声すら出せない。
歴戦の傭兵であるガルファンすら、喉を鳴らして唾を飲み込み、その体躯を微かに強張らせていた。
「……エドアルド叔父様……」
レオナの震える呟きに応えるように、エドアルドはゆっくりと視線を動かした。
その双眸が捉えたのは、ところどころが焦げた法衣を乱し、額に血を滲ませたまま立ち尽くす老貴族――バウアー・ドルバトスだった。
「バウアーよ……」
低く、重い声が、大会議室の隅々まで響く。
「私兵を率いて騒乱を引き起こしたのみならず、あまつさえ前王の血を引く王女殿下を、己の道具として拉致せんとするのは真のことか? ……そうであるならば、いかなる申し開きがあるか申してみよ」
感情の乗らない冷徹な問いかけに、バウアーの後ろに控える私兵たちが俄かにざわつき始める。
だが、バウアーは取り乱すことなく、それらを手で制すると、むしろ嘲笑するように口元を歪めた。
「申し開きなどない。……だが、陛下。今の貴方のままで、このハルトが持つとお思いか?」
老貴族の爛々とした眼光が、エドアルドを射抜く。
「西のヴァルメイに魔族が満ち、いつ大侵攻が起きてもおかしくなかろう。隣接するハルトはどうなるか。あまつさえ貴族どもは私利私欲に溺れ、王は決断を恐れて首を竦めるばかりだ。だからこそ、誰かが泥を被り、誰かが血を流し、この盤面を変えねばならぬ」
ため息交じりに首を数度振り、翔馬を、そしてレオナを見やる。
まるで敵を睨みつけるかのように。ただ、そこに先ほどまでの殺気はなかった。
「……そこの“勇者”とやらは、目の前の幸福を追求すると言う。それはそれでよいだろう。だが、国の存亡を前に、個人の些末な感傷に何の意味がある? 王族の血は、時に“有効活用”されるものでもあろうに……。レオナ王女殿下、貴殿もそれくらい理解されておられるだろう?」
翔馬は、震えながらテノラーダの外套をぎゅっと握りしめるレオナの背に、そっと手を回した。
そのまま小声で「大丈夫ですから」と優しく告げると、レオナはバウアーへ視線を向けたまま、しかしゆっくりと頷いた。
「……バウアー前侯爵。僕は、もう貴方と言い合う気はありません。だって、絶対に相容れないから。……ですが、国を、人を救いたいという考えは同じはず。……そこだけ、残念に思います」
「……フン。生意気な小僧だ。これが勇者とは聞いて呆れる」
己の人生すら道具に変えようとした男の、国を憂う本心の吐露。
大会議室の貴族たちが、淡々と言葉を交わすバウアーと“勇者”に息を詰める中、エドアルドは眉ひとつ動かさず、老臣の忠言を真っ向から受け止めていた。
「卿の言う通りだ。……この国の命運を握るのは、何も魔族の侵攻だけではない」
エドアルドは静かに、だが一歩も退かぬ響きを込めて言葉を紡ぐ。
「己の責任から逃げ、決断を放棄し、このような醜態を晒し続けていた……私自身の不甲斐なさ故であろう」
首を振りながら、力なくそう呟くエドアルドの姿に、バウアーの眉が跳ね上がった。
「そなたの憂国、その痛切なる危機感は理解した。……しかし、臣民の尊厳を踏みにじり、未来ある若者の人生を身代わりに差し出して作られる“平穏”など、本当の平穏たり得るのか?」
「その考えが甘いと申し上げているのだ。国民であろうと、貴族であろうと、王族であろうと、国のための犠牲が必要だとなぜ分からぬ」
「……綺麗ごとのみで片の付かぬ話なのは、私とて承知している。しかし、犠牲を強いずに済む道を追い求めることもまた、政ではないのか? バウアーよ、卿なら分かるであろう。先王たる兄エンデルスであっても、卿のやり方など断じて認めはしないと。誰かの心を奪って守られた国に、一体何の命が宿るのか」
「……ほとほと甘い。……だが、私は忠告した。王としての“覚悟”がそうであるならば、もはや私が語る必要などあるまいよ」
バウアーはそれ以上、何も答えなかった。
ただ、しばらくエドアルドを睨み続け――やがて、深く息を吐いた。
「……フォス、コット卿」
王の呼びかけに、煤に汚れた鎧を纏う近衛騎士団長フォスと、刃のこぼれた剣を握るコットが、同時に背筋を正した。
リーデルが王城へ帰還してから、今日に至るまでの十日余り。職務と良心の狭間で葛藤し続けていたフォスの瞳から、迷いの色は完全に消え去っていた。
「バウアー卿を客室へ軟禁せよ。私兵は、ケガ人があれば手当を優先させ、その余は武装解除後、城外の兵舎に拘束。処遇は調査後に追って行う」
「御意!」
「承知した、王よ」
フォスが胸の甲冑を拳で力強く叩き、コットが頷いて応じる。
そして、フォスの号令に近衛騎士たちが一斉に動き、バウアーを取り囲んだ。
老侯爵は抵抗しなかった。手にした剣を床へ放り投げた。ガランと、硬質な音が静寂を打つ。
ただ、連行される間も、エドアルドと、蒼穹の剣を手にこちらを見る翔馬を交互に見据え、深く、重いため息を吐き捨てて大会議室を後にした。
重い足音が遠ざかり、部屋には再び静寂が戻る。
エドアルドは視線を転じ、部屋の端で青ざめていたカストールら現王派の貴族たちを冷徹に見下ろした。卓の脇に控えていた法務官ヘナスバスが、査問記録を綴じた分厚い羊皮紙を手に、静かに進み出る。
エドアルドはそれを一瞥し、静かに首を振った。
「いや、よい。先ほどお主の口から“結論”は聞いておる。大儀であった」
その言葉を受けて、ヘナスバスは濃紅の瞳を静かに閉じ、一歩下がって片膝をついた。
「法務官ヘナスバスが下した結論の通り、ラグロ領に何らの不正、不備はない。……根も葉もない噂話を口実に辺境伯を軟禁下に置き、政をいたずらに停滞させたのは、貴殿らではないか?」
「へ、陛下! それは誤解にございます! 我らは王国の未来を憂いて――」
「カストール卿。私には、貴殿に返しきれぬ恩がある。……だからこそ、控えたまえ」
「……ぐ……。……ぎょ……御意に」
エドアルドの低く鋭い声が、言い訳を断ち切った。
現王派の貴族たちは、もはや反論の言葉を持たず、震えながら平伏するしかなかった。
「ラグロ辺境伯リーデルの潔白は、国王である私が保証する。査問会は本裁定を以って終了、これ以上の異議は一切認めん。その他の沙汰については、追って知らせる。……では、ヘナスバス、あとは頼む」
「御意」
ヘナスバスは、羊皮紙の束を小脇に抱えたまま、再びエドアルドへ頭を垂れた。
エドアルドは数歩前に出ると、目を赤く腫らしながら立ち尽くすリーデルへと視線を注いだ。若き辺境伯からの静かな一礼。それを満足そうに受け取ると、ゆっくりと大会議室を後にした。
やがて、羊皮紙を机の上に置いたヘナスバスが、リーデルの元へとやってくる。
「……辺境伯閣下。お役目を果たされ、何よりにございます」
「……君は一体……」
リーデルから出た疑問に、ヘナスバスは表情を崩さずに腰を折って答えた。
「ハルト王国法務局、監理主任法務官ヘナスバス・ファーゼと申します。以後、お見知りおきを」
「……!」
リーデルがハッとして口を開こうとしたが、ヘナスバスは右手を上げてそれを制した。
感情の読めない濃紅の瞳をリーデルへ向け、薄く口元を緩めた。
「……辺境伯閣下のことは以前から王より伺い、統治ぶりも記録で拝見しておりましてね。その上で、貴殿が何を考え、“何を”護りたいのか知りたかった。……それがよく分かりました」
淡々としたその言葉を最後に、張り詰めていた“法廷”の幕は、完全に下ろされた。
◇
重厚な木扉が、静かな音を立てて閉じた。
翔馬一行が案内されたのは、大会議室から渡り廊下を隔てた、王城西翼の控室だった。
外の喧騒は遮断され、暖炉の火だけが静かに赤々と爆ぜている。
リーデルがカチャリと内鍵を掛けたところで、全員の緊張の糸がほどけた。
「あー! いよいよやべえと思ったが、何とかなったな! 腹減ったぜ!」
ガルファンが空気を読まず、首や肩を回してボキボキと音を鳴らして伸びをする。
ふはーっと息を吐きだし、そこで柔軟運動を始めた。
「……ふぇ……」
レオナの膝から、完全に力が抜け落ちた。
まるで操り糸の切れた人形のように、床に敷かれた厚みのある絨毯の上へぺたりと座り込んだ。
いつもの凛とした背筋は丸みを帯び、肩が落ちる。
「……あ……」
隣にいた翔馬もまた、張っていた神経の糸が弾け飛んだように、へなへなと両膝を床に落とした。
こめかみの奥を苛んでいた激痛の反動と、極度の緊張から解放された脱力感。呼吸を整えようにも肩が激しく上下し、額からは冷や汗が顎を伝って絨毯へ落ちていく。
「……おいおいおい! なんだそりゃ!」
大会議室のそれとは異なる二人の情けない姿を見下ろし、ガルファンが両手を腰に当てて、心底呆れたように大笑いした。
「ド派手に啖呵を切ったくせによ! なっさけねえツラだな! 勇者サマ!」
「うぇぇ……笑わないでくださいよ……ガルファンさん……」
翔馬は床に手をついたまま、震える声で呻いた。
「いや、ホントにもう。あれだけの騎士に囲まれて、ダメかと思いましたよ……。……もう脚が言うこと聞きません……」
「私も……腰が抜けてしまいました……」
レオナは、情けなさに頬を染めながら、翔馬から贈られた紫黒石の髪留めを外す。
それを胸に抱きながら、小さく息を吐き出した。
そんな二人を見やりながら、控室の扉の前で立ち尽くしていたリーデルが、ふっと息を吸い込んだ。
「……まったく」
低く冷ややかな声に、三人が視線を向ける。
リーデルは腕を組み、いつもの傲慢で不敵な領主の仮面を被ろうと、眉をひそめてみせた。
「派手にやってくれたね。……ギルバートから何を言われたか分からないが、テノラーダで大人しくしていろ……と言ったはずだよ? ……それを、勝手に……ハルトイニアへ来たばかりか……王城の大扉を破壊して……乱入するなど……」
叱責の言葉を並べようとするが、そこから先の言葉が、どうしても続かなかった。
リーデルの喉が、引き攣るように震えている。目の前にいるのは、煤と泥に汚れ、それでも自分を助けるためだけに死線を越えて走ってきた最愛の妹と、華奢な少年だった。
「……お前たちは、本当に……馬鹿だよ……」
掠れた声が漏れ出た。
リーデルは顔を覆うように片手を額に当て、三人から視線を背けた。
冬の青空のような淡い青の瞳から、堰を切ったように、大粒の涙が零れ落ちていく。
「ここがどんな場所か、本当に分かっていたのか……!? 一歩間違えれば、お前たちまで反逆者として首を刎ねられていたんだぞ……! なぜ、ここに来た……! なぜ、逃げなかった……! なぜ、こんな無茶をした……! こんな……馬鹿なことを……!」
「ハッ! 領主サマよ。馬鹿はアンタだぜ? ほら、見てみろよ」
ガルファンは呆れたように首を振ると、リーデルに向けていた視線を、横にいるレオナへと移して誘導した。
「兄様……!」
床に座り込んでいたレオナが、震える足で何とか立ち上がる。
覚束ない足で一歩、二歩と踏み出す。
ふらふらとしながらも、そのまま兄の胸元へと飛び込み、その華奢な両腕で、リーデルの腰を力いっぱいに抱きしめる。
「兄様は馬鹿です! 大馬鹿です! 何でも一人で背負って、何でも一人でやろうとする……! でも、それで傷つくのは、兄様だけではないのですよ! ……もっと周りを見てください……! もっとご自分を大事に……してください……!」
「……レオナ……」
リーデルの腕が、妹の背中を強く抱きしめ返した。
両親を魔族に奪われたあの日から、復讐の鬼となり、心を鋼で閉ざし、誰にも弱音を吐かずに戦い続けてきた男の仮面が崩れ去っていく。青年の肩が、子供のように激しく揺れていた。
やがて、リーデルは袖で乱暴に涙を拭い、顔を上げた。美しいプラチナブロンドが微かに揺れる。
ゆっくりとレオナの身体を離し、床にへたり込んだまま、兄妹を笑顔で見ていた翔馬の前へと歩み寄った。
領主としての矜持も、身分の隔たりも脱ぎ捨て、少年の前で静かに片膝をつく。
「……エスティ」
「リーデル様……」
リーデルの淡青の瞳が、少年の黒い瞳を、そして腰にある一振りの長剣――蒼穹の剣へと注がれた。
かつての自分が、絶望と恐怖のあまり抜くことができず、自室の奥底に封印し続けていた剣を。
「……私の悔恨を……罪を……。君が救ってくれたね……」
リーデルは震える右手を伸ばし、翔馬の肩を、強く、確かに掴んだ。
「君自身の手で、君自身の意志で……あの剣を抜いてくれた。……ありがとう、エスティ。君に、その剣を託して……本当によかった……!」
その言葉を聞いた瞬間、翔馬の胸の奥で、張り詰めていたすべての痛みが溶けていくのを感じた。
流されるまま生きていた過去も、クロイツやテノラーダで犯した過ちも、消えてなくなったわけではない。
(……やっぱり、どれかひとつでも違っていたら、きっと今の自分はここにいない)
翔馬は、腰の蒼穹の剣へそっと触れた。
「……はい、リーデル様」
涙で滲む視界の向こうで、真っ直ぐにリーデルを見つめ返し、力強く頷いた。
控室の暖炉の灯りが、ようやく肩の力を抜いた四人の姿を、温かく、静かに照らしていた。




