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水鏡の光は誰がために  作者: 瑠玻 刃
第三章 王都ハルトイニア動乱
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第49話 一筋の大義、選び取る未来

 右肘を支えるガルファンの剛腕。

 伝わってくる体温が、黒い波に呑まれそうになる意識を辛うじて繋ぎ止めていた。

 翔馬は、荒く肩で息をしながら、額には脂汗を滲ませていた。

 頭蓋の奥へ、バウアーの思考の濁流が直接流れ込んできていた。

 その奔流を浴びながら、翔馬の心を満たしたのは、単なる怒りではない。


(……この人……。本当に……ハルト王国を救いたいと思ってるんだ……)


 流れ込んでくる思念のどこを見ても、私欲らしいものが見つからない。

 あるのは隣国ヴァルメイに迫る危機と、腐敗した王国への憂い。

 隣の大陸にある軍事大国、メトゥルーイスプとの血の盟約も、筋が通ってはいる。

 だからこそ、翔馬は恐ろしくて仕方がなかった。


 誰かを意図して傷つけようとか、陥れたいとは微塵も考えていない。

 ただ、己が生まれ育ったハルト王国が滅びゆくことを本気で恐れているだけ。

 ただ、ハルト王国を守るという“純白”な意思だけ。

 だからこそ翔馬は、バウアーに対する反論を見つけられなかった。


(…………あ)


 バウアーの、慈愛に満ちた手がレオナに伸びる。

 その視線の先で、カタカタと震えながら、血の気を失った顔で立ち尽くすレオナがいた。


 バウアーの言うことは正しい。しかし、翔馬の中に違和感が棘のように刺さっている。


(なんだ……この違和感は……! 考えろ! 見つけろ! そうしないと……!)


 テノラーダで、自分のために涙を流してくれたレオナ。

 馬車の揺れの中で、他愛のない冗談に小さく笑ってくれたレオナ。

 商都ニデルの宿で、真っ赤になって部屋を譲り合おうとしたレオナ。

 そして――愛する兄を救うため、恐怖に手足を震わせながらここまで走ってきた、ひとりの少女。


(……レオナを見ていない……)


 バウアーの頭にあるのは、都合よく利用できる王女という部品。政略のための道具。王国再興の旗印。

 目の前で怯える王女の姿など、最初から映っていない。

 そして、それはリーデルに対しても同じ。

 バウアーが求めるそれは、前王の血を引く正統なる後継者のみ。


(あぁ……そうか……)


 翔馬の目の前にいる少女は、そんな都合のいい筋書きのための部品ではない、共に歩むべき一人の人間。

 翔馬の見てきたリーデルは、皮肉屋で、傲慢で、けれど誰よりも領民を愛し、妹を過保護に案じ、自分に王家の剣を託してくれた、不器用な人間。


(……“人”を見ていない……。そうか……同じなんだ……)


 翔馬は、胸の奥でひとつの確信を得た。


 この世界にやってきたあの日から、自分自身に突きつけられた“水鏡の勇者”という檻と同じ。

 王女や王子という立場にも、肩書きが先に立ち、その人間自身の心や意思は、どこにもない。


(……だけど、僕だって……)


 考慮すべきことを、考慮に入れなかった。

 相手にただ押し付けて、権威でねじ伏せた。

 良かれと思って動き、相手の立場を無視した。

 悪意はなかったし、相手のためだと思っていた。

 だが、それは形を変えただけの傲慢だった。


 一歩間違えれば、自分自身がこの老貴族と同じ穴に落ちていたかもしれない。

 だが、自分を救ってくれたのは誰だっただろう?


 ――情けなくてもいいのです。失敗してもいいのです。格好悪いところも、全部、見せてください。

 レオナは、共に過ちに気づき、支えてくれた。

 いつだって、共に歩むという“覚悟”をしてくれた。


 ――お前がそうしたいなら止めねえ。

 ガルファンは、ずっと「こうなれ」と指示をしなかった。

 いつだって、最後は自分自身の“選択”を尊重してくれた。


(リーデル様だって、何でも一人で決めようとしていた……)


 リーデルは翔馬に剣を託した。


 ――危機に、脅威に出遭ったとき、自ら剣を振って進める男になれ、エスティ。

 命令ではない。相応しいと信じて、手渡してくれた。

 だからこそ、翔馬はリーデルの指示を振り切って、自分の“意思”でここまで来た。


(僕が……みんなを守るんじゃない。みんなで、助けに行くんだ……!)


 王国の未来。そんなものは、翔馬には分からない。

 けれど――ここで譲ることは絶対にできない。その一線だけは、魂の奥底にハッキリと見えた。


「ふむ……。そこの従者、身体が優れんか? 医務室へ連れていったほうがよかろう。おい!」


 バウアーが、扉の前の私兵へ冷淡に声をかけ、その声が、静寂を破る。

 翔馬の視界が、世界が、色を取り戻した。


「ガルファンさん……もう大丈夫です……。ありがとうございます……」


 ガルファンは呆れたように息を吐き、翔馬の腕を離して肩を竦めた。

 膝は生まれたての小鹿のように震えており、額からは相変わらず冷や汗が頬を伝っている。

 だが、翔馬は自らの足で、確かに分厚い絨毯を踏みしめて立ち上がった。

 左手首の紫黒石が、脈打つように熱い。


「従者殿……?」


 コットが、黒髪黒目の少年に目を見張る。


「……エスティ……?」


 振り返ったレオナの、怯えた瑠璃色の瞳。

 翔馬は彼女の横まで静かに歩み出ると、その身体を庇うようにして、バウアーを睨み据えた。


「何のつもりかね? 王族と貴族の会話に、一介の護衛が口を挟むことは許されぬぞ」


 心底つまらなそうに眉をひそめるバウアー。

 翔馬は、黒い瞳の奥に静かな、だが消えることのない炎を灯し、老練な貴族を真っ直ぐに見据えた。


「……ドルバトス先代侯爵。あなたの言っていることは、たぶん……間違ってはいないんだと思います」


 絞り出すような、掠れた声だった。バウアーが怪訝そうに目を細める。


「魔族の脅威も、今の王様が動けないことも、軍事力が必要なことも……政治のことは僕には分からないけれど、きっと、国を守るための正しい理屈なんだと思います」


「……ほう? 異邦の小僧にしては、物わかりが良いではないか! そのとおりだ! 国を守ることこそがすべて。滅んでからでは遅い」


 バウアーが満足げに口元を緩めかけた。だが、翔馬の言葉はそこで終わらなかった。


「でも……あなたが見ているものには、“人”がいません」


 ピシリ、と室内の空気が凍りついた。緩みかけたバウアーの口元が微かに歪む。


「……何だと?」


「あなたは、ハルトを救うためだって言った。大義のためなら、個人の犠牲は些末だって言った。……でも、その国って、“誰のため”なんですか……?」


 翔馬は一歩、前へ踏み出した。頭蓋の激痛を、奥歯を噛み締めてねじ伏せる。


「レオナがいて、リーデル様がいて、ギルバートさんがいて……街で暮らす人たちがいて、兵士の人たちがいて……。一人一人が笑って、守りたいもののために頑張る。それを集めたものが“国”なんじゃないんですか? 僕の知っている国は、そういうものだ!」


「所詮は小僧よ。つまらぬ戯言はよせ」


 バウアーの瞳から温和な色が消え、冷酷な光が宿った。


「その一人一人を生かすために、枠組みを守るのが政だ。政とは、誰かが泥をかぶり、誰かが犠牲にならねばならん。現実に目を向けんか」


 翔馬の脳裏に、テノラーダで学んだことが蘇る。


「……そうかもしれませんね。誰かが、一人で荷物を背負わなきゃいけない時があるのかもしれない。誰かが、自分の血を流さなければならないのかもしれません。犠牲になることが、どうしても必要な時だってあるのかもしれない。でも……でも!!」


 翔馬は叫んだ。

 自分の無知を認め、世界の残酷さを認めた上で、それでも魂の底から絞り出すように、老貴族へ真っ向から突きつけた。


「でも……それを背負うかどうかまで、あなたが勝手に決めていい理由にはならないでしょう!!」


 バウアーの眉が、ピクリと跳ね上がった。


「いくら国を守るためだからって……人の命を、心を、選ぶ権利を、尊厳を、あなたの思い描く計画のために、使い潰していいはずないでしょう!? リーデル様が王様になりたいかどうかも、レオナが他国へ行きたいかどうかも、ギルバートさんがどう生きたいかも……全部、自分で選ぶべきことだ!」


 翔馬の瞳に、激しい怒りと、そして――どこか痛ましげな光が宿る。

 流れ込んできた思念の中で視えてしまった、自分自身すら王国の道具として扱う生き方に、哀れみすら感じながら叫ぶ。


「……あなた自身だってそうだ! ハルトのために自分を犠牲にしようとして、自分の心を捨てている……! 自分を犠牲にしたからって、他人の心まで犠牲にしていい理由にはならない!!」


「小僧……それが甘いと言っておるのだ。個人の意思で国は救えん。自らを犠牲にし、使えるものは使う。そうでもなければ、国という得体の知れないものを御することなどできないのだ……。さぁ、もうよかろう? 下がれ」


 バウアーがため息をつき、呆れのような表情を浮かべる。

 だが、翔馬はもうバウアーを見ていなかった。


 ゆっくりと、振り返る。

 そこには、息を呑み、目を見開いて自分を見つめているレオナがいた。

 翔馬は、苦痛に歪んでいた顔をほころばせ、いつものように、柔らかく、温かく微笑みかけた。


「レオナ。何があっても、僕はレオナを守ります。ガルファンさんもいます。……でも、“どうしたいか”は、レオナ自身に決めてほしいです」


 翔馬は、右手をそっと差し出し、ただ、掌を広げて見せた。


「あ……」


 暗闇の中で、自分の名前を、自分の心を、真っ直ぐに見つめてくれた光。

 暖炉の火が爆ぜる音の中、翔馬を見つめるレオナの瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ、膝に落ちた。


「……私は……。私は、道具になりたくない……。私は……エスティたちと一緒に、兄様を助けに行きたい……!」


 レオナは震える手で、その涙を乱暴に拭った。

 そして――差し出された翔馬の掌へ、自らの意志で、ギュッとその手を重ねる。

 立ち上がり、翔馬の横に並び立つと、胸元の巫女のブローチを握りしめ、凛とバウアーを見据えた。


「……大伯父様。お考えはよく分かりました……ですが……お断りします」


 毅然とした瑠璃色の瞳がバウアーを射抜く。


「レオナ……なぜだ! このままでは――」


 バウアーが言い終わる前に、レオナは続けた。


「私は、兄様を救いたい。お父様、お母様の守ったこの国を、私も守りたい……。ですが、私はそのために、他人に犠牲を強いることなど望んでいません……。私は、私の信じる人たちと共に、私の手で未来を選びます……!!」


 バウアーの深い皺が刻まれた顔から、血の気が引いていく。

 そして――次の瞬間、その表情は底知れぬ獣のような、憤怒へと歪み切った。


「……ふ。……ふはははははッ!!」


 乾いた笑い声が、室内に響き渡ると同時に、ガルファンとコットが緊張した顔を向ける。

 バウアーはソファから腰を上げると、翔馬の黒髪黒目の容貌、テノラーダの最高級の外套、そして腰の蒼穹の剣を、殺気を帯びた眼光で睨みつけた。


「いやはや、これほどの毒虫が入り込んでいようとはな。……黒髪黒目の小僧。何処の馬の骨かは知らぬが、王家の宝剣を騙し取り、甘言を弄して王女を誑かしたな? 貴様は王国の未来を脅かす、明白なる逆賊だ」


「バウアー、いい加減見苦しいぞ! レオナ様のご意思を尊重せんか!」


 コットが怒鳴り、腰の剣へ手を伸ばした――その刹那。


 ――パチンッ!


 ガチャンッ!!


 バウアーが乾いた音を立てて指を鳴らすと、重い両開き扉が静かに開かれ、抜剣した屈強な私兵たちが入ってきた。

 ――その数、六名。

 手慣れた動きで瞬く間に部屋の中へ展開すると、剣へ右手をかけたコットの背後と左右から、切先を突きつけて壁際へと強引に押しやった。


「ぐっ……!? 乱心したか、バウアーッ!!」


「乱心しているのは貴様だ、コット! 逆賊に操られた王女を連れ込みおって! ……そこで大人しくしていろ、死にたくなくばな!」


 バウアーはコットを一喝すると、冷徹な視線を翔馬たちへ戻した。


「……我が願いは王国の安寧のみ。……王女殿下を確保しろ! 背後の賊二名は捕らえよ! 生死は問わん!」


 私兵たちが一斉に切先を向け、包囲をじりじりと狭める。

 絶体絶命の密室。


 だが――その冷え切った殺気の中へ、ガチンと鉄と鉄が噛み合う耳障りな音が響き渡った。

 全員の視線がそちらへと向く。

 翔馬とレオナの前にある円卓へ、鍛え抜かれた体躯が飛び乗り、壁のように立ちはだかった。


「……やーれやれ。やっと俺の出番か……」

 

 ガルファンが両手首を交差させ、装着された炎神の手甲に刻まれた印が、赤い光を放つ。

 その口元には、獰猛な肉食獣のような、凶悪極まりない笑みが浮かんでいた。


「姫さん、エスティを頼んだぜ」


「ガルファン様……!?」


「……最初に言ったろ? 俺は政治のことは分からねえ……だがな」


 円卓の上から、取り囲むバウアーの私兵を見渡し、挑発するような視線を向ける。


「実力行使なら俺が全力でぶつかってやる、ってな! ……相手が剣を抜いたなら、やるこたぁひとつ!」


 ガルファンはぐっと腰を落とし、赤熱する手甲を構えて白い歯を剥き出した。

 そして、バウアーの私兵たちを威圧するような怒号が炸裂する。


「姫さんとエスティに指一本でも触れてみやがれ! てめえら全員ぶっ飛ばす!」

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