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水鏡の光は誰がために  作者: 瑠玻 刃
第三章 王都ハルトイニア動乱
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第48話 白と黒の重なり、歪む大義の狭間

 白く、美しく、しかし冷徹にそびえ立つハルト城。

 壁や床は光沢のある白い石で造られており、高いアーチ窓からは冬の青空が見えていた。


 翔馬たちは、王城三階にあるシェガレット公爵、コット・ヴァンテに宛がわれた私室へと向かっていた。

 回廊には、王族や貴族の世話をしているであろう従者たちや、警護の騎士たちが頻繁に行き交っている。彼らはコットの姿を見ると恭しく道を開けては頭を垂れ、そしてその後ろを行くレオナを認めると、一様に息を呑んだ表情を見せていた。


(……やはりここは、レオナの、リーデル様の“故郷”なんだな)


 翔馬がレオナの横顔を見ながら歩いていると、先頭を歩くコットの足がピタリと止まった。

 何事かと正面を見る。

 前方、回廊の曲がり角から、こちらへ向かってゆっくりと歩いてくる人影があった。

 豪奢な法衣のような濃灰のローブを纏い、顔に深い皺の刻まれた老貴族。ハルト王国でも指折りの名門、ドルバトス侯爵家の前当主バウアー・ドルバトスの姿だった。

 バウアーはレオナの姿を認めるなり、相好を崩し、親しみのある好々爺の表情で声をかけてきた。


「……これはこれは、レオナ王女殿下! お久しゅうございます。老いぼれた私の顔を、覚えておいでですかな?」


「ええ、もちろん。大伯父様。息災そうで何よりです。……兄を心配して来てくださったのですか?」


 バウアーは、王都ハルトイニアよりもずっと北に位置するエンニット侯爵領の前領主。今は家督を息子に継いでいるが、ハルトを代表する貴族の一人だった。

 テノラーダからの旅程ほどではないが、相応の時間がかかることは明らかだった。

 そして、この老貴族は、レオナとリーデルの母であるエリーナ・グライアス・ハルトニアの伯父にあたる親戚筋でもあった。


「左様にございます。リーデル王子殿下を理不尽に追い落とそうとする現王派の専横を何とかせねばと、老骨に鞭打って思案を重ねていたところにございますよ」


「……そうですか。ありがとうございます」


 レオナは柔和な笑みをバウアーへと向けた。それを、まるで自らの孫を慈しむかのような温かな眼差しで受け止めたバウアーは、視線をコットへと滑らせる。


「ヴァンテ卿。珍しくハインラッドから出てきたと思いきや、レオナ王女殿下をお呼びしたのは貴殿か?」


「そうだ、ドルバトス前侯爵。私とてリーデル様のことが気がかりでな。何とかならないかと、わざわざご足労いただいたのだ」


「ふむ。貴殿もなかなかやるではないか。剣を振るうだけの脳筋ではないようだな」


「……ふ。手厳しいな。貴殿こそ、とうに隠居の身と聞いていたが、わざわざ出張ってこられるとは精が出ることだ」


 穏やかな言葉の裏で、火花を散らすように視線を絡め合う二人の大貴族。周囲の空気がチリチリと張り詰める。

 テノラーダの大人たちから感じた駆け引きとは異なる、骨の髄まで凍りつくような政治的やりとりに、翔馬の背筋を冷たい汗が伝った。


(……この二人、仲悪いのかな……)


 翔馬が心配そうに隣のガルファンを見やると、特に動じた様子もなく周囲を睨んでいる。

 レオナは大丈夫だろうかと翔馬が視線を向けた、その時だった。


「……二人とも。このようなところで無駄話をしている余裕はあるのですか? 私は兄リーデルを救うために参りました。急ぎ、現状をお聞かせ願いたいのですが」


 凛とした、しかし焦りと苛立ちを孕んだ声が回廊に響いた。

 その王女の言葉に、コットとバウアーはハッとして、即座に頭を垂れた。


「王女殿下の仰るとおり。大変な失礼をいたしました」


「とんだ失礼を。……ドルバトス前侯爵。これから我が私室で王女殿下へ経緯をご説明しようとしていたところだ。リーデル様を救わんとする考えは貴殿も同じであろう。共に来られるか?」


「……ふむ。そうさせてもらおう。だが、王女殿下の仰るとおり、今は一刻の猶予もない。そろそろ『第四回査問会』が始まる刻限でな。ここからであれば私の部屋が近い。そちらへお越しいただくのがよかろう」


 コットはちらりとレオナを見やり、彼女が短く頷いたのを確認すると、バウアーへ承諾の意を示した。


「では、参りましょうぞ」


 外套を翻して、バウアーが先頭を歩く。

 それを後ろから見ていた翔馬の視界に違和感が現れた。


(……とりあえず、味方が増えたのはよかったけど……。なんだろうな、コレ。さっきから……)


 視線の先にいるコットとバウアーの周囲に再び“モヤ”のようなものが揺らめいていた。

 違和感の理由はみっつ。

 ひとつ、やはり空間解析を使っていないこと。

 ふたつ、両者の“モヤ”の色が微妙に異なること。

 そして、みっつ。今度は目をつむっても、擦っても、その“モヤ”が消えてくれなかったことだった。


「エスティ、どうした?」


 難しい顔をしている翔馬を見やり、ガルファンが低く囁く。

 翔馬はこめかみを押さえると、心配をかけないよう、「大丈夫……だと思います」と小さく首を振った。


 ◇


 バウアーの私室の暖炉では、薪が赤々と爆ぜ、温かな熱を室内に満たしていた。

 重厚な革張りの椅子が並ぶ豪奢な一室。レオナが浅く腰掛け、正面にバウアー、右隣にコットが座す。

 レオナの背後には翔馬とガルファンが左右に分かれ、ただ静かに背筋を伸ばして立っていた。

 部屋の扉の前には、バウアーの私兵と思わしき屈強な兵士が二名、侵入者を拒むように立ちはだかっている。


「さあ、お身体も冷えたでしょう。まずは喉を潤されるとよろしい」


 円卓の向かい側、豪奢な仕立ての椅子に腰掛けたバウアーは、親戚の子供に向けるような柔和な笑みを浮かべていた。

 温かい茶を差し出され、レオナは「ありがとうございます」と細い指先でカップを受け取ったものの、口をつけることはしなかった。

 彼女の瑠璃色の瞳が、確かな緊張を宿しながら、真っ直ぐに二人の貴族を射抜く。


「……ヴァンテ卿、ドルバトス前侯爵。単刀直入に伺います。兄様は今、どのような状況に置かれているのですか?」


 コットが苦渋に満ちた表情で口を開いた。


「……リーデル様は十日ほど前に王城へ来られました。これまでに三度、査問会が開かれており、本日、この後に開かれる第四回査問会が、最後の審理となります」


「……最後?」


 バウアーが重々しく頷き、言葉を引き継いだ。


「左様。現王派の狙いは、最初からリーデル王子殿下の失脚……いや、前王派の完全な粛清であろう。重箱の隅をつつくような質問や、己らの妄想で王子殿下を追い立てている様子だが、その実は査問を長引かせ、周囲との接触を断ち、前王派の貴族たちを脅迫と買収で切り崩すための時間稼ぎだ。結果、“味方”は次々と口を閉ざし、今や王子殿下は城内で完全な孤立無援に追いやられ……」


「事実、公爵である私でさえ、リーデル様が来られた初日に、“不用意な接触は避けろ”との警告を受けております」


 レオナの顔から、みるみる血の気が引いていく。

 ギルバートの手紙、カルロの説明。それを裏付けるかのようなコットとバウアーの説明。

 自分の中でそれらの言葉が反響していくように感じていた。


「そんな……! ラグロ領の査察では、何一つ不正など出なかったと聞いています! それなのに、なぜ兄様がそのような目に遭わなければならないのですか!?」


 悲痛な叫びを上げる王女を前にして、バウアーは嘆くように天を仰ぎ、円卓を拳で叩いた。


「すべては、現王エドアルドの底知れぬ無能と、腰抜けぶりが招いた結果よ!」


 バウアーの声音が熱を帯びる。その瞳には、国家の行く末を心底憂う老臣の、凄まじいまでの気迫が宿っていた。


「レオナ王女殿下、よく周囲を見渡すとよい。西のヴァルメイでは魔族の跳梁跋扈が激しさを増し、いつ大侵攻が始まってもおかしくない。この乱世に、我がハルト王国は、呑気に前王派と現王派に分かれ、下らん権力闘争に明け暮れておる」


 レオナがじっとバウアーを見る。事実、ヴァルメイへの支援は兄リーデルが腐心していた。


「あまつさえそのような状況にありながら、己を祭り上げた取り巻きに頭が上がらず、流されるまま王子殿下の召喚状に判を捺したあの操り人形の王ぞ。この国の舵取りができると思うかね。断じて否だ。あの腰抜けに国を任せておけば、ハルト王国は近い将来、確実に滅びの道を辿る」


 顔に深く皺の刻まれた老練な貴族の放つ言葉には、紛れもない真実と危機感が含まれていた。

 コットが眉をひそめ、「バウアー卿、言葉が過ぎるぞ」と制するが、バウアーの熱弁は止まらない。

 彼は立ち上がり、レオナを見下ろすように両手を広げた。


「……ハルトの滅びを回避する道はただひとつ。英傑であられた先代エンデルス王の正統なる血を引き、民を導く気概と政の才覚を持つ王子殿下を、真のハルトの王として擁立すること。腐りきった現王派を一掃し、王国の秩序を強硬にまとめ直さねばならん」


「兄様を、王に……?」


 突然突きつけられた巨大な言葉に、レオナは息を呑んで固まった。


「その通り。そのためには、断固たる力と、犠牲を厭わぬ覚悟が必要となる。……王女殿下。貴殿には、その麗しき血を、王国に捧げてもらおう」


「……え? 血を……捧げる?」


 その反応はレオナだけではない。後ろの翔馬とガルファンの眉がピクリと動く。


「うむ。我が国と古くから盟を結ぶ、世界最大の軍事大国――メトゥルーイスプへ……レオナ、お主が輿入れするのだ」


 レオナが何を言われているか分からないと言わんばかりの表情を浮かべる。

 暖炉の爆ぜる音だけが室内に響いた。ほんの少しの静寂の後、コットが弾かれたように立ち上がった。


「バウアー! 貴様、戯言を! レオナ王女殿下を他国へ売り飛ばす気か!?」


「売り飛ばすだと? 貴様こそ戯言を抜かすな、コット!」


 バウアーはコットを一喝した。その双眸には、濁りも迷いもない光がただ揺らめいている。


「貴様は元近衛であろう! ハルトの現状をよく理解しているはずだ! いつヴァルメイから溢れ出るか分からぬ魔族を防ぐために、メトゥルーイスプの軍事力を得る! そのための血の盟約! そのための政略結婚! 王侯貴族は斯くあるべきであろうが! 何を咎められよう!」


 バウアーは止まらない。堰を切ったように、その想いが、思想が、濁流のように部屋を流れていく。


「我が王国の未来と安寧という大義の前には、個人の幸福など取るに足らぬ! レオナが旗印となって現王を糾弾し、そのままメトゥルーイスプへ嫁ぐことで、強大な後ろ盾を得られる! この意味が分からんのか!」


「それでは現王派と同じではないか! 正気とは思えん!」


 コットの言葉に、バウアーは目を見開くと、途端に大声で笑い出した。


「……ハハハハハ! 何を言うかと思えば……貴様はもう少し頭が切れると思っていたのだがな……残念だ」


「なんだと?」


「現王派のやっていることは、自らの立場の安寧を享受することよ。王国の平穏を守るのではなく、ただ食い潰しているのみ。それすら見抜けぬようになったか? そして、それを知りながら止めようともしない者に、この誇り高き王国の王が務まるかね?」


「……」


 コットは否定できなかった。近衛の筋から、ヴァルメイ周辺の動きを聞いていたからだ。

 それでもなお、エドアルドを王座へと押し上げたカストールは、自らの家と地位を維持するために動いている。

 結果、現王は傀儡となり、自らの政を執り行うことができていない。それはコットにも分かっている。

 ただ、それでも、バウアーのやり方を認めるわけにはいかなかった。


「……それでは、現王派も、前王派のどちらも黙ってはいまいよ」


「フン。それが間違いだと言っておる。ハルトは王国ぞ。派閥なぞ必要なかろう? 強き王の元に我らが参集し、王家を守るのが筋。反抗する貴族どもは逆賊として処刑すればよいのだ。それも“必要な犠牲”! ただし、リーデル王子殿下が自ら手を汚す必要はない。血と泥をかぶり、怨嗟の声をすべて背負うのは、この老いぼれで十分だ!」


 その瞳に宿る狂気じみた光と言動に、翔馬だけではなく、ガルファンさえも緊張した面持ちで見やった。

 翔馬が視線をバウアーからレオナへと向ける。微かに身体が震えていた。


(これが……本当に……仲間……?)


「……正気とは思えん。リーデル様がそのような血塗られた王座を望まれるはずがなかろう……! それに、ギルバートとて黙っておらんぞ!?」


「ギルバートだと?」


 バウアーは冷笑を浮かべ、吐き捨てるように言った。


「あの老いぼれが私を阻むというのなら、逆賊として始末するまで。……何のことはない。私の“爪”をラグロニーネへ差し向ければ済む。王国を救うためならば、その人生や命を捧げることなど些末であろう? 私には何の痛痒もないわ!」


「っ……!!」


 レオナの喉から、声にならない悲鳴が漏れた。大伯父の口から放たれたのは、国家のための大義。

 だがその実態は、自分も、兄も、ギルバートも、それどころかバウアー自身も、国という巨大な何かのために、ただの使い捨ての歯車に過ぎないという思考。

 理解を拒絶するかのように頭が真っ白になり、その歪んだ意思に触れた恐怖で、レオナの手足が末端から冷えていく。

 やがて、華奢な身体がカタカタと震え出した。


「さあ、レオナ……決断の刻だ。愛する兄を救うため、お前の人生を、王国の未来へ捧げるのだ」


 バウアーが、慈愛に満ちた祖父のような笑みを浮かべ、震えるレオナの肩へ両手を伸ばした――その時。


 ――キィィィィンッ!!


 レオナの背後で、頭蓋骨を万力で締め付けられたかのような、凄まじい激痛が翔馬の頭を貫いた。


「がっ……!? あ……っ!?」


 視界が明滅し、胃液が逆流するような強烈な嘔吐感が込み上げる。額から滝のような冷や汗が吹き出し、膝の力が完全に抜け落ちた。


(な、んだ……これ……!? 解……析……!? 頭が……割れる……!)


 途端、熱を放ち始める左手首の紫黒石。

 テノラーダの神官長オルバが告げた、翔馬に宿る“道標の光”が、目の前の老貴族から溢れ出す強い意思を捉えた。


 バウアーが纏う、あまりにも完璧で美しい憂国の慈愛と、奥底に渦巻く、国家のためなら人の尊厳すら平然と踏み潰す思想。

 慈愛と残酷さ。憂国と人間軽視。善意と非情。自分を、他人を使い潰すことすら、バウアーの“善意”。

 翔馬の視界で、それらが白と黒に明滅し、互いに重なり合いながら、しかしどちらも混ざることなく存在していた。

 その思考が、その精神が、翔馬の心をじわじわと、しかし確実に軋ませていく。


 ――キィィィィィンッ!!


 脳内で耳を劈く金属音が炸裂し、翔馬の視界から、すべての色彩が失われた。

 バウアーの周囲で白く漂っていたはずの“モヤ”が、黒い波へと変化し、バウアーの全身から溢れ出す。

 それは翔馬の意識へ濁流となって流れ込んでくる。無彩色に反転した世界で、濁流が音となり、映像となり、再生された。


 ――レオナ。兄を想う心。王国を救う旗印。

 大広間。糾弾される現王派。

 遠ざかっていく馬車。王座へ押し上げられるリーデル。

 斃れていく貴族たち。

 闇の中、地へ伏すギルバート。

 

 そして、それらすべてを覆うように、ひとつの確信だけが濁流となって流れ込んでくる。

 ――これで、ハルト王国は救われる。


(……っ!! な……んだ、これ……!!)


 吐き気を催すほどの、純粋な大義を成就するための、無慈悲な思考。

 人の命も、願いも、その尊厳さえも、すべてを国のための“出費”として組み込む精神。

 それが翔馬の意識を容赦なく灼いていく。


 翔馬の両膝が床に落ち、倒れかけたその右肘を、横から伸びた逞しい腕が、万力のような力でがっしりと支え止めた。


「……おい、エスティ……。しっかりしろ!」


 ガルファンの低い、張り詰めた声が降ってくる。だが、翔馬の荒い呼吸は止まらない。

 白黒に反転した視界の奥、いまにもその黒い波に呑み込まれようとしている、レオナの震える背中が見えていた。

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