第43話 北東へ、誓いを乗せて
クロイツを出立してからおよそ一週間。
一行は、カルロの緊急通行証によってクロイツ東の関所を突破し、ケーニヒシアとハルトの境界にまたがる難所――アルアバの森と峠を越えていた。
「……ようやく抜けたか……」
旅慣れているはずのガルファンが、心底うんざりした表情で呟いた。
アルアバは、ケーニヒシアとハルトを隔てる険峻な山脈の中で、唯一道が切り開かれているルートだった。
テノラーダからハルトへ抜ける最短路ではあるものの、一帯の厳しい自然環境ゆえ、人の手がほとんど入っていない原始の森が広がっている。
クロイツ東の関所で検問をしている兵士でさえ「旅人が迷い込まぬよう封鎖している」と語り、開門前にも「本当に進むのか?」と改めて確認してきた理由を、三人は身をもって思い知らされていた。
「……魔物に襲われなかったのが不思議なくらいだ。正直、二度と通りたくねえ」
関所を越えて間もなくの森は、幹の太い鬱蒼とした巨木が冬の弱い陽を完全に遮り、昼であるはずなのに夕方のような薄暗さに包まれていた。
鳥のさえずりどころか小動物の気配すらなく、ただ風が木々を揺らす音が聞こえるのみ。道がありはするが、街道とは名ばかりで、石畳を太い木の根が幾重にも突き破っていた。
急勾配の峠道に入れば、もはや馬車が通れるだけで御の字といえるような有様。チャコとチャイが激しく息を乱すので、翔馬とレオナが降りて歩かねばならない難所も複数あった。
さらに、荒涼とした山肌を吹き抜ける冷風に晒された翔馬は、道中で風邪を引いて高熱を出し、咳き込みながら毛布へくるまる羽目になった。
そんな峻険な峠を下りきり、冬の林を順調に進む馬車の前方。石造りの質素な建物と、丸太で組まれた柵が見えてきた。
「おい、ハルト領の関所に着いたぞ」
心地よい揺れに微睡んでいた翔馬が、御者台から聞こえる声に現実へ引き戻され、目を開ける。
向かいの座席では、看病疲れか、レオナが静かな寝息から目を覚ましたところだった。
馬車が完全に停止すると、石造りの詰所から、扉を吹き飛ばさんばかりの勢いで警備兵が駆け寄ってくる。ガルファンはそれを見やり、御者台から飛び降りると、カルロの黒鷲が刻まれた通行証を無造作に突きつけた。
「き、君たち……まさか、あのアルアバの峠を越えてきたのか……!?」
「ああ。急ぎでハルトイニアまで行かなきゃなんねえ。これが許可証だ」
兵士は通行証の確認もそこそこに、遠くに白く霞む険しい山脈と、泥だらけになりながらも、力強い呼吸を保つ二頭の駿馬を呆然と見比べている。
翔馬は熱が引ききらない頭を振りながら馬車から降りると、ガルファンの隣へ歩み出て、革鞄からリーデルの署名が入った身分証を差し出した。
「ラグロ辺境伯リーデル様の使者で、エスティと申します。テノラーダで公務中でしたが、急遽、“王都ハルトイニアよりお呼び出し”を受けまして」
そう言いながら、腰の長剣を示す。刻まれたハルト王家の紋章が、鈍く光を放った。
兵士は書類と紋章を改めると、居住まいを正して敬礼する。
「ただちに開門します! ……どうぞご無事で!」
門が開かれ、馬車が再び動き出す。ガルファンは御者台でニヤリと口元を歪めた。
都合のよいように告げ、兵士を手玉に取る翔馬のしたたかな嘘に、確かな成長を感じていた。
◇
国境の関所を抜けてから三日後。
馬車は、ハルト王国南西部を代表する商都ニデルへと滑り込んだ。
ひと気のない森と山を進んできた翔馬たちにとっては、テノラーダ以来の大きな街だった。
テノラーダの重厚な紫黒石とは対照的な、温かみのあるレンガの建物が並ぶ街並み。ラグロニーネと似たそれに、翔馬はほっと一息つく。
「エスティ、保存食と……チャコとチャイのご飯を買い足しておきましょう。アルアバを越える際に、ずいぶんと使ってしまいましたから」
「確かに。ここから先は中央街道ですが……備えは多い方がいいですね」
ニデルは、王国を縦断する大動脈“ハルト中央街道”の要衝である。
南東へ向かえば、隣の大陸への定期船が出ている港町フォーサイア。南西へ進めば、峠と大河を越えてラグロニーネに至る。
翔馬たちが進むのは、中央街道の北東方面。いくつかの町と大都市ハインラッドを経て、王都ハルトイニアへと続く道だ。
町の通りを見れば、活気を見せる大勢の行商人や、買い物客の楽しげな笑い声が満ち溢れ、寒さを吹き飛ばすようだった。
街の入口で、翔馬とレオナは、馬車を休ませて宿探しに向かうガルファンと別れ、市場の乾物屋で足を止めた。
「すみません。スープ用の干し野菜と、塩蔵の魚をいただけますか?」
「あーいよっ! いらっしゃい、若い旅人さん!」
威勢のいい店主が魚を量りながら、翔馬の左手首に巻かれた紫黒石のブレスレットに目を留めた。
次いで、隣に立つレオナのプラチナシルバーの髪に輝く、同じ紫黒石の可憐な髪留めを見やる。
「おや、そりゃあテノラーダの紫黒石だねぇ。……へぇ、お揃いの石を着けて仲睦まじいこと! ご夫婦かい? 旦那さん、そんな綺麗な奥さんに極上の細工をプレゼントするたぁ、甲斐性があるねぇ!」
「ごふうふ? ご夫婦!? 滅相もない! 違います! 奥さんじゃなくて、これはその、旅の仲間で――っ!」
翔馬の頭が、風邪がぶり返したかのように一瞬で沸騰する。慌てふためいた指先が手のひらから小銭を滑らせ、ジャラジャラと十数枚の銅貨が石畳の上へ派手に転がり落ちた。
「わわっ! すみません、すみません! ええと、おいくらでしたっけ!?」
「ふふふ……エスティ、慌てすぎですよ」
他の客たちも笑いながら、銅貨を拾っては翔馬へ手渡す。申し訳なさそうに受け取る顔は、赤く染まっていた。
レオナも袖口で口元を隠しながらくすくすと微笑んだ。
夫婦と間違われた気恥ずかしさと、翔馬のあまりの純朴さに、彼女自身の両頬もまた林檎のように赤く染まっていた。
◇
夕闇が迫る頃。
買い出しを終えた二人は、ガルファンが見つけた宿“レンガの灯火亭”の入口で合流した。
「おう、遅かったな。さ、受付しちまおうぜ」
そう促され、三人で手早く受付を済ませる。ここまでの旅で慣れたものだ。
三人分の支払いを済ませると、翔馬とレオナは部屋が手配されるまでの間、ストックが減り淋しくなった荷物室を整理し、買い出した保存食などを詰め込んだ。
そして、一泊に必要な道具を持ち、再び待合いへと戻る。
すでに部屋の割り当ては終わっており、ガルファンは、無造作に鍵の付いた札を翔馬へポンと放り投げてよこした。
「ほらよ。これがお前“ら”の部屋の鍵だ」
「……あの、ガルファンさん? ……鍵がひとつしかありませんが……僕の部屋は?」
キョトンとする翔馬に、ガルファンはバツの悪そうな表情を浮かべ、頭を掻いた。
「……その鍵だよ」
「え?」
「……女将がお前らを見て『まあ! お揃いの石をお着けになった若夫婦ですね! とっておきの部屋をご用意しました!』って、気を利かせやがったんだ。おまけに、この時期は商人が多くて満室なんだとよ」
「え……?」
「ええぇぇっ!?」
呆然とするレオナと、絶叫する翔馬。
その反応に、ガルファンは、自分の一人部屋の鍵を指先で回しながら意地の悪い笑みを浮かべた。
「ほら旦那様、奥様をしっかり護衛しろよ? 狼が出ねえようにな? ……俺は久々にぐっすり眠れそうだから先に行くぜ」
ガルファンは手をひらひらと振ると、顔を向けずに『飯は二人で食っとけよ!』と言い残して、さっさと階段を上がっていってしまった。
待合いに取り残された二人は、手元に残されたひとつだけの鍵を凝視したまま、石のように固まった。
「……と、とりあえず! 部屋に行きましょう! ね! エスティ!」
「……そ、そうですね! とりあえず!」
階段を上がり、恐る恐る部屋の扉を開けると、暖炉の火が心地よく燃える、清潔な客室が広がっていた。
アルアバ越えで蓄積した疲れを癒せそうではあるが、問題がひとつ。
それは、部屋の三分の一を占めるほどの特大のベッドが、部屋の端に一台だけ鎮座していることだった。
「「……」」
翔馬とレオナは何も言えず、暖炉の熱気とは違う猛烈な熱さにただそこへ立ち尽くした。
(いや、無理でしょ! どう考えても無理でしょ!!)
翔馬の手のひらが汗をかき、荷物が滑る。
テノラーダでも感じたことのない緊張感に押され、この危機的状況をどう切り抜けるか、全力で計算を始めた。
諦めてベッドを使うのは、どうあっても却下だ。年頃の女性と床を共にするなど、あってはならない。
何か方法はないか。もうひとつ部屋を用意してもらうのは……いや、ガルファンの言葉通りならば、部屋の空きがない。
ではでは、別な宿を探すのはどうか。この街は大きい。宿くらい見つかるだろう。……すでに料金を払っているのに?
焦りからか、どうにも良い答えにたどり着かない中、翔馬はひとつの策を思いつく。
「え、ええと、レオナ! 僕、床で寝ますから! レオナはベッドを使ってください!」
今の翔馬の思考では、これが精一杯だった。
部屋が一緒なのはもう諦めるしかない。ただ“距離”は置いたほうがいい。そう考えたのだが。
「エスティ、病み上がりですよね!? そんなことさせられませんよ!?」
「いや、姫君に床で寝てくれと!?」
「野宿までしておいて、それは理由にならないのでは!?」
「それとこれとでは……!」
互いに顔を真っ赤にしながら、肩で息をしながら譲り合う。
埒が明かないと思ったか、レオナが大真面目な顔でぽつりと呟いた。
「……エスティ。私は、あなたと過ごすことが嫌なわけではないのです。……ですが、これでは……」
なぜか翔馬を意識すると、不思議な感覚に全身を囚われていた。
「……お互い、一睡もできそうにありませんね……」
なぜかレオナを意識すると、心臓が激しくばくばくと音を立てた。
「……では、こうしませんか? えと――」
アルアバ越えほどではないにしても、明日からも過酷な旅は続く。
目的地は王都ハルトイニア。そこまでに休めるときに休む、というガルファンの教えを守り、お互いの体調管理と体力回復を最優先にする。
極めて理性的かつ必死なレオナの提案に、翔馬が合意すると、二人は荷物を抱えて部屋を飛び出した。
――ドンドンッ!
三度目のノックで、ドアが重々しく開く。
「……あんだよ……せっかくウトウトして……飯食えお前ら……」
珍しく寝ぼけ眼のガルファンは、そこまで言うと真剣な顔で前に立つ二人の姿を見て意識を覚ます。
そして、その両手にすべての荷物を抱えていることを確認すると、天井を仰いで深いため息を吐いた。
「……お前らさぁ……」
「ガルファンさん、お願いです……! 部屋を交換してください……!」
「……せっかくのチャンスをフイにするたぁ、筋金入りのヘタレだぜ、エスティ……」
ガルファンは呆れ果てながらため息をつき、荷物をまとめて部屋を出た。
一人部屋へ案内されたレオナが、耳まで真っ赤にして会釈するのを、ガルファンは見ないふりをして見送った。
◇
男二人の、静まり返った部屋。
大きなベッドを前に、翔馬はバツが悪そうに切り出した。
「……やっぱり僕が床で寝ます。ガルファンさんはずっと馬車を走らせてくれていましたし」
「ハッ! “勇者サマ”を床で寝かせるわけにはいかねえな!」
荷物を解いていたガルファンの軽口に、翔馬の身体が凍りついた。
「……え? いま、なんて……。どうしてガルファンさんが……?」
「あ、言ってなかったか? テノラーダでお前が酔い潰れた夜、姫さんから全部聞いた」
「え? ……ガルファンさんは僕が『水鏡の勇者』だって知っていて、ここまで……?」
翔馬の胸に、戦慄が走る。
勇者という途方もない記号が持つ意味は、そう呼ばれたからこそ分かっていた。
だが、ガルファンは不安そうな表情をする翔馬に肩をすくめ、ベッドの縁に腰掛けて翔馬を真っ直ぐに見据えた。
「あんな、俺にゃ関係ねえんだ。勇者だろうが、ハルトのボンボンだろうが。そんなこと、どうだっていい」
ガルファンは道具袋から厚手の敷革と毛布を引っ張り出し、床の手際よい位置に敷いた。
「俺は、生意気で、そのくせ脆くて、それでも必死に前に進むエスティって男を見てんだ。お前が前に進む限り、俺はお前の敵をぶっ飛ばす。……そんだけだ」
敷革の上に転がり、毛布を被って背を向ける。
「つまんねえこと気にしてねえで、姫さんと飯食ってさっさと寝ろ。明日も早えぞ」
「……ガルファンさん」
翔馬の胸の奥から熱いものがこみ上げ、ガルファンの頼もしい背中が滲んで見えた。
不器用な優しさに、深く、深く感謝しながら頭を下げる。
部屋に爆ぜる暖炉の火が、二人の静かな信頼関係を、静かに照らし出していた。
◇
同じ刻――。
商都ニデルから中央街道を北東へ進んだ先。
王都ハルトイニアの手前に位置する大都市ハインラッド、その公爵邸の客間。
パチパチと薪が爆ぜる暖炉の前で、リーデル・グライアス・ハルトニアは一枚の手紙を炎へ投じた。
手紙は青い焔を上げて灰へと還る。
「……お節介な親子だ」
ハインラッドに到着したリーデルを出迎えた執事から告げられたのは、盟友たるシェガレット公爵とその嫡男が、リーデルへの不当な召喚の報を受けるや否や、抗議と支援のために既に王都へ先乗りしたという事実だった。
リーデルは肘掛け椅子に深く身を沈め、静かに目を閉じた。脳裏に去来するのは、過去の王都の光景。
両親を魔族に奪われ、絶望のあまり涙すら涸れ果てていた幼き妹。
おとぎ話の絵本を抱きしめ、『勇者様が救ってくれる』と祈ることでしか息ができなかったあの痛々しい背中。
学者肌で温厚な叔父、現国王エドアルドは自分たちを庇おうとしてくれた。
だが、優しすぎるがゆえに、王都に巣食う貪欲な貴族たちの暗闘を抑え込む剛腕は持ち合わせていなかった。
(お労しき叔父上。だが、私はあなたのように、ただ波に呑まれる弱者でいる気はない)
冷徹な復讐心と、泥水を啜ってでも領民と妹を守り抜くという、領主として、兄としての悲壮な覚悟。
暗い感情が心を支配しきる前に、リーデルは遠いケーニヒシアの空の下にいる翔馬とレオナ、そしてガルファンに思いを馳せる。
「……あの子たちは今頃、テノラーダで騒がしくやっているだろうからね」
リーデルは静かに目を閉じた。そうであってほしいと、心から願いながら。
己の知謀のすべてを懸けて王都の泥沼へと挑む若き領主。
それぞれの場所で、大切なもののために覚悟を決めた者たちの歯車が、王都ハルトイニアへ向けて急速に噛み合い始めていた。




