第42話 南へ、北へ、思惑と共に
見るからに頑強で品のある高速馬車が、宿場町の広場へと滑り込んだ。
冬の陽が傾き、空をわずかに橙色に染め始めた頃。車輪の軋む音が冷え込む空気に響き渡ると、御者台からガルファンが軽やかに飛び降りた。
その瞬間、宿前の広場にいた大人たちの動きがぴたりと止まった。
「……おぉ! ガルファンのニイさんじゃないか!」
最初に声を上げたのは、恰幅のいい宿の主人だった。
その顔に満面の笑みが広がる。周囲にいた役人や荷役の男たちも、歓声を上げながらぞろぞろと駆け寄ってきた。
「戻ってきたんだな! 冬のゴラン峠を越えてったって聞いたから、みんなで心配してたんだぜ!」
「ガルファンよう! お前が教えてくれた車軸の補強方法、試してみたら抜群に荷車が軽くなったぞ! 今夜は一杯奢らせてくれ!」
かつてクロイツを発つ前、ガルファンは朝から晩まで荷役の男たちに混ざり、汗だくになりながら荷の積み下ろしを手伝っていた。
本人はただの暇つぶしと修練の一環でと考えていたが、現場の大人たちにとっては違った。宿や村の事情もお構いなしに、机上の“ルール”を押し付けてきた領主の客人と異なり、その護衛の立場でありながら、自分たちと同じ目線で汗を流してくれた、気のいい仲間だったからだ。
男たちの気さくな大歓声に、ガルファンは首筋をガシガシと掻きながらニッと笑った。
「へっ、当たり前だろーが。あの程度の峠、俺にかかりゃ散歩みたいなもんだ! 車軸の補強? 俺の目に狂いはねえだろ?」
だが――馬車の扉が開き、石畳の上に二人の人影が降り立った瞬間。
男たちの視線が、ガルファンの背後へと移った。
深緑のチュニックを纏い、腰にハルト王家の紋章が入った長剣を佩いた翔馬と、その隣に佇むレオナ。
その姿を捉えた刹那、広場に冬の冷気とは違う、凍てつくような静寂が滑り込んだ。
「あ……」
大人たちの顔から、温かい笑顔が一瞬にして剥ぎ取られる。その代わりに張り付いたのは、かつて翔馬が“正論”で彼らを平伏させた日に見た、あの卑屈な媚びへつらいと、恐れが入り混じったおべっかの仮面だった。
「こ、これは……ラグロのエスティ様……! ご、ご無事でのご帰還、何よりにございます……」
「あ、あぁ……。あの時は……大変お世話になりまして……」
宿の主人が慌てて腰を折り、揉み手をしながらペコペコと頭を下げる。
役人たちも、まるでハルトの絶対的な権力を目の前にしたかのように、身体を縮こまらせて身構えた。
(……ま、こうなるわな。無理もねえ……)
ガルファンはやれやれと言わんばかりに肩をすくめ、視線を空へと逃がした。
行政上、クロイツはケーニヒシア王国の南端に位置するが、王国の主要都市とはゴラン峠を擁する山脈で隔てられている。
一方で、南へ数日下れば豊かなラグロニーネがある。クロイツの住人にとって、実質的な経済と生活の命脈を握っているのは、南の若き領主リーデルなのだ。
だからこそ彼らにとっての翔馬は、自分たちの生殺与奪を決められる、権力者そのものに見えていた。
(……ガルファンさんの言っていた通りだ……)
――連中、ペッコペコ頭を下げてよ。切り詰めろっつってんのに、お前にパンを渡してきたよな?
――連中は、お前のやり方に納得してねえ! 後ろに見える領主サマが怖かった!
空間解析を使うまでもない。大人たちの胸の内に張り付いた、怯えと諦めの色が痛いほど伝わってきた。
翔馬は、強張った大人たちの表情をじっと見つめると、静かに腰の長剣――権力の象徴をベルトごと外して、車輪の脇へそっと立てかけた。
丸腰となった翔馬を見て呆気にとられる大人たちへ、深々と腰を折る。
「――あの時は、本当にすみませんでした」
「え……? ……は?」
宿の主人も役人たちも、目の前の光景が信じられず立ち尽くした。
辺境伯の公務を帯びた高貴な客人が、自分たちのような市井の人間に対し、深々と頭を下げて謝罪しているのだ。
「……今更だと思われるかもしれません。ですが、一言……謝らせてください……。僕、あの時、皆さんの事情など知らずに、自分だけの理屈を押し付けました……」
翔馬は左手首の紫黒石のブレスレットに手を添え、震える声で、だが真っ直ぐに言葉を紡いだ。
「その……僕、まったく気づいていませんでした。皆さんが納得してくれたのではなく、リーデル様の名前で脅してしまったのだと……。僕の無知と思い上がりです。……本当に、すみませんでした」
一切の言い訳を排した、真摯な謝罪。
冷たい冬の風が吹き抜ける中、沈黙が広場を支配した。
やがて、宿の主人は、隣の役人たちと顔を見合わせると、呆れたように、だがどこか毒気を抜かれたような長い息を吐き出した。
「……はぁ。まったく、そんな情けない顔で頭を下げられちゃ、怒る気も失せちまうよ」
主人が後頭部をポリポリと掻く。
その顔から、あの貼り付けたような追従の仮面が完全に剥がれ落ちていた。
「……ガルファンのニイさん。あんた、裏で何か仕込んだのかい?」
「俺が何をするってーんだよ」
腕を組んでいたガルファンが鼻を鳴らし、翔馬の背中をバチンと叩いた。
「コイツ、テノラーダでも盛大にやらかしてな! てめえの浅はかさに気づいて、てめえの意思で勝手に頭を下げてんだよ」
「……そうかい」
宿の主人は何かに納得したように頷くと、翔馬の瞳を真っ直ぐに見据え、ふっと目元を和らげた。
そしてくるりと背を向け、宿の扉を蹴破るような勢いで開け放つと、腹の底から大声を張り上げた。
「おい、母ちゃん! 客人だ! 骨の髄まで温まるスープと、焼き立ての黒パンを大盛りで用意してくれ!」
あっけにとられる翔馬とレオナへ、主人は悪戯っぽく笑いかけた。
「……それじゃあ、そこの坊ちゃんがやらかした笑い話、じっくり聞かせてもらおうか。馬車を寄せて、さっさと入ってきな!」
そこにあったのは、かつての怯えた追従ではない。
寒風を突いてやってきた旅人を温かく迎え入れる、宿主の顔だった。
運ばれてきたのは、カチコチの保存食ではなかった。
貴重な薪を惜しみなく使い、じっくりと煮込まれた肉と根菜の熱いスープからは、白い湯気が立ち上っている。
横のバスケットには大盛りの黒パンがある。食欲をそそる焼き色がつき、香ばしい麦の香りが鼻腔をくすぐった。
翔馬は震える手で木匙を握り、スープを口に運ぶ。濃厚な旨味と温もりが、冷え切っていた五臓六腑へとじんわりと染み渡っていく。
かつて“お供え物”のように恐る恐る差し出された食事とは、温かさの重みがまるで違っていた。
「……美味しい……です……」
翔馬の瞳から一筋の涙が零れ落ち、スープへ波紋を広げた。
隣のレオナはそっと微笑みながら、自らのスープを口に運ぶ。
向かい側でエールを呷るガルファンの口元にも、誇らしげな笑みが浮かんでいた。
◇
翌朝。
翔馬は、かつてと同じ部屋のベッドで目を覚ました。
天井を見つめながら、昨夜の賑やかな食卓を思い出す。
ガルファンたちが戻ったと聞きつけ、宿には役人や荷役、町人たちが集まってきた。
最初はぎこちなかったその空気も、翔馬がテノラーダで経験した失敗談や、泥臭い現場の奮闘を語るうちに、いつしか笑い声へと変わっていった。
ただ、翔馬は彼らにひとつだけ嘘をついた。
『リーデル様は、優れた領地運営の功により、王都で褒章を受けられることになりました。僕たちはそのお祝いに向かうところなんです』
翔馬は思う。かつての自分ならば、嘘は不誠実だとばかりに、事実を正直に告げていただろう、と。
しかし、テノラーダで多くを学んできた今なら分かる。
(……クロイツの人たちに、余計な不安を与える必要はない。僕らが絶対に何とかしなきゃ……)
ベッドから起き上がり、身支度を整え、腰に長剣を佩く。
いまやこの剣は、威光を外に示すためのものではない。大切な人々を守り、道を切り開くための刃だった。
一階へ降りると、すでに準備を終えたガルファンと、宿の女将と談笑していたレオナが出迎えた。
「遅いぞ、エスティ」
「すみません、お待たせしました!」
宿の外へ出ると、見送りのために役人や荷役たちが集まっていた。昨夜の役人が一歩前に進み出る。
「……昨夜もお話しした通り、王都ハルトイニアへは東の村を抜け、アルアバの森林地帯を通るルートが最短です。急ぐ旅とお聞きしましたが、道中はどうか……ご安全に」
「はい、ありがとうございます! 十分に気を引き締めていきます」
クロイツで、街道は二手に分かれる。
一本は、このまま南下する道。その先には、勝手知ったるラグロニーネが待っている。
もう一本は、東の村へと進む道。その道は、アルアバと呼ばれる広大な森と峻険な峠を突っ切って、ハルト領へ最短で合流する。
一刻を争ういま、選ぶべき道はひとつだった。
「気をつけて行けよ、エスティの坊ちゃん! 王都はこっちよりずっと冷えるからな!」
「ガルファンよう! 戻ってきたらもう一杯奢ってやるからな!」
「荷台に、保存食と干し肉をたっぷり積んでおいたぞ!」
宿の主人や荷役たちが、心からの笑顔で手を振ってくれる。
翔馬とレオナは、馬車の窓から身を乗り出し、ちぎれんばかりに大きく手を振り返した。
「皆さん、本当にありがとうございました! 行ってきます!」
チャコとチャイが力強く石畳を蹴り、クロイツ宿の景色が瞬く間に遠ざかっていく。
自らの過ちを受け止め、背中を押してくれた人々の温もりを胸に、馬車はアルアバの森へ向けて猛然と疾走を始めた。
◇
時を同じくして――。
ラグロニーネから北東へと伸びる中央街道を、重々しく進む豪奢な馬車が一輌あった。
車内には、整然と積み上げられた書類と法規書の山。
ラグロ辺境伯リーデル・グライアス・ハルトニアは、鋭い眼光で羊皮紙の束をめくっていた。
「……フン」
車窓の外に広がる冬の枯野を見やり、リーデルは冷ややかに鼻を鳴らした。
(査察で落ち度が出ないと分かるや否や、今度は『尋問のための召喚状』とはな……)
先日の査察への対処は、リーデルにとって造作もないことだった。
正当な手順で作られた行政記録を、右から左へと突きつけたに過ぎない。
老執事ギルバートの手によって管理された公文書の山を前に、ドラスたちは血眼になって粗探しを試みた。しかし、彼らの思うとおりにはならず、結果、埃一つ見つけられずに退散する羽目となったのだ。
(叔父上も、もはや連中を抑えきれないようだね……。ま、無理もないか)
リーデルは、分厚い封書の上に置かれた召喚状を指先で弾いた。差出人は、叔父であるハルト国王エドアルド。
遠地にありながら、エドアルドが自分たち兄妹を、中央の脅威から遠ざけようと苦心していることは、これまでの密書からも痛いほど伝わっていた。しかし、それと同時に、リーデルの脳裏には、父エンデルスにどことなく似た、しかしそれよりも柔和な顔が思い浮かんだ。
突如として舞い込んだ王の座。それを担ぎ上げた一派と、対抗する一派。やがて、王都ハルトイニアが現王派と前王派に分かれ、私利私欲と派閥争いが渦巻く魑魅魍魎の巣窟と化していることは、リーデルも分かっていたつもりだった。
この領主と老執事には、誤算がふたつあった。
ひとつは、この状況までは予見していなかったこと。完璧すぎる成果こそが、中央の古狸たちの危機感を逆撫でしてしまった。
もうひとつは、中央の争いが想像以上に進行していたこと。歴史研究家としての叔父では、止められるようなものではない状態になっていた。
(……こんな醜い騒動に、あの子たちを巻き込むわけにはいかないね。テノラーダで存分に学んでくれよ)
ギルバートへ遺してきた伝言を思い返し、リーデルの双眸に、絶対に折れぬ冷徹な決意が宿った。
持ち前の法知識と論理で、尋問を有耶無耶の長期戦に持ち込み、徹底して突っぱねる――それがリーデルの描いた防衛線だった。
幼き妹と少年の平穏を祈りながら、若き領主の乗る馬車は、冷たい風を切り裂き、嵐の渦巻く王都ハルトイニアへ向けて静かに進み続けていた。




