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水鏡の光は誰がために  作者: 瑠玻 刃
第三章 王都ハルトイニア動乱
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第41話 駆け抜ける、その道の中で

 石畳を叩く激しい蹄の音が、冬の冷たく澄んだ空気にどこまでも響き渡る。

 テノラーダの東城門を駆け抜けてから数刻。カルロとバートンが手配した馬車は、チャコとチャイの脚力を削ぐことなく、飛ぶような速度で街道を突き進んでいた。

 路面抵抗と衝撃を和らげる特殊な機構を組み込んだ高速仕様。しかし、その勢いとは裏腹に、革張りの座席に向かい合って腰掛ける翔馬とレオナの表情は、暗く、重く沈み込んでいた。


「……兄様……」


 レオナは膝の上で両手を重ね、微かに唇を震わせていた。翔馬の表情もまた、両の手を強く握り、遠ざかっていくテノラーダの黒い街並みをじっと見つめる。

 二人の心にあるのは、リーデルの姿。誰よりも領民のために、隣国のために心を砕いていたはずが、ハルト本国の権力闘争に引きずり込まれようとしている。

 その現実が、二人の肩に冷たい鉛となってのしかかっていた。


 その時――御者台に通じる小窓がドコンと乱暴に叩かれ、怒声が飛び込んできた。


「おいおい! いつまで辛気くせえツラしてやがる、お前らは!」


 手綱を握るガルファンが、御者台から二人を一喝する。その手には、兄ガルヴィンから託された炎の手甲が、寒風を遮るようにじんわりと赤銅色の熱を湛えて輝いていた。


「ガルファンさん……」


「ですがガルファン様、兄様が……!」


「そんなツラしてりゃあ、馬がもっと速く走るのか!?」


 ガルファンはフンと鼻を鳴らし、手綱を小気味よくしならせた。


「そのツラのままハルトイニアに行ってみろ! あの領主サマが『よくぞ暗い顔で来てくれた!』なーんて喜ぶとでも思ってんのか!?」


 翔馬とレオナは言い返そうとして、言葉を詰まらせた。


「今の俺らにできること! 腹が減ったら飯を食う! 休める時にしっかり寝る! 最高の一撃を叩き込むために力を蓄える! 分かったならシャキッとしやがれ!」


 豪快で、一切の甘えを許さない叱咤。だが、修練場で向けられた怒声とは違う、言葉の奥にある不器用で温かい気遣いが、二人の心にじわりと熱を灯した。


「……そうですね」


 翔馬は深く息を吐き出し、両手で自らの頬をパンッと叩いた。鋭い痛みが意識を醒めさせ、視界が澄み渡っていくのを感じる。


「僕たちが途中で倒れたら、リーデル様を助けるどころじゃない。……ありがとう、ガルファンさん」


「……兄様に『情けない顔をするな!』と呆れられてしまいますね……」


 レオナも翔馬から贈られた紫黒石の髪留めにそっと手を触れ、背筋を伸ばして凛とした微笑みを取り戻した。


「ハッ、最初からそうしろってんだ!」


 ガルファンは不敵に笑うと、再び前方の街道へと向き直った。


 ◇


 馬車はテノラーダを囲む外輪山の尾根を駆け抜け、中腹のつづら折りへと差し掛かっていた。ここを下りきれば宿場街道。さらにその先には、険しく荒涼とした乾燥地帯が待ち受けている。

 翔馬は窓から身を乗り出し、前方で泥を猛然と跳ね上げながら走るチャコとチャイへ視線を向けた。

 往路とは比べ物にならないほどの猛烈なハイペース。二頭はこちらの焦燥に応えるかのように、力強い走りを続けている。

 戦っているのは、自分たちだけではないのだ。


(……待っていてください、リーデル様)


 座席の傍らに立てかけた長剣に手を添え、翔馬は深く静かに息を吸い込んだ。

 そして、左手首の紫黒石のブレスレットへと意識を沈める。

 銀細工の印を通じて、穏やかで潤沢なマナが全身へと行き渡り、能力を制御できている感覚のまま、ゆっくりと目を閉じる。


(……)


 そして、意識の波紋を外側へと押し広げる。

 かつてのように、こめかみを太い釘で貫かれるような激痛は現れない。紫黒石のブレスレットを通じて、清らかな水が滾々と湧き出る泉のように、翔馬の器にマナが満たされていた。

 外輪山の急峻な岩肌、冷たい風の通り道――前方を走る二頭の筋肉の収縮、荒い息遣い、蹄が石を噛む微かな歪みまでもが、精緻な立体図面のように脳裏へ浮かび上がった。


(……呼吸、心拍、筋肉の限界……)


 翔馬は脳内を流れる情報を冷静に分析し、御者台のガルファンへ向けて声を張り上げた。


「ガルファンさん。次の宿場の手前で、半刻だけ休憩を取りましょう」


「……馬は賢えからな。俺たちの焦りを感じ取って、無理して飛ばしやがる」


 焦りに任せて鞭を打てば、どれほど屈強な軍馬であっても途中で足を折る。

 テノラーダの現場で余裕や余白の重要性を学び、魔法を制御できるようになった翔馬は、感情に流されず、現実的なタイミングを弾き出した。

 御者台のガルファンが、嬉しそうに口元を吊り上げる。


「へっ……言うようになったじゃねえか」


 馬車は翔馬の指示通り、的確に休息を挟みながら、往路とは比べ物にならない猛烈な速度を維持したまま外輪山を駆け降りていった。

 やがて一行は、木々の途絶えた荒涼たる赤土の大地へと躍り出た。往路では果てしなく感じられた乾燥地帯すら、疾風のように駆け抜けていく。


 その日の夜。初冬の冷たい風を遮る巨岩の陰で、三人は焚き火を囲んでいた。

 パチパチと薪が爆ぜる音の中、温かいスープの木椀を静かに口へ運ぶ。


「エスティ、ガルファン様。……本当に申し訳ありません。国の争いに、お二人を巻き込んでしまって……」


 レオナが木椀を置き、焚き火に視線を落として深く頭を下げた。

 リーデルを救いに行くきっかけは、ハルト本国の権力闘争に他ならない。他国の生まれであるガルファンや、異世界から来た翔馬を巻き込むことへの、耐えがたい罪悪感からだった。


「ハッ! 何を言い出すかと思えば!」


 ガルファンは、そんなレオナの姿を呆れたように笑い飛ばす。


「俺は、エスティが行くっつーからついていくだけだ。だろ? 大将!」


 そして翔馬を試すように見やる。

 翔馬はその視線を受け止めて頷くと、傍らの長剣を固く握りしめ、レオナの瞳を真剣な眼差しで見つめた。


「はい。……レオナ? 僕は、リーデル様から大切なことをたくさん教わりました。この剣を、振るうべきときに、振れるようになれと託してくれた……。だから、僕は僕自身の意思で助けに行くんです。巻き込んだ、なんて思わないでください」


「へっ! いい面構えだぜ!」


 ガルファンが満足げに鼻を鳴らす。


「ありがとう……二人とも……」


 レオナは唇を噛み締め、零れ落ちそうになる涙を必死に堪えて頷いた。

 翔馬の左手首に光る、紫黒石のブレスレット。レオナの銀髪に輝く、一輪の花を象った紫黒石の髪留め。

 そして、翔馬の決意をニヤリと見つめるガルファンの両手首で、兄から託された炎の手甲が、焚き火の爆ぜる火の粉よりも赤々と、熱い闘志のように静かに熱を放っていた。

 同じ石に同じ誓いを宿した胸に、そして託された炎を宿した拳に、もはや一切の迷いはなかった。


 ◇


 テノラーダを出発しておよそ二週間

 旅は順調だった。宿場を幾つも越え、チャコとチャイの奮闘によって辿り着いた先。三人の目の前に立ちはだかったのは、深い針葉樹林の境界線――街道最大の難所、凍てつく冬のゴラン峠だった。

 吹き下ろす風は真冬の冷気を纏い、鋭く肌を刺す。だが、二頭の馬は力強く鼻息を荒らげ、翔馬の双眸にも怯えの色は微塵もなかった。


「よぉし、行くぞ! 冬のゴラン峠、一気にブチ抜くぜ!」


 ガルファンの気合いとともに、鞭の音が静寂を切り裂いた。

 馬車は激しい蹄の音を響かせ、険しい峠道へと突入していく。針葉樹林帯を抜け、高度を上げるにつれて切り立った黒い岩肌が露わになり、枯れ木が立ち並ぶ見通しの悪い急勾配のつづら折りが続く。

 翔馬は、初めてこの峠を越えた日のことを思い出しながら、流れる車窓を見つめていた。


「……数か月前の自分が、嘘のようです」


 翔馬の呟きに、正面のレオナがくすりと微笑んだ。


「あの頃のエスティも自信に満ちているように見えましたが……。今はもっと……そうですね、なにか芯のようなものを感じます」


「あはは……。テノラーダの皆さんに、色々と叩き直してもらいましたから……」


 あの時は、ただ傲慢に調子に乗っていただけだった。

 だが、鼻っ柱をへし折られ、泥に塗れて学んだからこそ、今がある。

 翔馬はその実感を込めて苦笑した。


「大丈夫です。もしエスティが道を誤りそうになったら、今度は私も、何度でも正しますから」


 花が咲くようなレオナの微笑みが、寒々しい峠の空気を溶かすように翔馬の胸を満たす。その馬車が峠の中腹へと差し掛かった、その時。

 三人は同時に、肌を撫でる刺々しい悪寒を感じ取った。


 グルルル……ッ。


 風の音に混じり、低く湿った唸り声が岩肌に反響する。


「ケッ、ここでも出やがったか! 面倒くせえ連中だ!」


 ガルファンが手綱を引き、馬車を急停止させると、岩陰や枯れ木の間から、黒い毛並みを逆立たせた大型の山魔狼が六体、ぬうっと姿を現した。

 かつて、テノラーダへ向かう道で遭遇した相手、その数は倍。

 血に飢えた赤い瞳が、逃げ場のない狭い峠道で馬車を完全に包囲する。


「エスティ、姫さん! 来るぞ!」


 ガルファンは御者台から飛び降りるや否や、両手首に着けられた炎神の手甲を打ち合わせた。ガチンッと響く甲高い金属音と共に、精霊の加護による複雑な印が赤々と輝きを放つ。

 翔馬もまた馬車から滑らかに飛び降り、腰の長剣を一息に抜き放った。

 腰が引けることも、足が竦むこともない。左手首のブレスレットから、澄み切ったマナが、血液の奔流のように巡り渡っていく。


(焦るな……。ありのままに、全体を捉えるんだ)


 翔馬は深く息を吸い、空間解析の波紋を静かに外側へ解き放った。


 ――シュンッ!


 六体の山魔狼の骨格の動き、跳躍の予備動作、筋肉の緊張、足元の石畳の傾斜。

 すべてがスローモーションのように、脳内に鮮明な立体映像として結像する。


「左はガルファンさん! 右は僕が受け持ちます!」


「おうよっ!!」


「……水の精霊よ、その清廉なる息吹を!」


 翔馬の叫びと同時に、レオナの澄んだ声が響き渡ると、三人の全身を薄青い水の魔力が包み込み、まるで重力から解き放たれたかのように身体が軽くなる。

 次の瞬間、左側の山魔狼二頭が牙を剥いて跳躍すると、ガルファンは力強く踏み込むや否や、疾風のごとく駆け抜け、巨体の懐へと潜り込んだ。


「オラァッ!!」


 手甲を纏った右拳が、灼熱の焔を噴き上げながら山魔狼の顎下へ突き上げられると、骨の砕ける鈍い音が響き、巨体が空中へと弾き飛ばされる。

 さらに流れるような旋回から放たれた左の回し蹴りが、二体目の脇腹を粉砕し、そのまま断崖の底へと落ちていった。

 また、翔馬も脳裏に映る白銀の予測線に沿って、滑らかに身体を捻り、掠める爪を紙一重でかわす。すれ違いざま、もう一本の光芒をなぞるように長剣を水平に一閃させる。迷いのない刃が、山魔狼の喉元を正確に両断し、ドサリと巨体が崩れ落ちた。


 三人は、互いの動きを理解し、補い、支え合う。戦いは驚くほど短かった。

 最後の一体が地面へ崩れ落ちるまで、わずか数十秒。

 翔馬は息をふうと吐いて、剣の血を振り払い、静かに鞘へと納めた。


「……終わりましたね」


「ダハハ! おいおい! 俺たちの連携、完璧じゃねえか!」


「エスティの指示も、ガルファン様も、本当にお見事でした!」


 手甲を打ち鳴らして豪快に笑うガルファンと、瞳を輝かせて駆け寄ってくるレオナ。翔馬は、自らの硬いタコの刻まれた手のひらを見つめた。


(……僕たちは、強くなれている)


 恐れて封印していた魔法を、自らの力として使いこなせている。

 ガルファンと泥に塗れて培った剣の技術も、確実に生きている。

 何より――互いの命を預け合える、絶対的な仲間がいる。

 胸の奥から込み上げてくる熱い感情に突き動かされ、翔馬は二人に向き直った。


「ガルファンさん、レオナ」


「あん? どした?」


「……? エスティ?」


 突然改まった少年の声に、二人が小首を傾げる。

 翔馬は照れくささに耳を赤くしながらも、真っ直ぐに二人の目を見つめて言った。


「……ありがとうございます。僕と一緒に、ここにいてくれて」


 見知らぬ異世界に放り込まれ、生き残るために必死に虚勢を張っていたかつての自分。その孤独を砕き、共に泣き、共に笑い、共に進んでくれる二人への、精一杯の感謝。

 不意打ちの言葉に、ガルファンとレオナは目を丸くし――やがて。


「……ハッ! 山魔狼に頭でも殴られたか?」


 ガルファンは頭をガリガリと掻き、顔を背けながら悪態をついた。


「言ったろ。俺はお前の邪魔をする奴を、全員ぶっ飛ばすんだよ」


「ふふっ。どういたしまして、エスティ」


 レオナは花がほころぶような爛漫の笑顔を咲かせ、一歩だけ歩み寄った。

 冬のゴラン峠を吹き抜ける冷たい風の中。

 互いに顔を見合わせ、笑い合う三人の絆は、凍てつく空気を溶かすほど温かく、力強く燃え上がっていた。


 ◇


 夕暮れが迫る頃。ゴランの尾根を越えた馬車は、峠の下り坂を進んでいた。

 西へ傾いた陽光が、赤く大地を照らし、その先に小さな石壁と煙突の立ち並ぶ宿場町を浮かび上がらせた。クロイツだった。

 翔馬は窓の外へ視線を向けたまま、小さく息を呑んだ。


(……戻ってきたんだ……)


 翔馬にとっては、忘れられない場所だった。

 山魔狼と戦い、気を失い、担ぎ込まれた宿場町。そして、独りよがりの計算だけで判断し、事情も想いも見ようとせず、リーデルの威光を盾に無理やり正解を押し付けた場所。

 無意識に、膝の上で握った拳へ力が入る。この一ヶ月半の現場仕事で、すっかり皮膚が硬くなり、不格好なタコが刻まれた手に。


「……エスティ」


 向かいのレオナの視線が、翔馬の拳へと静かに落とされ、そして瑠璃色の瞳が心配そうに揺らいだ。


「あ……。……少しだけ、緊張してるみたいです」


 翔馬は小さく苦笑する。クロイツでの出来事は、今となっては、思い出したくない失敗の一つだった。

 レオナは、そんな翔馬の膝で固く握られた拳を愛おしむように見つめながら、優しく目を細めた。


「……でも、エスティはあの時とは違いますよ?」


「え?」


「今のエスティなら、大丈夫です」


 まるで断言するような口調に、翔馬は思わず目を瞬かせる。

 不思議と、心の中の不安が少し軽くなったように感じた。

 だから――。


「……ありがとうございます」


 翔馬は静かに頷いて、レオナに笑顔を向けた。

 そして再び、夕陽に照らされたクロイツの街並みをまっすぐに見据える。


(もう逃げない。クロイツでも、王都でも)


 馬車は、力強く土煙を上げながら、宿場町クロイツへ向けて走り続けていた。

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