第40話 急転、ラグロニーネからの報せ
すっかり冬の澄んだ空気に包まれたテノラーダ。
領主館の会議室では、羊皮紙を広げる軽やかな音が響いた。
巨大な円卓を囲んでいるのは、領主カルロ・フォン・シュタイン侯爵、そして物流のバートン、倉庫のボリス、商業のヴィンセント。この街の命脈を支える四人である。
彼らの鋭い視線が集まる中、翔馬は一枚の図面と、びっしりと細かな文字が書き込まれた提案書を指し示していた。
「――以上の理由から、この七番倉庫と八番倉庫の間に、それぞれ一本ずつ車列路を増設したいと考えています」
翔馬の声には、かつてのような机上の正論を振りかざす気負いも、怯えの揺らぎも一切なかった。
左手首に光る紫黒石のブレスレットから巡る、穏やかなマナの温もりを感じながら、翔馬は静かに、しかし力強く自らの思考を紡いでいく。
「長旅を終えた商人たちが互いの無事を確かめ合い、簡単な挨拶や商談を交わす時間は、この都市の熱量を維持するために欠かせません。僕も好きな光景です。でも、現行の七番と八番の区画は細い路地を挟んで並んでいて、双方に車列ができると、この東西方向の街路が完全に塞がれます。付近の住民に話を聞いたところ、すぐ裏手に日用品の市場があり、子供や荷車を含めて通行に不安を感じている方々が多数おられました」
翔馬の指先が、羊皮紙の上に精緻に描かれたテノラーダの地図をなぞる。
北東の倉庫区画。古くからの住宅街を一部転用したため、道幅が極端に狭い難所である。
「目的は、動線の複線化で事故を防ぐことです。車列が一定の長さに達したら、現場指示で二列目を解放します。これなら市民の動線を邪魔しませんし、隊商同士が最大四列で並ぶので、互いの交流もより円滑になります。彼らに食事を売り歩く露天商も、長大な車列に沿って往復する必要がなくなります」
部屋に、静かな沈黙が落ちた。
四人の表情を見回し、翔馬は淀みなく続ける。
「二本目の車列路ですが、倉庫の一部を削ります。荷役頭に聞き込みを行ったところ、双方の荷役用通路は老朽化が進んでおり、年間数件の転倒事故が発生していました。そこで、通路裏の備品庫を整理して、代替の荷役通路を確保します。構造上可能であることは確認済みです。そして、現行の通路と外壁を撤去して車列路へ転用します。平常時は車列路として、荷の少ない閑散期には露店商の売り場や飲食スペースとして柔軟に貸し出すことも可能ですし、賃料を取ってもいいかもしれません。……なお、工期と概算費用については、建築組合に確認して試算を済ませてあります」
翔馬はふうと息を整えると「……いかがでしょうか」と四人を見据えた。
バートンが細い目をさらに細め、手帳と図面を交互に見比べる。
ボリスは太い腕を組み、眉間に深い皺を寄せていたが、その双眸には隠しきれない感嘆の色が滲んでいた。
ヴィンセントに至っては、顎に手を当てて優雅な笑みを深めている。
「ふむ」
バートンが手帳の端を机にトントンと叩きつけた。
「既存の設備を流用し、現場の動線を拡張しつつ事故を未然に防ぐ、か。……無理に車列の流れを止めず、かといって街を麻痺させもしない。ふん、まあ及第点だな」
「ガハハ! 及第点とは手厳しいじゃねえか、バートン! 狭くて段差だらけの通路に文句を言ってた若い連中も、これならグダグダ言わねえだろ!」
ボリスが巨躯を揺らして豪快に笑い、図面を太い指で叩いた。
「フフ、商人同士の交流と、露天商の売り上げだけでなく、こちらの利益まで計算に入れるとは」
ヴィンセントも満足げに頷いた。
「予算と工期の詰めは必要ですが、これなら界隈の店主たちも賛同するでしょう。……計算に『血』が通いましたね、エスティ殿」
机の奥で背もたれに深く身体を預けていたカルロが、口元の端を吊り上げた。
「フン……ひと月半前、こやつらに向かって『抜き身のナイフ』を振り回していた小僧と同一人物とは思えんな。……市井の泥を舐め、人々の声を聞き、見事に噛み砕いてみせた。見事だ」
「ありがとうございます!」
翔馬は背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
自分ひとりの計算では、決して辿り着けなかった答え。
この街を愛し、清濁を併せ呑みながら生きる大人たちから授かった知恵が、ひとつの確かな形として結実した。
バートンが一思案した後、翔馬の図面を指さしながらボリスを見やる。
「ひとまず、車列を分散させた場合の効果測定が必要だな。……ボリス、明後日の二の刻から、道幅に余裕のある二番区画で試験運用を――」
そう言い、バートンが指示を図面へ書き込もうとした、まさにその瞬間だった。
ドンドンッ! と、執務室の重厚な木扉が激しい勢いで打ち鳴らされた。
「何だ!」
カルロが扉に向かって苛ついた声を向けると、扉が勢いよく押し開かれ、息を切らせた館の警備兵が駆け込んできた。
「閣下! 申し訳ございません! 炎神の神殿より急報にございます!」
その背後から、重々しい足音を響かせて現れたのは、武闘僧侶総長バルザックと、その長男ガルヴィンだった。
普段は豪放磊落なバルザックの厳めしい顔が、尋常ではない緊迫感に強張っている。
「親父……兄貴? どうしたんだよ」
ガルファンが眉をひそめて身を起こした。
バルザックは無言でカルロへ一礼すると、太い手の中に握りしめられていた、固く封印された一通の羊皮紙を机の上へと置いた。
「……ラグロ領の筆頭政務官ギルバート殿より、早馬にて我が神殿に届いた至急の親書だ。……エスティ殿、ならびにレオナ殿宛てである」
執務室の空気が凍りついた。
翔馬は喉をごくりと鳴らし、恐る恐る封書を手に取る。そこには、見慣れたラグロ領の蜜蝋印。
封を素早く解き、手紙を広げる。隣からレオナが、紫紺の瞳を不安に揺らしながら寄り添うように覗き込んだ。
羊皮紙の上には、翔馬たちがテノラーダへ出発してからの経緯が、要点を押さえて細かに記されていた。
あの几帳面なギルバートの筆跡とは思えぬほど、焦りと苦渋に満ちた走り書き。そこには、こうある。
翔馬一行が旅に出てから数日後、ハルト本国から現王派の“査察官”がやってきたこと。
査察により、ラグロニーネの統治には一点の瑕疵もなく、むしろ賞賛されるべき成果であったこと。
査察の“成果”を快く思わない現王派貴族が、不当な言いがかりをつけたこと。
結果、リーデルを尋問にかけるべく、王命で王都ハルトイニアへ召喚状が届いたこと。
そして、リーデルは領地を守るため、その召喚に応じて王都へ出立してしまったこと――。
「……『レオナ様、エスティ殿はテノラーダにて学びを深め続けられよ。次の連絡を待たれたし』……って、そんな……!」
自分たちがテノラーダで過ごしていた最中に、ラグロニーネを、そしてリーデルを襲った理不尽な嵐。
手紙を握る翔馬の指先が冷たくなっていく。
「兄様が……王都へ……!?」
手紙の末尾には、『出立はこの手紙を記した前日。一日経ち、私には嫌な予感がしてなりません』と結ばれていた。
レオナの膝から力が抜け、崩れ落ちそうになるのを、翔馬は咄嗟に支えた。
しかし、自らの胸の奥にも、氷の刃を突き刺されたような激しい悪寒が走っていることを感じ、唇がわなわなと震える。
「……見せてみろ」
カルロが静かな声で促し、手紙を受け取った。
鷹のような眼光で一通り目を通すと、鼻で冷たく笑い、羊皮紙を机へ放り出した。
「くだらん。反吐が出るような、典型的な権力闘争だな」
「侯爵閣下……! どういうことなのですか!?」
翔馬が身を乗り出す。先ほどまで、街の設計図を淡々と説明する冷静さは、とうに消え失せていた。
カルロは組んだ手の上に顎を乗せ、冷徹なリアリストの瞳で少年を見据えた。
「落ち着け、エスティ殿。……査察で埃が出なかったものを、無理やり王都へ召喚して尋問にかけるなど、まともな手続きであるはずがなかろう」
カルロは指を二本立てた。
「ハルト本国の噂はテノラーダにも届いている。前王の嫡男たるリーデル殿は、前王派の『現国王を引きずり降ろす最高の旗印』であり、現王派の『存在そのものが許されない目の上の瘤』……ということだろう」
「そんな……! 兄様は、エドアルド叔父様に取って代わろうなど……! ただラグロニーネの人々を守るために……!」
レオナが涙声で叫ぶ。
兄は両親の仇を憎み、中央の権力争いを厭い、辺境のラグロニーネへ移った。
そこで血の滲むような努力を重ねる兄の背中を見てきたレオナに、疑う余地などなかった。
「血筋。それを周囲の者が放っておかん。本人に野心がなくとも関係ないのだ、レオナ姫。貴女自身も同じ立場なのだぞ」
容赦のない現実を突きつけられ、レオナの身体が小さく震える。
「この無理矢理な召喚も考えが見え透いておる。現王派は、前王派がリーデル殿を担ぎ上げる前に、濡れ衣を着せて貶める気だろう。……ギルバート殿……なるほど、元宰相閣下か。あの御仁であれば当然気づくだろうよ。あちらに時間を与えれば与えるほど、リーデル殿が窮地に陥るとな」
部屋の中に、鉛のように重い沈黙が満ちていく。
「にしても、かの宰相閣下がわざわざこのような手紙を……。もしかすると……貴殿のためではないか? エスティ殿」
カルロの言葉に、翔馬の胸の奥で、猛烈な怒りと焦燥が渦を巻いた。
(ぼ、僕のため……? リーデル様が……? ギルバートさんは……それを知らせるために!?)
そうであれば、今すぐにでも王都へ駆けつけ、何としてでも助け出さなければならない。
(どうやって? それに……)
翔馬の視線が泳ぎ、机の上に広げられたテノラーダ改善計画の図面へと落ちた。
目の前には、自分を受け入れ、泥臭い知恵を惜しみなく授けてくれた三人の師がいる。
今まさに、彼らと共に新しい街の仕組みを動かそうとしていた矢先に投げ出せば、彼らの信頼を裏切ることになるのではないか。
(……いや、考えろ! 何かいい手があるはずだ……考えろ……!)
自分に居場所をくれたリーデル。
自分を一人前になるよう鍛え上げてくれているテノラーダの大人たち。
どちらの恩義も捨てられない葛藤が、翔馬の足を石畳に縫い止めていた。
その逡巡を、三人の頭元締めが見逃すはずもなかった。
バートンが呆れたように大きなため息を吐くと、大股で歩み寄り、翔馬の小脇にあった書類の束をひょいと奪い取った。
「……何をもたもたしてやがる、エスティ。さっさと出立の準備をしろ」
「バートン様……? あ、あの、この提案は……僕も、現場で最後まで見届けるつもりで――」
「このバカ野郎ッ!」
バートンの怒号が、執務室の壁をビリビリと震わせた。
跳び上がる翔馬の額を、バートンは手帳で小気味よく叩いた。
「思い上がるんじゃねえ! 俺たちを誰だと思ってやがる! この程度の計画、お前がいなきゃ回せねえとでも思っていたのか、ああ!?」
「え……」
「ガハハハハ! その通りだぜ!」
ボリスが太い腕を組み、豪快に笑い飛ばして翔馬の背中をドスンと叩いた。
「お前の“恩人”のピンチなんだろうが! だったらすっ飛んでいくのが男ってもんだ! 腹を括れ!」
「……まったく、やれやれですね」
ヴィンセントも優雅に肩をすくめて微笑んだ。
「自分自身に嘘をつくのは酷く下手くそのようだ。……ここは私たちの街ですよ? 私たちが責任を持って、あなたの計画を完璧に形にしてみせましょう」
三人の師の、不器用で、どこまでも温かい叱咤。
彼らは自分を責めるどころか、一人前の弟子として、その背中を力強く押してくれていたのだ。
翔馬の視界が、じわじわと熱い涙で滲んでいく。
「……皆さん……っ!」
「話は決まったな?」
カルロが静かに立ち上がると、執務机の引き出しから一枚の重厚な羊皮紙を取り出した。
そこには、シュタイン侯爵家の猛々しい黒鷲の紋章が鮮やかに刻印されている。
「シュタイン領内の関所を突破できる緊急通行証だ。持っていけ。ハルトイニアへは、クロイツから東の関所を越えるのが最も早い。そこで役に立つだろう。……バートン、高速馬車を一輌、明朝までに手配しろ」
「ああ、とびきりの一台を準備しよう」
「……このテノラーダは、全力で貴殿らを後押しする。街道を焼き尽くす勢いで、ハルトイニアまで駆け抜けるがいい」
カルロは不敵な、だが温かな笑みを翔馬とレオナに向けた。
「侯爵閣下……! 感謝いたします!」
「ありがとう……ございます……っ!」
翔馬が深く頭を下げ、レオナが涙を拭った、その時。
静かに一歩前へ踏み出した男がいた。
普段の野性味あふれる不敵な笑みを封印し、瞳に力強さを湛えた男――ガルファンだった。
ガルファンは、父バルザックと兄ガルヴィンの前に立つと、がっしりと翔馬の肩を掴みながら、堂々と胸を張って言い放った。
「親父、兄貴……。すまねえ。俺はコイツについていく」
とたん、ピリッと会議室の空気が張り詰める。
「コイツがどうするか一番近くで見届けてえ。……だから、エスティの邪魔になるやつは、俺が片っ端からぶっ飛ばす!」
言葉の端々から、神殿を預かる一族の血筋としての立場や、いつか故郷へ戻るという前提すら投げ打つかのような覚悟がにじみ出る。
ガルファンはバルザックから視線を外さない。
張り詰めた沈黙ののち――。
「……ガハハハハハハハッ!」
バルザックの雷のような大爆笑が、部屋の天井を揺るがした。
丸太のような腕でガルファンの肩を力任せに叩く。
「それでこそ俺の息子だ! 命を懸けるべき友のために拳を振るう! 炎神の真髄、ここに見たり! 存分に暴れてこい、ガルファン!」
兄のガルヴィンもまた静かに歩み出ると、自らの両腕に巻かれていた重厚な『炎神の手甲』を外し、弟の手へと力強く握らせた。
美しく磨き上げられた金属に、神殿の象徴たる炎の神聖な印が刻まれている。
「愚弟よ。その手甲は、精霊の加護を宿した我が神殿の宝具だ。……エスティ殿とレオナ殿の背中を、命に代えても守り抜け」
「……兄貴。ああ、任せろ!」
ガルファンは手甲を強く握りしめ、力強く頷いた。
翔馬、レオナ、ガルファン。
三人の瞳に宿るのは、もはや迷いでも怯えでもない。
大切な恩人を救うため、激動の嵐のただ中へと飛び込んでいく、揺るぎない覚悟そのものだった。




