第39話 ふたつの石、紫黒の誓い
「さあ、エスティ。左手を出してください」
装飾品店から届いた小さな木箱を膝に置き、レオナが弾んだ声で促す。
柔らかな朝の陽光が差し込む部屋には、翔馬とレオナ、そして壁に背を預けて、呆れ顔で腕を組むガルファンの三人が集まっていた。
木箱の底、黒い布の上に鎮座していたのは、深く澄んだ紫黒の光沢を放つ石。そこに、繊細な銀細工で光の印が刻み込まれた美しいブレスレットだった。
翔馬が差し出した左手首へ、レオナの滑らかな指先がそっと触れる。
その爪先がわずかに肌をかすめるだけで、翔馬の背筋に小さな電流のような緊張が走った。
やがて、カチリと静かな音が響き、留め具が嵌まる。
――チリ……ッ。
瞬間、銀細工に刻まれた印が淡い光を宿し、紫黒石がその光を美しく反射する。
まるで、乾いた砂が恵みの雨をごくごくと飲み込んでいくかのように、紫黒石を通じて、穏やかで潤沢なマナが翔馬の全身へ巡り渡る。澄んだ力が身体の奥底に満たされる心地よい感覚に、翔馬は感動して目を輝かせた。
「……すごい。身体がどんどん温かい力で包まれていく……」
これならば、あの反動に苦しむことなく力を扱えるはずだといった確信とともに、そっと意識の波紋を広げてみる。
――シュンッ!
今までとは比較にならない速度と鮮明さで、脳内に周囲の情景が広がっていく。
客間の柱に刻まれた小さな傷、レオナの淹れた茶の対流、扉の外を歩く神官の姿、中庭の木々を揺らす冷たい冬の風の動きまでもが、淀みなく鮮明に像を結んだ。
こめかみを殴られたような激痛も、四肢を縛るような倦怠感も現れない。
「……部屋のすぐ外、壁の裏側に神官が二人。書物を持って祭壇へ向かっていますね。……ああ、本当にすごいや」
驚異的な効果を確かめながらも、翔馬の表情には一切の苦痛がなかった。
「驚いた。問題ねえようだな」
「大成功ですね、エスティ!」
レオナが心底嬉しそうに胸の前で両手を組んだ。
花がほころぶようなその笑顔に、翔馬の胸がキュッと締め付けられる。
「本当にありがとう、レオナ! ……このブレスレット、一生大切にします!」
「うふふ、一生だなんて大げさですね! でも、喜んでいただけてなによりです」
翔馬は満面の笑みを返し、そして――上着の右ポケットに忍ばせていた小さな包みを、指先でギュッと握りしめた。
(……今だ! 渡さなきゃ! 貰いっぱなしなんて格好悪すぎる。僕が作ったお返しを……今、ここで!)
息を吸い込んでポケットから手を取り出そうとした瞬間――目の前で可憐に微笑むレオナと、真正面から目が合った。
その瞬間、猛烈な気恥ずかしさが爪先から頭の天辺までを駆け抜けた。
(いやいや、今ここで出すのか!? 『これ、僕からのプレゼントです』って? いや、急すぎない!? なんだか重たく思われない!?)
翔馬の頭の中で、思春期を迎えた子供のような、行き場のない恥ずかしさと迷いがぐるぐると暴走を始める。
これまでに得た五感、空間解析の異能が急激に停止し、フリーズした。
顔はみるみるうちに赤くなり、ポケットの中で手が固まってしまう。
(だ、駄目だ! 恥ずかしすぎて今は無理だ! あと……あとだ! 現場から戻ってきてからにしよう……!)
翔馬は引きつった笑みを浮かべながら、サッとポケットから手を引っ込めた。
その一連の怪しい挙動を、壁際に立っていたガルファンが半目でじっと見つめていたが、翔馬はそれに気づく余裕もなく、慌てて窓の外へ視線を逸らすほかなかった。
そんなヘタレた翔馬が用意したお返し――それは、ここ数日間の密かな奮闘の結晶だった。
ガルファンとの修練や、現場修行の合間を縫い、翔馬は街の細工職人街にある工房へ密かに通い詰めていた。
『大切な人に渡す贈り物を、自分の手で作ってみたい』と赤面しながら相談しに来た翔馬へ、職人は面白がりながらも、工房の奥から一塊の極めて上質な紫黒石の原石を引っ張り出してきた。
テノラーダの美しい夜空をそのまま切り取ったかのような、深い輝きを秘めた石。
翔馬は職人の手ほどきを受けながら、細工用の工具を握りしめ、慣れない手つきで幾日もかけてコツコツと石を削り続けた。
自分の手で形を整え、何度も砂と布で磨き上げる。指先を擦りむきながらも、頭に浮かぶのはいつもあの少女の横顔だった。
最後の彫金をプロへと任せ、完成した品を受け取る際、翔馬は代金を支払おうとして職人に止められた。
豪快に笑いながら『金なんざ受け取れるか! 石は余りもんだし、お前さんが汗だくで削った手間賃の方が高いくらいだ。……その代わり、後でたっぷりと話を聞かせに来いよ?』とからかう職人に深く一礼し、翔馬は工房を後にしたのだった。
◇
(今度こそ……渡すぞ!)
夕方。現場修行を終え、神殿へ戻ってきた翔馬は、決死の覚悟を胸に回廊を歩いていた。
ポケットの中の小さな包みを握りしめ、レオナの部屋へ向かおうとした、その時だった。
「あ……」
中庭へと続く回廊の曲がり角。そのベンチで、レオナは十数人の巫女たちに囲まれ、楽しそうに歓談していた。
「レオナ様、ハルトのお話をぜひもっと聞かせてくださいな」
「こちらの香草のお茶、お口に合いますか?」
「水神の神殿にある水鏡とは、どのようなものなのですか?」
華やかな巫女たちの楽しげな輪。
(あ、そうだ……。レオナって、いつも誰かに囲まれていたよな……)
王女であり、神殿の使者でもある彼女の周りには、常に人の輪が絶えない。
そこへ男一人がノコノコと割り込み、『これ、あげる』などと声をかけられるはずもなかった。
(いや、無理でしょ……。こんな大勢の前で渡すなんて絶対に無理だ……)
完全にタイミングを失った翔馬は、太い紫黒石の柱の影から、指をくわえて『うう……』と立ち尽くすしかなかった。
――そして、その後方。
柱の陰から情けなく覗き見をする“勇者”の背中を、ガルファンが心底呆れ果てた表情で眺めていた。
(……何やってんだか、あのヘタレは)
深く長いため息を吐き出すと、ガルファンはやれやれと首を振ってその場を立ち去った。
◇
翔馬が逡巡を重ねるうちに、テノラーダの街には夜が訪れていた。
橙色の街灯が灯る頃。三人は、すっかり行きつけとなった大衆酒場にいた。
いつもの分厚い木製テーブル。香草肉の焼ける香ばしい匂いと、客たちの賑やかな喚声が渦巻いている。
(ここなら……! ……ガルファンさんはいるけど、酒場の賑やかさに紛れて渡せるはずだ……!)
翔馬はいよいよ腹を括った。左隣でエールを一口含んだレオナをちらりと見やる。
喉を潤したタイミングを見計らい、『レオナ、実は……』と声をかけてポケットへ手を伸ばそうとした――まさにその瞬間。
「ふふふ、エスティ。そのブレスレット、とても良く似合っていらっしゃいますね」
レオナがジョッキを手に、至近距離から花が咲くような眩しい笑顔を向けた。
「……え? あ、あぅっ……!」
笑顔を至近距離で浴びせられた翔馬の思考回路は、一瞬でオーバーヒートを起こした。
なぜこのタイミングなのか。なぜ意を決したタイミングで被せてくるのか。
なぜなのか。ただ、お返しを渡すだけなのに、なぜこれほど心臓が暴れ、思考が止まるのか。
翔馬には理由が分からない。
何かがおかしいとは思うものの、その答えが出ないまま、喉まで出かかった言葉が完全に引っ込んでしまった。
(む、無理だ! なんでか分からないけど直視できない! 異性と関わる経験値が足りなさすぎるだろ僕……!)
「ん、エスティ? どうされたのですか?」
内心で頭を抱える翔馬に、レオナが不思議そうに首を傾げた。
その紫紺の瞳は澄み切っていて、一点の曇りもない純粋さに満ちている。
「い、いや! なんでもないよ! ぶ、ブレスレット、すごくウレシイナ! アハハ……!」
引きつった笑顔で誤魔化す翔馬。
挙動不審が極まっている自覚はあるが、レオナは『そうですか、よかった!』とさらに笑みを深めていた。
(ええい、こうなったらお酒の力を借りるしかない……! 酔いが回れば、勢いで渡せるはずだ……!)
追い詰められた翔馬は、緊張を誤魔化そうとジョッキを口に運んだ。
だが、エールがまったく喉を通らない。
いつもの心地よいのど越しは、今日に限ってただ喉を刺すばかりであり、鼻に抜ける香りも薄い。
まるで風邪をひいてしまったときのように、味覚と嗅覚がおかしく感じ、ちびちびと口をつけるのが精一杯だった。
普段なら二杯は快調に空ける翔馬が、二杯目の途中で完全にフリーズしてしまっていた。
――その正面から、尋常ではない圧力を帯びたオーラがひしひしと漂ってくる。
(……な、なんか……! ガルファンさんからすごく圧力を感じる……!)
(ったく、こんのヘタレがよ……!)
豪快に肉を噛みちぎっていたガルファンは、今日何度目か分からない深いため息を吐き、ジョッキを傾けた。
このままでは、明日の朝になってもこの調子だろう。頭元締めとの仕事はもちろん、修練にも身が入らなくなる。
――そう考えたガルファンは、今回ばかりは翔馬へ助け舟という名の、強烈な追い込みをかけることにした。
「おいおい〜? どうしたエスティ〜? 今日は全然進んでねえじゃねえかぁ~? ……まさか体調でも悪いんか〜?」
ニヤリと極悪な笑みを浮かべ、わざとらしく大きな声を張り上げた。
「が、ガルファンさん……っ!? なにを……」
案の定、レオナが『えっ!』と声を上げ、心配そうに翔馬の顔を覗き込んできた。
「確かに、お顔がすごく赤いです……。酔い……ではありませんよね? 熱でもあるのですか?」
至近距離で揺れる紫紺の瞳。事ここに至り、翔馬の退路は完全に断たれた。
(あ……あああもう!)
これ以上引き延ばせば、本当に急病人扱いされて神殿へ担ぎ込まれてしまう。
翔馬は意を決し、外套のポケットから小さな包みを引っ張り出すと、半ばヤケクソ気味に、両手でその包みをレオナの前へ突き出した。
「た、体調は悪くありません! ……これ! これですっ!」
「え?」
目を丸くするレオナ。翔馬は顔から火が出るほど赤くなり、消え入りそうな声で、だが必死に言葉を紡いだ。
「れ、レオナからはいつももらってばかりだから……。その……これ、僕からのお礼です……。あの……職人街の人に原石を分けてもらって……。そのあと、僕が自分で削って、磨いたんです……けど……」
この数日間の苦闘。慣れない工具で指を擦りむきながら削った時間。
彼女の美しい髪に映えるようにと磨き続けた粉まみれの手指。『下手くそでごめん』と付け加えようとした翔馬の声を遮るように、レオナが震える手で包みを受け取った。
「……開けても……よろしいですか?」
「は、はい……」
レオナが、愛おしそうに包み紐を解く。
中から現れたのは、不器用ながらも丁寧に磨き上げられた、一輪の花を模した紫黒石の髪留めだった。
店内の灯りを浴びて、深く艶やかな暗紫色の光沢が、可憐な花弁を美しく浮かび上がらせている。
「あ……。これ……」
「い、いつも……! いつもレオナの銀髪が風になびいて、すごく綺麗で……素敵だなって思って……! この石なら、絶対に似合うと思って作ったんだけど……。あの……上手くできてなくて、ごめん……」
俯きながら絞り出された、翔馬の真っ直ぐな本音。その姿を見た瞬間、レオナの胸が激しく波打った。
自分が手渡したブレスレットと同じ、テノラーダの紫黒石。翔馬が選んでくれた、同じ石。
自分が密かに秘めていた、あの石言葉。何より――自分のために、想いを込めて指を傷つけながら手作りしてくれたという事実に、胸の奥が酷く熱くなる。
やがて、ぽろぽろと、レオナの美しい瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「あ……あれ? ……ど、どうしたんでしょう、私……」
翔馬の隣で、可憐な少女が頬を真っ赤に染めながら涙を零している。
そして、その髪留めを優しく、優しく両手で包み込むと、自らの胸元へと強く抱きしめた。
「エスティ……嬉しいです……! こんなに素敵な贈り物……私、一生大切にします……っ!」
「え、あ……な、泣かないでくださいよレオナ! えぇ……? そ、そんなに喜んでもらえるなんて……!」
焦って手ぬぐいを探す翔馬と、感激の涙を拭いながら髪留めを抱きしめるレオナ。
翔馬はレオナの涙におろおろと焦るばかりだが、喧騒の中にありながら、どこか穏やかで温かな空気が漂っていた。
――そのはずなのだが。
そのテーブルの向かい側で存在を完全に忘れ去られていたガルファンが、最後のエールを一気に喉へ流し込んだ。
木樽のジョッキをドンと置くと、天を仰いで深々と溜め息を吐き出す。
(……ホンット、なんで俺は毎回毎回、こいつらに振り回されてんだ?)
今日、何度となく繰り返したため息を吐くと、ガルファンは、目の前の二人を見やりながら苦笑した。




