幕間Ⅱ 組紐の結び目
静寂に包まれた神殿の客室。
紫黒石の壁に囲まれた部屋の中、暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音だけが、心地よくリズムを刻んでいた。
ランプの柔らかな光に照らされた机の上。そこには、先ほどまで自らのプラチナシルバーの長い髪を束ねていた、一本の淡い蒼色の組紐が無造作に置かれている。
鏡の前に腰掛けたレオナは、鏡に移る組紐に目を留めると、絹糸のように細く柔らかな髪を解くブラシを止めた。
ほんの一刻ほど前、大衆酒場の賑やかな喧騒の中で、エスティの手首へと巻きつけた組紐。振り返り、指先を伸ばし、その滑らかな繊維にそっと触れる。
――トクン。
指先を通して、あの少年の手首から伝わってきた脈拍の速さと、生々しい熱が蘇るような錯覚に襲われ、レオナは弾かれたように手を引っ込めた。
(……あれ?)
触れ合った時の、少年の少し硬くなった手首の感触。
至近距離で目が合った瞬間に見開かれた、深みのある黒い瞳。それ以上に激しく胸の奥で鐘を乱打するかのような、自分自身の鼓動。
思い出すだけで、首筋から耳たぶにかけて、じわりと熱が這い上がってくるのが分かった。
ふと、ラグロニーネの領主館で耳にした、若い侍女たちの他愛のないおしゃべりが脳裏をよぎる。
――好きな方に贈り物をするなんて素敵よね!
――わかる! 手を繋ぐだけでもドキドキするのよ!
彼女たちが“恋煩い”と呼び、楽しげに頬を染め合っていたあの言葉。
だが、レオナは両手を頬に当て、小さく左右に首を振った。
「ふふふ……。私の場合は違いますね」
誰に聞かせるでもなく、自分を納得させるように呟く。
エスティの魂に眠る“光”のマナと、自らが宿す“水”のマナが、極めて近い距離で触れ合ったことによる精神的な波の干渉。神聖な印を刻むための依代を、正しく測るという重大な責任を前に、身体が無意識の緊張を強いられたに過ぎない。
そう、至極当然の魔法的な反応なのだ。決して、侍女たちが語っていたような、世俗の浮ついた熱ではない。
「そう。私は……エスティの仲間なのだから」
自らに言い聞かせるように、レオナはふうと長く息を吐き出した。
大禍により最愛の両親を失い、兄リーデルの胸中に渦巻く、暗い復讐心に心を痛めていた日々が胸に去来する。
ただ神殿の奥で、世界を救う水鏡の勇者の顕現を祈ることしかできなかった、あの暗闇のような孤独。浮いた噂や縁談などとは無縁のまま、己の感情を押し殺して生きてきた。
そんな鬱々とした日常の闇を破り現れた待望の勇者は、ある日、自らを神話に語られるような英傑ではないと宣った。事実、その勇者は、自信なさげなのにどこか生意気で、調子に乗っては現実という壁に勢いよく衝突し、落ち込めば引きこもり、責められて泣きじゃくる。そんな、不器用極まりない同い年の少年だった。
それでも、自らの弱さと未熟さを受け入れて、歯を食いしばって自ら立ち上がり、前を向いた少年の顔。理由は分からないが、その姿が眩しく見えた。
(……あの日のことも、そう)
エスティが南東の歓楽街――あろうことか娼館街――へと足を踏み入れ、甘ったるい香油の匂いを全身に纏わせて帰ってきた日のこと。
自分の心の奥底から噴き上がった熱と、氷点下まで冷えるような怒り。その相反する激しい感情が、胸の内を吹き荒らした。思わず笑顔の裏に冷気を宿らせ、祭壇の前で説教するに至ったあの苛立ち。
ただ、あれもまた、侍女たちの言う“嫉妬”などという浅ましい感情ではない。
ハルトの公務を帯びた使者としての品位を守り、異国の地で未熟な少年が道を踏み外さないよう正しく導くための、正当なる教育的義憤から来るもの。
もしあれが“嫉妬”という不純な動機であったなら、神殿の祭壇で神罰めいた説教を垂れることなどできるはずもなかった。
(……そう、私は、対等な仲間として彼の横に並び立ちたいだけ……)
そう結論づけると、レオナは結び目のついた組紐を手にベッドへと歩み寄り、腰を下ろした。
酒場でガルファンが豪快に笑い飛ばしてくれた言葉が、今も胸の奥を温かく満たしている。ガルファンは、純粋にエスティという一人の人間を見ていたからだ。
――俺が見てんのは、このエスティって男だけだ。
あの言葉を聞いた夜、ハッとした。自分を縛り付けていた最後の呪縛が解けたように思えた。
世界を救う勇者という輝かしい称号ではない。領主の食客でもない。兄と自分を、底なし沼から掬い上げる希望でもない。何かに悩み、何かに怯え、それでも立ち向かおうとする、一人の等身大の人間として、エスティを見る。
自分もまた、王女でも、巫女でもなく、“ただのレオナ”として彼の隣に並び立ちたい。
そんな思いの中、賑やかな商店街の露店で見かけた、深く艶やかな紫黒石の装飾品。老職人からその石言葉を聞いた瞬間、胸の奥を激しい衝動が貫いた。
(不屈の絆、静かな誓い……)
エスティの負荷を抑えるための印として、最適な品だと考えたのは事実だ。
だが、石言葉を知ってからは、エスティに贈りたいという自分の気持ちが抑えられなかった。
彼が再び困難にぶつかり、立ち止まりそうになった時、その足を決して止めないための道標として。
何があっても、あなたの隣で共に歩み続けるという、仲間としての、誇り高き誓いの証として。
なぜなら、兄が優しい顔を見せるきっかけになってくれたから。
なぜなら、自分を祈りの呪縛から救ってくれたから。
大切な人だから。
ずっと、一緒に隣を歩きたい人だから。
レオナは少しだけ口元を緩めた。
どのような試練が訪れようとも、決して断ち切られることのない、魂の結び目。
淡い蒼色の組紐を、両手でそっと包み込むように胸元へ抱き寄せた。
「きっと、素敵なブレスレットになりますね……」
組紐の結び目を確かめたあと、パチンと指先で小さな水泡を弾けさせて、部屋のランプの灯りを落とす。
薄暗い部屋の中、毛布に潜り込み、冷えた空気を吸い込んで瞼を閉じる。
暗闇の中に浮かび上がるのは、修練に励む凛々しい少年の横顔と、酒に酔って組んだ腕の上に突っ伏していた無防備な寝顔。そして、手首を測られた時に、顔を真っ赤にして慌てふためいていた、愛らしい少年の姿。
――トクン、とまた、胸の奥が甘く締め付けられるように痛む。
(……でも、どうして私はこんなにエスティのことを考えているの?)
完全にピントのずれた、だがこの上なく幸福な納得を口にして、レオナは組紐を抱きしめたまま、静かに口元を綻ばせた。
窓の外、テノラーダの冷たく澄んだ冬空には、ふたつの月が静かな光を投げかけていた。




