第38話 道標、指し示す光
早朝。炎神の神殿にある室内修練場。
紫黒石の壁に冷たく張り詰めた空気が漂う中、二人の影が滑らかな軌道を描いて交錯していた。
カンッ!
甲高い木音が反響する。ガルファンが踏み込みざまに繰り出した鋭い突きを、翔馬は真正面から受け止めず、手首の微細な角度で滑らせて脇へと逸らす。
踏み込みの勢いを殺されたガルファンが、ニヤリと口元を吊り上げた。
「サマになってきたじゃねえか! こっから上げてくぞ!」
疾風のごとき二打、三打。ガルファンが繰り出す連撃は、日に日にその速度と凄みを増していた。
手加減されているとはいえ、ひと月前の翔馬ならば、一打目で弾き飛ばされていたはずの猛攻である。
だが、今の翔馬は慌てない。
落ち葉が風に舞うような軽やかさで身体の重心をわずかにずらし、木剣を滑り台にして相手の威力を逃がしていく。
五感を研ぎ澄まし、呼吸の音、筋肉の収縮、風の揺らぎから相手の予備動作を感じ取る――あの過酷な道中で初めて教わった“感覚”が、いま翔馬の血肉となっていた。
ガツン、と互いの木剣が噛み合い、二人は滑るように間合いを取り直した。
肩で息を整えながらも、翔馬の表情には充実した笑みが浮かんでいる。
「……いいぜ、エスティ」
ガルファンは木剣を肩に担ぎ直し、首の骨をぽきりと鳴らした。
「身体の使い方も、モノの見え方も見違えた。……なあ、そろそろ少し試してみてもいいんじゃねえか? あの『空間を読む技』をよ」
「え……?」
翔馬は目を見開いた。
山魔狼の襲撃の際、強烈な負荷で自滅しかけたあの異能――ガルファンによって『命に関わる』と禁じられていた力だ。
「今のお前なら、何をすればよいか感覚で解ってんだろ。試しにやってみな」
翔馬は自分の掌を見つめた。胸の奥で、静かな探求心がふつふつと持ち上がる。
このひと月半、現場で人間の動線や都市の呼吸を学んできた。五感を使って周囲を捉える技も、少しずつ身についている。
もしかしたら、周囲を丁寧に俯瞰する感覚を応用して、制御できるかもしれない。
「……はい。やってみます」
翔馬は深く息を吐き出し、目を閉じながら木剣を正眼に構えると、持てる限りの感覚を研ぎ澄ます。
肌に触れる空気の冷たさ、耳に届く微かな衣擦れ、鼻に広がる紫黒石の匂い。波紋が水面に広がるように、ゆっくりとその感覚を外側へ押し広げていく。
(焦らない……引き込まない……)
ただ、そこに広がる空間のありのままに、そっと意識を添わせる。
――次の瞬間、世界が一変した。
修練場内の空気の密度や淀み、紫黒石の壁の微小な凹凸、ガルファンの足裏が踏みしめる石畳の重み。
さらには、ガルファンが踏み出そうとする瞬間の太ももの筋肉の収縮までが、まるで立体的な箱庭のように、脳内に鮮明な像として結ばれた。
ドッ!
ガルファンは無言で踏み込む。
目視すら困難な神速の振り下ろし。だが、翔馬の意識には、その一撃の答えが最初から見えた。
どの角度から、どのような速度で、どのような軌跡を描いて来るのか。
頭の中で、はっきりと白銀の“線”が見える。
スッ……。
翔馬は、その線になるべく沿うように、最小限の動きで身体を捩ると、振り下ろされる木剣の腹を掠めるように叩いた。
ガツンッ!
手元を狂わされたガルファンが、驚愕に目を丸くして通り抜けていく。
見事に捌いた。だが――。
「ぐ……あ……っ!」
知覚を解いた瞬間、こめかみを鉄槌で殴られたような激痛と、全身の血を引き絞るような猛烈な倦怠感が翔馬を襲った。
膝から石床に崩れ落ち、荒い息を吐く。
「おい、大丈夫か!?」
ガルファンが慌てて駆け寄ると、肩を抱き起こした。
「はぁ……はぁ……。大丈夫です……。やっぱり……だめですね……」
五感を鍛え、身体の力を抜くことを覚えた今だからこそ、自分の身体で起きたことの異常さが、手に取るように分かった。
うずくまる翔馬は、痛むこめかみを押さえながら呟いた。
「ガルファンさん……。これ、『技』じゃなくて、やっぱり『魔法』なんだと思います。あの日、レオナが言ったように……」
初めて空間を読み、倒れたあとにレオナは言っていた言葉。
――あなたのその感覚が仮に『魔法』だとしたら、あまりに異質なのです。
「自分には、魔法なんて使えるはずがないって、ずっと決めつけていました。……だけど、あの空間解析が魔法の類なのだとしたら、この反動にも説明がつきます」
「……筋は通ってるな。そら身体が悲鳴をあげるし、姫さんが首をひねるのも納得だぜ」
ガルファンは顎に手を当て、唸るように深く頷いた。
(姫さんの言ってた通り、コイツはホンモノの勇者なんだ。とんでもねえ器が眠ってやがるのに、本人が適当に直感でぶん回してやがったのか。……野放しにしてたら、命がいくつあっても足りねえぞ)
ガルファンは翔馬の肩をバシッと叩く。翔馬の『いてっ』という声の後、続けた。
「ったく、世話が焼けるぜ。基礎を知らねえ素人が、直感だけで魔法の真似事をしてたってわけだ。……よし、それなら専門家に聞いてみようぜ?」
◇
ガルファンが翔馬を連れて向かったのは、神殿の最奥にある、神聖な祈祷の間だった。
静謐な空気が漂う中、深紅の法衣を纏った老神官長――オルバが静かに佇んでいた。
翔馬の相談を静かに聞き届けたオルバは、柔らかな眼差しで翔馬の前に立った。
「なるほど。そういうことであれば、この老体が力になりましょう。……エスティ殿。少し私の目を見つめていなさい」
オルバは、枯れ枝のような手を翔馬の額にかざした。
じわりと温かな光が翔馬の体内を巡り、精神の深層へと沈み込んでいく。
オルバの知覚が捉えたのは、この世界の理の外から訪れた、途方もなく異質で巨大な器だった。
常に変化し、ひとつの形へ収まろうとしない器を満たしていたのは、万能な傲慢さではなく、純朴で泥臭い一人の少年の精神。
己の未熟さに涙を流し、逃げず泥に塗れ、ひとつでも多くを学び取ろうとする健気な意思。
傷つき、折れながらも力強く再生し、豊かに枝葉を広げる大樹のような魂の質感に、オルバの心が温かく満たされていく。
(……失敗を糧とし、どこまでも変化を受け入れ、関わる他者までも変容させていく光……。これこそ、この世界が求めた勇者の力……可能性の器か)
やがてオルバはゆっくりと目を開き、慈父のような微笑み浮かべた。
「……実によい心根をしておられる、エスティ殿。そなたが『空間解析』と呼ぶその力は、マナを用いて世界へ干渉する魔法の類。……それも、極めて稀有な属性の現れでしょう」
「稀有な……属性ですか?」
オルバは深々と頷いた。そしてまっすぐに翔馬を見据え、威厳ある声を放つ。
「エスティ殿。そなたの魂に見るは、暗闇を一筋照らす“光”なり。混迷のただ中にありながら、人と人を繋ぎ合わせ、歩むべき道を指し示す調和の力……『道標の光』と心得なさい」
「道標の光……?」
その言葉が、テノラーダで出会った人々の顔と重なり、翔馬の胸に深く染み渡っていく。
「……ただし」
オルバの表情と声色が、一転して厳しいものへと引き締まった。
「光とは、ときにすべてを焼き尽くす苛烈な焔にもなり得る。ひとつ道を誤れば調和は破れ、すべてを灰燼に帰する『断罪の光』にもなりましょう。……その力の使い道だけは、くれぐれも見誤ってはなりませぬぞ」
オルバのそれは、誰かを照らす道標でありながら、他者を拒絶し排除する暴力にもなるという警告。
(……僕次第、ということなんだ……)
誰かを照らす道標であり、同時にすべてを排除する暴力にもなり得る力。
翔馬は己の過去の過ちを思い返し、背筋を正して深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。心に深く刻みます、オルバ神官長」
◇
その日の夕刻。
いつもの大衆酒場の、いつものテーブルで、三人はグリル肉と木樽のジョッキを囲んでいた。
肉の焼ける香ばしい匂いの中、翔馬は二人にオルバの言葉を報告した。
「――というわけで、僕の力は『光』のマナを使う魔法らしいんです。自分に合う“印”を身につければ、負荷は減るはずだって言われたんですが……何をどうすればいいのか、全然分からなくて」
翔馬が頭を抱えると、隣でエールを傾けていたレオナが、くすりと楽しげに目を細めた。
「ふふふ、お困りのようですね、エスティ。では、私がおさらいを兼ねてお教えしましょう!」
レオナはジョッキを置くと、人差し指を立てて胸を張り、可愛らしく“魔法講座”を始めた。
「魔法とは、体内へマナを取り込み、精霊へ捧げることで世界の理を動かす力です。精霊には、水、火、風、土の四属性のほかに、エスティの持つ“光”と、その対極の“闇”が存在します」
自分の属性に合う精霊へ、必要な量のマナを捧げること。
取り込めるマナの量は“器”の大きさに比例し、無理をすれば心身を損なうこと。
レオナの理路整然とした説明に、翔馬は深く頷いた。
「そして、エスティの魔法によって、身体が激しい不調に襲われた理由ですが……」
レオナは、人差し指と中指を立てて見せた。
ランタンの灯火が、細い指の水の指輪をきらりと輝かせる。
「ひとつ。空間解析の魔法は、今のエスティにとって消費するマナが大きすぎること。そしてもうひとつは……オルバ様が仰った通り、マナを安定して使うためのな“印”をお持ちでないこと。このふたつです」
「飯を食わねえまま、全力で走ってぶっ倒れるようなもんだな」
肉をかじるガルファンの大雑把で微妙な例えに、レオナは『まぁ、似たようなものです』と苦笑し、さらにもう一本指を立てた。
「印を用いる方法はいくつかありますが、最も簡潔なのは、適正な印を刻んだ装飾品を身につけることです。常に肌へ触れさせておくことで、マナを取り込みやすく、精神と魔法を安定させることができます」
「装飾品かぁ……なるほど」
レオナの指に光る指輪や、ガルファンの手甲に刻まれている文様を思い出し、翔馬はそれらが単なる装飾ではないことを改めて理解した。
その反応を見るや、レオナの瑠璃色の瞳が、待っていましたとばかりに爛漫と輝いた。
「実は私、先日商店街を散策していた際に、とても美しい紫黒石の細工を見かけました。……そこで、あの紫黒石に光の印を刻んだブレスレットを仕立ててみてはいかがでしょう?」
「なんだ? 姫さん、急に熱が入ったな。今度は装飾品談義か?」
「大事なお話をしていますので、少し静かにしていただけますか、ガルファン様?」
可憐な笑顔のまま、絶対零度の眼光を向けられたガルファンは、『お、おう……すまねえ』と即座に口を噤み、大人しくエールを呷る。
娼館街から翔馬が逃げ帰った日の“あの笑顔”を思い出し、これ以上首を突っ込むのは危険だと本能が察知したのだ。
「紫黒石のブレスレット……確かに、身につけやすくてよいですね」
「そうでしょう? そこで……その……いつも頑張っているエスティに、えと……私からプレゼントさせて……もらえませんか?」
ガルファンは思わず『おい! そういうことかよ!』と喉まで出かけたが、どうにかその言葉を胃の底へ押し込んだ。
これを口に出したら、次に何が起きるか分かったものではない。
このまま肉を齧りつつ、ことの成り行きを見守るのが最適解だと判断した。
「えっ!? レ、レオナから!? 僕の相談なのに、そんなの申し訳なさすぎますよ……!」
恐縮して手を振る翔馬に、レオナはふわりと――ガルファンに向けたそれとは異なる――柔らかな微笑みを向けた。
「遠慮なさらないでください……。テノラーダの素晴らしい名産品ですし……旅の大切な思い出にもなりますから……ね?」
そう言いながら、レオナは自らのプラチナシルバーの髪を束ねていた、淡い蒼色の組紐をさらりと解いた。
テノラーダの紫黒石に秘められた石言葉――不屈の絆、静かな誓い――あなたの隣に並び立つ仲間として、その誓いを受け取ってほしい――。
そんな密やかな想いを胸に秘め、レオナは翔馬の隣へとすっと距離を詰めた。
「さあ、職人さんに正確な寸法を伝えますから、手首を測らせてくださいね?」
「あ、はい……」
レオナの白く滑らかな指先が、翔馬の手首へ組紐を回した。
少しだけ細いか、以前より引き締まったようにも見える。
旅の途中、毎日の修練、泥だらけになって笑っていた横顔が脳裏をよぎった。
レオナは小さく首を振る。今は寸法を測ることに集中しなければならない。
そう思っているのに、なぜだか視線が落ち着かなかった。
「……す、少し、くすぐったいです」
触れ合う指先の温もり。至近距離からふわりと漂う、清楚な花のような甘い香り。
真剣に手元を見つめるレオナの耳たぶが、ほんのりと赤く染まっているのが見え、翔馬の心臓が早鐘のように跳ね上がる。
「動かないで、じっとしていてくださいね……」
互いに顔を真っ赤に染め、視線を泳がせる二人。
触れ合う手首の温もりの中で、翔馬の胸の奥に、ある確固たる決意が芽生えていた。
(……ここまで良くしてくれるレオナに、もらいっぱなしなんて絶対に嫌だ。僕も……レオナが心から喜んでくれるような、最高のお返しを探さなきゃ)
そして――テーブルの向かい側では、山盛りの肉を無心で咀嚼していたガルファンが、これ以上ないほど呆れ果てた半目でジョッキを傾けていた。
(……酒の席で一体何を見せつけられてんだ、俺は)
三者三様の想いが交錯する、夜の大衆酒場。
冷たい冬の夜風が吹き抜けるテノラーダの空を、満天の星々が静かに照らし出していた。




