第35話 清濁、併せ呑む覚悟(前編)
季節は秋の深まりを見せ、テノラーダを包む風からは冷たさが抜けなくなっていた。
外輪山から吹き下ろす気流が紫黒石の街並みを駆け抜け、街道を行き交う人々や馬車隊の御者たちの服装も、ひと回りふた回り厚みを増している。
黒き街への滞在が始まってから、ひと月と半分が経過しようとしていた。
翔馬の、どこか頼りなげだった細い身体には、毎夕の猛稽古と街歩きによって無駄のないしなやかな筋肉がつき、背筋はすっと真っ直ぐに伸びている。
何より、その瞳からは幼い青臭さや怯えが消え去り、静かで、肝の据わった光が宿っていた。
充てがわれた客間で、剣に油を引き終えた翔馬は、静かに窓の外を見つめた。
テノラーダの巨大な街並み。絶え間なく行き交う人々と物資。
(準備よし……と。そろそろ行かなきゃ)
翔馬は剣を黒革の鞘へ収めると、胸に手を当て、深く静かに息を吸い込んだ。
いつものチュニックに革のブーツ。腰に帯びた長剣は、ハルト王家の文様を誇らしげに輝かせている。
あの時と違うのは、羽織る外套が厚手になったこと。そして、胸のうちにあった傲慢さが消えたことだった。
この街に生きる人々の呼吸を知り、失敗と痛みを噛み締め、身体で現場の泥臭さを覚えた一人の男として。
翔馬は、もう一度あの三人の頭元締め、そしてカルロと向き合うために、部屋の扉を開けた。
◇
――その数日前。
神官長オルバへ願い出て、その差配によって領主館への再訪が許可された夜のこと。
翔馬たちは、ガルファンによる“決起”を名目として、いつもの大衆酒場でテーブルに着いていた。
すっかりこの店の熱気に馴染んだ三人は、煙をあげる香草肉のグリルをつつきながら、木樽のジョッキを傾けている。
翔馬は、かつてあれほど拒否していたエールを、いまや手慣れた様子で口に運んでいた。肉の濃厚な旨味と脂を、エールの心地よい苦味と泡で洗い流す愉しみを、しっかりと身体に馴染ませて。
「……ふわぁ、やっぱり美味しいなぁ」
頬をほんのり朱に染め、翔馬が満足げに吐息を漏らした。
心地よい酔いが視界と頭を揺らし、胸の奥を温かく解きほぐしていく。
普段は二杯程度で抑えているが、今日はずいぶんと調子がよく、これで四杯目。
いい感じにふわふわと視線が揺れている様子が、ガルファンからも見て取れた。
「へっ、最初あんなに『毒を飲まされる』みたいに怖がってたヤツが、よく言うぜ!」
「ふふふ、エスティもすっかり、テノラーダの流儀が板についていますね」
肉を豪快にかじりながらニヤニヤとからかうガルファンに、レオナも自分のジョッキを品良く傾け、楽しそうに目を細める。
その翔馬は、半分閉じた目で隣のレオナ、正面のガルファンへと大仰に首を巡らせたあと、ジョッキを胸の前で大事そうに抱えた。
「……ぼくぅ、この街でいろーんなことを知りましたぁ。で、ずうぅーっと考えてるんですよぉ、リーデル様のこととかぁ」
「……兄様のことですか?」
ほのかに上気した顔と下がった目尻。いつもと違う砕けた喋り方に驚きつつ、意外な名前が出たことにレオナが紫紺の瞳を向ける。
「はぁい。そおですぅ」
翔馬はこくこくと頷くと、エールをもうひと口飲み、どこか遠くを見るような目で語り始めた。
「ラグロニーネにいたときって……実は自分、すーっごく仕事できるやつなんじゃないかって、本当に思ってたんですよねぇ。……だから、リーデル様が背負ってるもの、僕はまーったく分かってなかったんですよぉ。おバカですよねぇ」
翔馬の左手が、使い込まれて艶を放つテーブルの木目をそっと撫でる。
空になった四杯目のジョッキをトンと置くと、『お水も飲んだほうがいいですよ』と、グラスの果実水を差し出してきたレオナへ、「ありがとうございますぅぅ」と破顔し、ゴクゴクと一気にグラスの水を飲み干す。
そして、テーブルの上に、ダンとそれを置くと、再び熱っぽく語り始めた。
「清濁……って言うんですかねぇ? リーデルさま、ぜーんぶ呑み込んじゃうじゃないですかぁ。 あーいう大人サイコーにカッコいいんですよぉ。……ぼくぅ、めちゃくちゃソンケーしてます。なのにぼく、そんなヒトにエラソーに『こうした方がいい』なんて言ったんですよぉ。ヤバくないですか? やってることただのクソガキですよねぇ。あはははは」
酔った勢いで、かつての己の浅ましい発言と、遠き地にいる若き領主への深い尊敬を吐露する。
自嘲気味に笑いながら、翔馬はテーブルの上で腕を組み、そこへ額を乗せて小さく息を吐いた。
「たぶん、ヘンなヒトとか、メンドーなヒトとか、まわりにいっぱいいる。でも……リーデルさま、ぜーんぶ『正面からやっつける』なんてしない。みーんな立てて、みーんな甘えさせて……そこ、すごいですよねぇ。ラグロニーネって、あったかいんですよねぇぇ……」
一通り語り終えると、翔馬の瞼がゆっくりと、重そうに閉じていった。
日中の観察、鍛錬の心地よい疲労、そしていつもより飲みすぎたエールが、胸の奥に溜まっていた本音をすべて浚った安心感。
それが翔馬を深い眠りへといざなっていく。
「……ぼく……もっと……かっこいいおとなに……」
むにゃむにゃと口の中で呟きながら、翔馬は組んだ腕の上で、穏やかな寝息を立て始めた。
途端に静まり返るテーブル。レオナとガルファンが顔を見合わせ、同時に小さく息を吹き出した。
「寝やがった。……ったく、語り始めたと思ったらコレかよ。……あ、ニイちゃん、エールくれ」
「……ふふふ。でも、本当に。エスティは、ちゃんと前を向いていますね」
レオナは、隣で寝息を立てる翔馬の黒髪にそっと手を伸ばし、優しく撫でた。
昼間の引き締まった横顔とは打って変わって、あどけない子どもをような寝顔に、自然と口元がほころぶ。
「ハッ! 他人事みてえに言いやがる。姫さんだって前向いてんだろ。 まさか、自覚ねえのか?」
追加のジョッキを喉に流し込みながら、レオナに突っ込みを入れる。
ガルファンから見れば、この二人はよく似ていた。
真面目で、不器用で、優しくて、どこか不安定。
あの日、修練場で共に泣き崩れ、立ち直ったレオナの瞳からは、かつてのような“危なっかしさ”は見られない。
「……自覚。……ふふふ、ありませんね。私は、いまだに自分に自信を持てていませんので」
「自信持てよ。エスティが突っ走れるのは、姫さんが横にいるからだぜ?」
「……そう……でしょうか……。……でも、ありがとうございます」
「ああ」
慈しむように翔馬の髪を撫でていた手を、レオナは名残惜しそうに引き戻す。
そして膝の上で両手をきゅっと握りしめ、揺れるカンテラの炎を見つめた。
伏せられた長い睫毛が影を落とし、やがて顔を上げたその瑠璃色の瞳には、迷いを断ち切った静謐な光が宿っていた。
「ガルファン様……その、こんな酒場で申し上げるのもどうかとは思うのですが」
「どした?」
翔馬に対して見せていた柔和な表情から一転。表情をふっと引き締める。
果実水をひと口。冷たい感触が舌を、喉を滑り落ちていくのを感じ、レオナは口を開いた。
「ひとつ、お伝えしておかなければならないことがあります。……エスティのことです」
酒場の喧騒の中、卓上のカンテラの炎がパチリと爆ぜる。
プラチナシルバーの髪の奥から向けられた真摯な眼差しに、ガルファンもジョッキを置き、背もたれに身体を預けて無言で先を促した。
(……ガルファン様へは、きちんと真実をお伝えしないと)
瞼を閉じ、胸の前で手を組むと、意を決して言葉を紡いだ。
「エスティは……ハルト本国の商家の次男などではありません。もっと言えば、この“世界”の生まれすらありません」
「……はぁ?」
「この方は、水神の神殿……その水鏡の間において、光に導かれて現れた。正真正銘の『水鏡の勇者』なのです」
言葉が落ちた瞬間、周囲の泥酔した男たちの喚声やジョッキのぶつかる音が、一瞬だけ遠のいたように感じられた。
テーブルの真ん中では、翔馬だけが「すぅ……すぅ……」と無防備に穏やかな寝息を立てている。
ガルファンは瞬きもせず、手元の木樽ジョッキの縁を指先でトントンと叩きながら、じっと翔馬のつむじを見つめていた。
(いきなりそんなおとぎ話をされても、困惑されるのは当然……)
レオナが見守る中、ガルファンは瞬きもせず視線を天井の梁へと向け、なんとも言えない表情で後頭部をガリガリと掻いた。
そして――。
「……水鏡の勇者、ねぇ……」
その“物語”は、ガルファンでも知っている。幼少の頃、兄とともに母親マリアーネから聞かされた伝説の主人公。
この世界が闇に覆われんとするとき、光を携えた勇者が現れ、闇を討つ。
事実か、はたまた創作かの区別すらつかないおとぎ話のような存在。
それが勇者だ。
「ハッ……。ハハッ! アハハハハハハハッ!」
突如、ガルファンは腹を抱えて大爆笑し始めた。
あまりの豪快な笑い声に、隣の客たちが何事かと振り返る。
「ガ、ガルファン様……?」
レオナが目を丸くする前で、ガルファンは目尻の涙を拭い、残っていたエールを一気に喉へ流し込んだ。
空になった木樽をドンッと叩きつけ、野性味あふれる不敵な笑みを浮かべる。
「なんだよそれ! それを今更、真面目な顔して言うのかい、姫さん!」
「ガルファン様……信じられないのは分かります。ですが、神官長オルバ様も、兄様もご存知で――」
「いや、俺にゃ“そんなこと”関係ねえんだ」
ガルファンはレオナの言葉を遮る。
その言葉にはレオナの言葉への疑念ではなく、ただ純粋な「どうでもいい」と言わんばかりのあっけらかんとしたものだった。
張り詰めていたレオナの肩が、不意を突かれて微かに落ちる。
「伝説の勇者? ハルトのボンボン? ハッ! 俺に言わせりゃどっちだっていいんだよ」
「え? ……どっちでもいい、とは?」
レオナの怪訝な表情に、ガルファンは肩をすくめると、鼻を鳴らして、腕枕に顔を埋めて眠りこくる少年を顎で無造作に指した。
「勇者だろうが、ボンボンだろうが、腹は減るだろ。転べば痛え。酒を飲めば酔いもするし、こうして寝ちまう。俺は最初から、ハルトのボンボンとか、そんなのどうだっていいんだ。俺が知ってんのは、泥にまみれても前に進む、この“エスティ”って男だけだからな」
そう言って、二カッと笑う。
「あ……」
レオナの喉から、小さな吐息が零れ落ちた。
かつて自分自身を縛り、翔馬をも壊しかけた「勇者」という重い呪縛。
それを、この男は何の躊躇もなく、ただ『腹が減り、酒に酔う一人の生身の人間』と笑い飛ばした。
胸の奥底に澱みのように溜まっていた冷たい緊張が、じんわりと温かい熱となって溶け出していく。
「……そう、ですね。本当に……ガルファン様らしいです」
「へへっ! だろ!?」
(囚われているのは、私だけなのかもしれませんね……)
最初から、この男はエスティを救世主としても、いいトコのお坊ちゃんとしても見ていなかった。
小賢しくて、生意気で、そのくせ脆い。それでも必死に立ち上がろうとする一人の人間に真っ向から拳を交え、共に笑い合ってくれていた。
胸に灯る温かい炎のような感情に、レオナは居住まいを正し、心からの敬意と感謝を込めて深く頭を下げた。
「……ありがとうございます、ガルファン様」
「よせやい。姫さんに改まって礼を言われる筋合いはねえよ。……さて、この酔っ払い担いで、神殿へ帰るとするか!」
ガルファンが翔馬の身体をひょいと担ぎ上げる。
翔馬は相変わらずむにゃむにゃと口を動かし、寝息を立てている。まるで子供のように。
それを見て、レオナはふふっと笑う。
酒場の扉を開けると、夜風が心地よく火照った頬を撫でた。
重厚な紫黒石の街並みを歩む三人の影。
肩書や神話の楔の外れた三人の絆は、以前よりもずっと強く結ばれていた。




