第36話 清濁、併せ呑む覚悟(後編)
晴れ渡った冬空の下。翔馬、レオナ、ガルファンの三人は、再びテノラディア領主館の重厚な鉄門をくぐっていた。
あの日と同じように、警備兵たちの厳重な警戒を通り抜け、案内された領主の執務室。
重々しい木扉が開くと同時に、翔馬が一歩前へと進み出た。その左右、一歩引いた位置には、レオナとガルファンが静かに控えている。
過保護に翔馬を庇おうと神経を尖らせていたレオナの姿はなく、優雅に背筋を伸ばし、穏やかな笑みを浮かべている。
焦りと苛立ちに腕組みをしていたガルファンも、不敵な笑みを口元に浮かべ、どっしりと構えている。
二人は、目の前の青年へ、ここからのすべてを託していた。
「お久しゅうございます。シュタイン侯爵閣下」
巨大な黒石の執務机の奥。
鋭い眼光を光らせた男――カルロ・フォン・シュタイン侯爵が、ゆっくりと顔を上げた。
カルロは、部屋の入口に佇む翔馬の全身を、頭から足先まで撫で回すように値踏みする。
緊張の中で薄っぺらな自信を張り巡らせていた青臭い少年。
絶望に打ちひしがれ、がっくりと肩を落として部屋を出ていった少年。
ひと月半前の記憶を脳裏に手繰り寄せる。
だが、今目の前に立っていたのは別人だ。無駄な力みが削ぎ落とされた体躯、地面をしっかりと捉える確かな足取り、そして何よりも――深く澄み切った光を黒い瞳に宿す、一人の青年だった。
(……ハルトの坊ちゃんめ。見違えるほどいい面構えになったではないか。……それに……)
カルロの眼は、背後に控える二人をちらりと見た。
まるで、この少年にすべてを預けると言わんばかりの、静かな誇りと信頼が伺える。
フッと息を吐くと、手にしていた書類を机へぱさりと放り出して、背もたれに深く身体を預ける。
薄い唇の端を吊り上げ、低く地響きのような声を響かせた。
「……久しいな、ハルトのお坊ちゃん。ひと月半、このテノラーダの歩き回っているとの噂は耳にしていたが……街に揉まれ、多少はマシな顔つきになったようだな」
――今日も試されている。あの時と同じだ。
そう直感した翔馬は、臆することなく一歩前へ踏み出すと、カルロに向かって、深く礼をとった。
そこには卑屈な媚びへつらいも、虚勢を張った高慢さもない。
一人の対等な人間としての敬意だけが込められていた。
「はい、侯爵閣下。あの日、閣下がかけてくださったお言葉のおかげです」
翔馬は顔を上げ、カルロの鷹のような眼光を真っ向から受け止める。
「……あの日、僕は頭だけで考えた計算を振りかざし、三人の頭元締めの方々、そしてこの街で生きる人々に対して、大変浅はかで無礼な態度をとりました。……まずはその失礼を、心よりお詫び申し上げます」
淡々と、だが一切の言い訳を排した真摯な謝罪。
「ひと月半、テノラーダの端から端まで歩きました。人々と触れ合い、あの喧騒の中に、どれほど多くの苦悩と積み重ねられた知恵があるかを……肌で学んできたつもりです」
その言葉には、市井に生きる人々の生活と、生存の重みが宿っていた。
「あの日の僕のように、自分の中の正解だけでは、人は生きていけないし、守ることもできない。白と黒の間にある、グレーな部分――それが人を生かし、街の息遣いを守っているのだと知りました」
その胸の内には、己の未熟を受け入れ、現実と向き合う覚悟があった。
カルロは黙ってその言葉を聞き届け、双眸の奥に鋭い光を灯す。
「己の浅はかさを理解して満足したかね? ……それで? その『学び』とやらを手土産に、胸を張ってハルトへ帰るつもりか?」
「いいえ」
翔馬は即座に返し、力強く首を横に振った。
両足は微動だにせず、床の絨毯をしっかりと踏みしめ、胸を張る。
怯えも迷いもない黒い瞳が、カルロの視線と真っ向から再びぶつかり合った。
「本当のスタートは、ここからだと思っています。……シュタイン侯爵閣下。厚かましい願いであることは分かっています。ですが……もう一度、あの三人の頭元締めの方々とお話しさせていただけないでしょうか」
カルロはわずかに眉を寄せ、背もたれからゆっくりと身を起こした。
分厚い黒石の机に両肘をつき、指を組んで少年を見据える。
「ほう、それは何故だ?」
静まり返る広間の中、翔馬は凛とした、よく通る声で言い放った。
「……僕にはまだまだ、分からないことだらけなんです」
翔馬は一歩前へ進み出ると、拳を握りしめて言葉を紡いだ。
「……正論だけでは、街も人も回せない。でも、グレーが必要だとしたら、どう落とし込んだらいいのか、僕にはそこが分からない。だから、頭元締めの皆様の足元で学ばせていただきたいのです」
静寂が、執務室を支配した。
カルロは数秒間、翔馬の瞳の奥をじっと射抜くように見つめていたが――やがて。
「ガハハハハハハッ! 面白いことを言いよる!」
腹の底まで響くような、豪快な大笑いが部屋中に轟いた。
冷徹なリアリストの仮面が落ち、そこには一人の若者の見事な脱皮を喜ぶ、度量の広い君主の顔があった。
「最高の返答だ、ハルトのお坊ちゃん……いや、エスティ殿!」
ひとしきり笑ったカルロは、引き締まった表情に戻ると、机の上のベルを高く鳴らした。
駆け込んできた側近の役人へ、鋭く命じる。
「会議室へ通せ! ……ハルトから、骨のある最高の弟子が来たと、あの偏屈な三人に伝えておけ!」
後ろに控えるレオナがパッと顔を輝かせ、ガルファンはどこか誇らしげにニヤリと口元を歪めた。
◇
紫黒石の重厚な壁に囲まれた円卓会議室へ、不機嫌な沈黙が落ちていた。
円卓を囲んで腰掛けているのは、現場を牛耳る三人の頭元締めたち。
物流の頭元締めバートンは、イライラと手帳の端を爪で弾き、倉庫の頭元締めボリスは、太い腕を組んで不快そうに鼻を鳴らしている。
商業の頭元締めヴィンセントに至っては、金貨を弄ぶ手すら止め、呆れたように天井を仰いでいた。
「閣下も人が悪い」
バートンが吐き捨てるように呟いた。
「あの『爆薬付き硝子細工』をハルトへ送り返さず、まだ街に置いているだけでも物好きなのに。また俺たちを集めて何をさせようというんだ? あの青臭いガキに、もう一度付き合えとでもいうのか」
「ケッ、勘弁してほしいぜ」
巨漢のボリスが椅子をギシと軋ませた。
「こっちは荷降ろしで手が離せねえんだ。またくだらんことを聞かされるなら、俺はあいつを殴り飛ばすぜ」
「まあまあ、お二人とも」
ヴィンセントが毒を含んだ優雅な笑みを浮かべる。
「あのお坊ちゃん、ひと月半ずーっとテノラーダを歩き回ったそうですからね? 少しは現実というものを知って、しくしくと泣きながら『ハルトに帰ります~』と挨拶しに来たのかもしれませんよ?」
三人が冷笑を交わし合った、まさにその時だった。
ギィ……と、会議室の重い木扉が静かに押し開かれ、現れたのは三人の人影。
中央に立つ少年の姿を目にした瞬間、三人の嘲笑が、示し合わせたかのようにピタリと凍りついた。
ひと月半前にこの部屋で叩きのめされ、青ざめながら膝を震わせていた“お坊ちゃん”ではなかったからだ。
腰に佩いた長剣、厚手の外套を腕に掛けた佇まい。
かつて頼りなげだった身体には無駄のないしなやかな筋肉がつき、床を踏みしめる足取りには一切の迷いがない。
何より――その深く、静かな黒い瞳。
あの日の焦りも、気負いも、高慢さもない。まるで凪いだ湖面のように落ち着き、肚の据わった静謐な光を湛えていた。
背後に控えるレオナとガルファンが、少年に全幅の信頼を預けていることが一目で伝わってくる。
(……なんだ、あの目つきは)
バートンが手帳を弾く指を止めた。
翔馬は円卓の前へ歩み出ると、三人の頭元締めに向かって深く頭を下げた。
「バートン様、ボリス様、ヴィンセント様。……お忙しい中、再びお時間をいただき、ありがとうございます」
澄み渡るような、だが一本芯の通った声。
翔馬はゆっくりと顔を上げ、三人の目を真っ直ぐに見据えた。
「まず、お詫びをさせてください。……ひと月半前、僕は現場の苦労も、人々の生活も何ひとつ知らぬまま、机上の計算だけを振りかざして、皆様の仕事を『無駄』『欠陥』と言い切りました。自らの無知と傲慢を、心よりお詫びします」
一切の言い訳を挟まない、潔く真摯な陳謝。
ボリスが太い眉をピクリと動かし、ヴィンセントの冷笑が微かに引き締まる。
「……フン」
バートンが鼻を鳴らし、鋭い眼光を翔馬へ向けた。
「ハルトへ逃げ帰るかと思えば、街をうろついていたらしいな。……それで? てめえの無知を認めて、お別れの挨拶でもしに来たのか? お坊ちゃんよ」
「いいえ」
即座の打ち返しと共に、翔馬はバートンへ力強く視線を返した。
「街を歩き、皆様が守っている仕組みの中で、多くの人々の命と生活が守られていることを、肌で感じました。あの車列の中で、パンを売り歩く小さな姉妹……人々の営みを支えているのは、計算式には決して表れません。皆様の実践と知恵でした」
翔馬は一歩前へ進み出ると、両手を前で揃え、腰を折って深く頭を下げた。
「でも、僕の学びは、まだまだ足りません。どうか……どうか、この僕を皆様の現場で、一番下っ端の見習いとして使っていただけないでしょうか」
静寂が、会議室を包み込む。
「帳簿や図面に決して現れない葛藤と、人との折り合いのつけ方を……皆様の背中から、学ばせていただけないでしょうか」
張り詰めた沈黙。ボリスが太い腕を組み直して翔馬を睨み据え、ヴィンセントは顎に手を当てて静かに目を細める。
バートンは手帳を机にトントンと叩きつけながら、翔馬の体躯と瞳をじっと見極めていたが――やがて、呆れたような、だがどこか楽しげな大きなため息を吐き出した。
「チッ……」
バートンの舌打ちが会議室に響く。翔馬はそれに臆することなく、頭を下げ続ける。
「……頭上げろ。……ったく、閣下が『最高の弟子が来た』とかくだらんことを言ってたのは、こういうことか」
やれやれと言わんばかりに、バートンは椅子から立ち上がると、粗削りな笑みを浮かべた。
「いいだろう、お坊ちゃん……いや、エスティ。俺たちの現場は、ハルトの綺麗なお部屋とはワケが違うぞ。罵声が飛び、馬糞を踏み、泥と汗と血の匂いに塗れる戦場だ。……泣き言を吐かねえ覚悟はあるんだろうな?」
「はい。望むところです」
翔馬は顔を上げても、決して視線を外さない。
淀みのない即答に、ボリスがガハハと豪快に笑い飛ばし、円卓をドカンと叩いた。
「面白えぜ! 倉庫の荷役は荒くれ揃いだぜ! 揉みくちゃにされて泣いて帰るんじゃねえぞ、エスティ!」
ヴィンセントも優雅に立ち上がり、細い目を三日月のように細めて微笑んだ。
「私は、みっともない謝罪が嫌いなのですがね……」
そう言い、ポケットの中のコインを取り出して手で遊び始める。
「ま、いいでしょう。商人たちの欲望渦巻く腹の探り合い……フフフ。綺麗な計算しか知らなかったあなたの顔が、どこまで泥水に耐えられるか、見ものですね」
こうして、翔馬の『テノラーダ現場見習い修行』が、正式に幕を開けたのである。




