第34話 甘い香り、その温度の中で
早朝のテノラーダは、城門が開け放たれると同時に、独特の地鳴りに包まれる。
霧の立ち込める街道の上で、重い荷に軋む車輪が石畳を叩いているのだ。
神殿の客間で変わらぬ朝を迎えた翔馬は、遠くに聞こえるその地鳴りを背景に、厚手の日記帳を開いて羽ペンを滑らせていた。
びっしりと書き込まれているのは、自らの足で歩き、目で見て、人々と触れ合う中で集めた街の記録だった。
――東門近くの競り市場。
魚や肉の搬入は毎朝五の刻から六の刻。競り落とされた荷が、市内の食品店や飲食店へ運ばれていく。
あえて細い路地をゆっくりと通る荷馬車は、大通りの大型馬車を邪魔しないため、だそうだ。
住民の安全と事故防止のための、経験的な設計。しかし、この街の道は狭い。
――鍛冶工房の集まる。
車軸の打ち直しや蹄鉄の交換は、昼前に集中する。鉄を打つ槌の音と、派手に散る花火。
職人たちは、急ぎの仕事だからといって、作業の手順を絶対に変えず、粗雑に造ることはない。
手抜きをすれば、御者の命を奪う。職人の担う責任が、この街の安全を維持している。
さらさらと小気味よい音を立てていたペン先を止めると、翔馬は小さく息を吐いた。
テノラーダに到着してから、ひと月余り。
カルロの屋敷で完膚なきまでに叩きのめされ、修練場で胃の中身をすべてを吐き出さんばかりに泣きじゃくり、己の弱さを突きつけられたあの日。そこから、翔馬の日課は一変していた。
朝、日記帳を開いては、前日までの記録を整理し、手記にまとめる。
日中、街へ繰り出して市井に溶け込む。
ときに、商人たちの競りへ。
ときに、倉庫街の積替場へ。
夜間の街灯を点検する見回りの警備兵たちにまでついて歩いた。
「やあ、エスティ! 今日は鍛冶屋かい?」
「エスティよーい! 良い野菜が入ったんだ! スープ飲んでかねーか!?」
「お兄ちゃん、今日のパンもおいしいよ!」
いつしか、街を歩けば、あちこちから気安く声がかけられるようになっていた。
最初は、ハルトから来た黒髪黒目の少年を、物珍しさや遠巻きに見ていた街の人々。しかし、手帳を片手に真剣な目で「この仕事の誇りは何ですか」「どこに一番気を配っていますか」「ここで時間を置くのはなぜですか」などと熱心に、そして謙虚に耳を傾けるその姿に、商人たちや職人たちも少しずつ毒気を抜かれていった。
今では誰もが笑いながら、己の仕事の泥臭いこだわりや、経験から得た知恵。そして家族に対する思い、この街への誇りまで語ってくれる。
神殿へ戻ってからはガルファンとの修練に励み、夕食ののちに入浴して汗を流す。
就寝前の落ち着いた時間で、ひとつひとつの日常を忘れないよう、羊皮紙へ丁寧に刻み込んでいった。
今となっては、大切な記憶の層となった手帳を、微笑みながら撫でる。まるで、赤子を慈しむかのように。
(僕は、この人たちの顔も、この知恵も、大切にしていきたい)
翔馬の胸にあるのは、街を動かす名もなき多くの人々への深い敬意と、学びの歓びだった。
◇
ある日の夕暮れ。
ガルファンとの修練の時間まで少し余裕のあった翔馬は、街の南東にある歓楽街へ足を向けていた。
包丁や鍋などの日用品から、街の兵士たちが使う武具まで、幅広く製作する鉄工職人街にほど近い場所だが、その先の路地は足を踏み入れたことがない。
一仕事終えた職人たちが一日の疲れを癒そうと、歓楽街へ集まり始める頃、格好の取材タイミングと考えた翔馬は先を急いだ。
――だが、ふとそこで一本の裏路地が目に留まった。
(……ん? あれ? こんなところに道があるんだ?)
酒場の立ち並ぶメイン通りの一本手前。建物の裏側へ回り込むような位置に、薄暗く、細い路地が伸びている。
その路地は、少し行ったところで建物に阻まれ、右に折れていて先が見えない。ただ、奥から男女の楽しそうな声が聞こえてきた。
(あ……店の裏手かな? もしかしたら、仕込み作業を間近で見られるかも……)
翔馬は、気難しい職人たちが集まる店を切り盛りする主たちの仕事ぶりを見学できると期待し、当初の予定を変え、その路地へと潜り込んだ。
――そして、この選択が、のちの手記に『二度と足を踏み入れてはならない魔境』と書き残すことになる。
建物にぶつかり、右に折れた道は、今度は左に折れる。その先に一歩足を踏み入れた瞬間、肌にまとわりつく空気が一変した。
立ち込めるのは、酒と料理の匂いではなく、鼻の奥をくすぐる甘ったるい香油の匂い。
一ブロック奥の歓楽街が持つ雰囲気とは異なる空気感に、翔馬は一瞬足を止める。
決して多いわけではないものの、裏路地の左右には、小さな見世物小屋のような建物が並ぶ。
そして、その小屋をちらちらと見やりながら歩く男たちの姿。店の何件かは開いており、客の出入りがあった。
翔馬の視線の先は、細路地の奥。男たちが肩を組み、泣き、笑いながら酒を煽って叫んでいた。
(……歓楽街……? にしては何か変な……)
視線をすいと右へ。視界に入った小屋――そこには、際どいスリットの入った薄絹を身に纏い、身体の凹凸を露骨に強調した女性たちが手招きをしている。
妖艶な笑みに、艶めかしい白肌がちらりと見え、翔馬は気づいた。
(……ここは……娼館街か……っ!)
瞬時に理解した翔馬の頭の中で、けたたましく警報が鳴り響く。
君子危うきに近寄らず。即座に回れ右をして通りを戻ろうとしたが、時すでに遅かった。
振り返った先には、派手な紅を引いた恰幅のいいマダムが、満面の笑みで退路を塞いでいる。翔馬の肩を叩こうとしていたのか、右腕がこちらに向かって伸びていた。
「あ……」
思わず目が合った。
眼の前のマダムは、その笑みをさらに深めて翔馬をジロリと見定める。
「あらぁ、お兄さん! いい男じゃない! もう今日のご指名はもう決まったの?」
「え!? いやいや! な、いや、しょんなちゅもりなくて! ま、迷い込んだだけでしゅて!」
激しく動揺して、舌が回らない。
真っ赤になりながら、両手と首をぶんぶんと振る純朴な反応に、マダムは可笑しそうにケラケラと笑った。
「あら可愛い~。ね、いいじゃない。せっかくだからウチの可愛い娘たちと遊んでいきなさいよ。 たっぷりサービスさせちゃうから!」
「さ、サービスって……!」
翔馬の脳裏に、昼に食べた『根菜スープの大盛り・黒パンのおかわり無料サービス』の記憶が一瞬よぎり、即座に『絶対それじゃない』と頭を抱える。
(せっかくも何もない! サービスの意味も絶対違う!)
頭ではすらすらと言葉が出るのに、口からは何も出ない。緊張と焦りか、喉がひりひりとする。
漂う濃密な香油の匂いと、焦りとで頭がクラクラし始めたその時、通りの奥から激しい喚声が響いてきた。
「ヴァルメイからの生還祝いだ! 今夜は朝まで飲んで遊びまくるぞ!」
「あいつの分まで飲んでやる」
「俺たちは生きて戻ったぞぉー!」
「生きて帰れなかった奴もいたんだ……飲まないでいられるかってんだ!」
視線の先、傷だらけの防具を纏った男や、砂埃まみれの男たちがいた。
ある男は、泥と血の染みた包帯を巻いた手で酒瓶を煽り、またある男は、薄絹を纏った娼婦の胸に額を押し当て、子供のように肩を震わせて笑い泣きをしている。
娼婦は厭う風もなく、その荒々しい背中を優しく、静かに撫でさすっていた。
翔馬は、その男女の姿から目が離せなくなった。
先ほどまでの引きつった表情ではなく、まるで何か埋もれている大事なものを見つけたように背筋が伸びた。
(……あ……。……そっか、そういう場所なのか……)
怪訝な表情を浮かべたマダムだが、その隙を見逃さない。翔馬の背後へ回り込むと、背中をぐいと押した。
「ほーら、お兄さんも遠慮しないで! さぁ行っきましょ~!」
「わ! ちょ、ちょっと!?」
思わず数歩前にたたらを踏んだ翔馬の目の前、一軒の小さな小屋が視界に迫る。
そのドアが開くと、例の薄布を纏った女性が、妖艶な笑みを浮かべながら紅色の唇を開いた。
まるで、心臓が耳の横で鼓動しているかのように、ばくばくと全身を打つ。
「いらっしゃい、ボウヤ。……おいで?」
「いや、ちょっと! 僕! 用事がある! ので! すみませんまた来ます! いや、来ましぇんけども!」
口は最後まで噛みながらも、すかさず態勢を立て直して、路地の左へ全力で身体を捻る。
石畳を足先で力強く蹴ると、脱兎のごとく路地を駆け抜ける。
ガルファンとの鍛錬で培った足腰が、ここ一番の火事場の馬鹿力として発揮された。
後日、『足で地面を掴む感覚って、ああいうことなんですね』とガルファンへしみじみ語るくらいには、素晴らしい足運びで。
◇
“命からがら”で神殿へと逃げ帰った翔馬だが、本当の地獄はここからだった。
神殿の玄関先で翔馬を出迎えたレオナが、目の前の青年から漂う甘い香りにすっと目を細め、静かに歩み寄ってくる。
「……あら、エスティ? とても甘くて……“妖艶な香り”がするのですが……どちらへ行かれていたのですか?」
目の前のレオナからにじみ出る、冷たい氷のような威圧感と、背中に張り付くチュニックの冷たさが翔馬を挟む。
娼館街で脳内に鳴り響いた警報音を上回る爆音が、頭を揺らすかのように鳴り響く。
手に汗がじっとりと滲み、思わず腰の剣に手が伸びる。
ガルファンとの鍛錬で、五感を使い、周囲の状況を察することは少しずつ慣れてきた。
しかしそれとは異なる『第六感』が告げている。これ“も”非常にまずい、と。
「ん? おうエスティ、戻ったか……って、どうしたお前ら?」
中庭から修練場へ向かう途中のガルファンが、神殿の入口で向き合う二人の姿に足を止める。
いつもと違うのはおろおろとする翔馬にニッコリとした笑顔を向けながら、笑っていないレオナの瞳。
「が、ガルファンさん! あの! できれば助けてほしくて……!」
「あ? だからどうしたん――」
懇願の目をじっと向けてくる翔馬に、ただならぬ雰囲気を感じ取ったガルファンは、ひとまず助け舟を出そうとして――レオナの鈴を転がすような美声に遮られた。
「助けて? 助けてとは何のことですの? なにか疚しいことがおありなのですか? ……少々、お時間をいただけませんこと? わたくし、エスティにぜひともお訊きしたいことがございますの……うふふ」
普段の控えめな口調は完全に消え去り、かつてハルト王国で王族として生活していたことがうかがえる、流麗な貴族言葉が翔馬の耳を突き刺す。
正面の少女は、美しく弧を描く口元とは裏腹に、透明感ある瑠璃色の双眸は、絶対零度の冷徹さで見据えていた。
――その後、翔馬は炎神の神殿の祭壇前で、人生初の見事な土下座を披露することになった。
頭に手を当てて呆れ顔のガルファンをはじめ、バルザックやガルヴィン、果ては通りすがりの神官や巫女たちが『何事だ』と遠巻きにざわめく中、翔馬は経緯を包み隠さず白状し、笑顔のレオナへ誠心誠意の謝罪を捧げ続けた。
翔馬の必死の謝意に、レオナはとうとう赦した――のだが、無条件で慈悲深き水の慈愛を与えることは、決してなかった。
その日の夕食の予定が、テノラーダでも指折りの高級肉料理店へと変更されたこと。その代金が、翔馬がコツコツと貯めていた路銀から全額支払われたことを以って、ようやく氷の微笑は解かれたのだった。
(手記補足……。命を懸けて旅する人たちにとって、あの場所は必要。無事を噛みしめ、緊張を解き、ときに仲間の冥福を祈る場所。生きていることを実感する場所。すべて、明日の活力にするため。……ただし、僕は二度と近寄らない)




