第33話 苦きエールと、夜風の足音
日が傾き、紫黒石の街並みが夕陽と、街灯の光に照らされる頃。
三人は、一日中街の息遣いを聴くために市内を歩き回り、すっかり腹を空かせていた。
「へいへい、一日中歩いてクッタクタだ! 飯くらい景気よく行こうぜ!」
そう威勢よくガルファンが先頭を歩いて、翔馬とレオナを案内したのは、北西にある商業区の路地裏。〝地元民〟向けの小さな小屋や屋台がひしめく一角だった。
あちらこちらから、客引きが威勢良く呼ぶ声と、肉や魚を焼く香ばしい匂いが立ち込める。ガルファンは、その中のひとつ。大衆向けの酒場の扉を開けた。
所せましと並べられた分厚い木製のテーブルには、長旅を終えた隊商の男たちや、地元の職人たちがひしめき合っている。
誰もが豪快に肉を喰らい、木樽のジョッキを叩きつけて、大笑いしていた。
「すごい活気ですね……!」
レオナがその光景に圧倒されていると、ガルファンは慣れたように空いている席を確保した。
テーブルを挟んだ長椅子へ二人を座らせると、店員に向かって豪快に叫ぶ。
「おい、ニイちゃん! 肉の盛り合わせと黒パンのセットを三つ、それにエールをデカいジョッキで三つだ!」
「あーい! 毎度ォ!!」
(そういえば、こんな感じだったっけ……)
翔馬は、ラグロニーネでガルファンと初めて会った日を思い出した。
補給廠で仕事を終え、共に食事をしたとき。
慣れずにオロオロする翔馬など気にもせず、ささっと食事を注文してみせた。
場に慣れているのだろうなと、改めてガルファンの行動に翔馬は感嘆する。
「ガルファンさんって……なんかすごいですよね」
「ハッ! なんだそりゃ。褒めてんのか?」
苦笑を浮かべるガルファンに、翔馬は続けた。
「経験されたことが、どこでも活きて見えるというか……」
「俺はお前と違って頭がよくねえからな。経験していくしかねえのさ! ……お、来たぞ」
「はい、お待ちどうさま! 肉の盛り合わせと黒パンセット! あとエールの大ジョッキね!」
テーブルに運ばれてきたのは、香ばしい匂いが食欲をそそる肉のグリルと、焼き立てのパンの盛り合わせ。
そして、木樽の大きなジョッキに並々と注がれた、泡の立つ琥珀色の液体――樽出しの麦酒だ。
ガルファンは、運ばれてきたそれを、ドンとテーブルの上に置いた。
「ほらよ、エスティ! 今日は一杯飲んで、活を入れろ!」
「……えぇ……?」
翔馬は、ガルファンから手渡されたジョッキを見て、思わず二度見した。
両手で持って丁度良いサイズのジョッキからは、何度見ても泡が零れそうになっている。
「これ、お、お酒……ですか!? いや、僕、未成年ですし! 飲んだことないですよ……!?」
「ああ? 何言ってんだ、お前もう十五過ぎてんだろ?」
ガルファンは呆れたように眉を上げた。
ジョッキを前にしてアタフタする翔馬に、レオナが何か察したように伝える。
「……エスティ。ハルトやケーニヒシアでは、十五歳からお酒を飲んでもよいのですよ」
「……え?」
翔馬はレオナと同い年と聞いていた。そして彼女は十八歳だ。
ガルファンは二歳上と聞いていた。
(つまり、全員飲める……。いや、でも……兄貴がなぁ……)
元の世界では、数えきれないくらい『お酒は二十歳になってから』のキャッチコピーを見聞きしてきた翔馬。
翔馬の脳裏には、両親から『未成年の飲酒は絶対にダメだ』と徹底的に叩き込まれたにもかかわらず、決まり事を破った一番上の兄が、父から手厳しい『指導』を受けていたのを思い出す。
今の自分がお酒を飲むという行為が、とてつもなく背徳的で、不良的で、恐ろしいことに思えた。
「で、でも……お酒なんて……。僕、酔っ払ったら、どうなるか分からないですよ……!?」
慌てふためいて手を振る翔馬の姿に、ガルファンが大爆笑した。
「ダハハッ! 大丈夫だ! 潰れたら俺がきっちり連れ帰ってやる! ほら、姫さんも飲むだろ?」
ガルファンがレオナの方へジョッキを向けると、レオナは可愛らしく笑い、両手を前に出して迷いなくジョッキを受け取った。
飲める口なのか。これではますます断れない、と翔馬は心の中で小さく愚痴をこぼす。
「せっかく外でのお食事ですし、お心遣いに感謝しながらいただきますね。ハルトの甘い果実酒とは違って、こういうお酒も興味がありましたので」
「さっすが姫さん、分かってるな! ほぉら、エスティ! お前も男なら度胸見せてみろや!」
ガルファンに煽られ、翔馬は助けを求めるようにレオナを見た。
だが、レオナは救いの手を差し伸べるどころか、紫紺の瞳を細め、翔馬の狼狽ぶりを観察している。
「ガルファン様がせっかく勧めてくださっているのですし、一口だけ召し上がってみてはいかがですか? それでも駄目なら……」
途中まで言いかけた言葉を止めて、翔馬を見やる。
閉ざされた部屋。
滞留する空気。
毛布に包まった背中。
震える肩。
それを思い出して、レオナは口を閉じた。
「レオナ? どうしたんですか?」
心配そうに覗き込む翔馬に、表情を一瞬で笑顔に変えて、首を振る。
「……いえ、大丈夫です。ええと、エスティも十五を過ぎているのですから、何も悪いことではありませんよ? 良い機会ではないですか」
「えぇ……レオナまでそんな……。ああもう! 分かりましたよ! 飲みますよっ!」
完全に退路を塞がれてしまう。こうなると、翔馬は飲まない理由を探すことの方が困難だった。
ガルファンからあのでかいジョッキを受け取っている、多数決では負けている。『飲まない』選択などなかった。
もはや自棄のように叫ぶと、大衆酒場の賑やかな喧騒の中、二人の視線を痛いほど浴びながら、翔馬は覚悟を決めてジョッキを手にした。
その姿を満足そうに見たガルファンが叫ぶ。
「よぉし! エスティ、姫さん! 今日の成果に乾杯だ!」
そういってジョッキを高く掲げたあと、口に持って行って一気にエールを喉へ流し込む。
ゴッゴッという喉を鳴らす音と共に、勢いよくジョッキの中身が減っていった。
レオナは軽く掲げた後、一口目を喉に送り込む。
「爽やかでとても飲みやすいですね。ラグロニーネでも飲むことができればよいのですが」
「そうだよな! やっぱテノラーダのエールは最高だぜ! ほら、エスティも飲め飲め!」
(これは巷にいう、アルコールハラスメントとかいうやつなのでは?)
翔馬はそう思ったが、隣を見ればレオナは実に嬉しそうに二口目を傾けている。
ゴクリと唾を呑み込み、そして、意を決して琥珀色の液体を口に含んだ。
――シュワッとした泡の刺激。そして、独特の強い苦味、パンとは異なる香ばしい麦の香りが、一気に口内に広がる。
「むぐっ……!? ぶはっ、ケホッケホッ……!」
想像以上の苦味と刺激に、翔馬は思い切りむせ返った。
顔を真っ赤にしてコンコンと咳き込む。
「ハハハッ! 毒飲んだみたいな顔すんじゃねえよ!」
テーブルを叩きながら大爆笑するガルファンを見て、翔馬は恨めしそうな顔を向ける。
もう酔っぱらっているのではないか、と喉まで出かかった言葉を腹に押し戻した。
レオナも口元を隠しながら、肩を揺らしてクスクスと可憐に笑う姿に、扱いがあんまりだと再び内心でぼやいた。
「苦いですよ……! なんですかこれ!」
「ハハッ、エールが甘かったら気持ち悪ぃだろ! 肉を食ってから飲んでみ? 騙されたと思って!」
ガルファンをジト目で見やる。ニヤニヤとしているので、また騙されるのではないかと考えたが、香ばしい匂いを立てる肉に、空腹は勝てなかった。
翔馬は焼きたての香草肉を一口かじり、その肉汁のうまみを噛み締めてから、もう一度おそるおそるエールを口に含んだ。
今度は、先ほどと違っていた。
肉のこってりとした脂っぽさと香辛料の風味が、エールの苦味と泡で見事に洗い流され、口の中が驚くほどさっぱりとする。
そのあとに残る風味が、何とも大人の味に感じられた。
「あ……? これ美味しい……かも……」
「そういえば、リーデル兄様も『この果実酒と合うのは塩を振った肉だね』と仰っていましたね」
「だろぉ? 食い物と酒ってのは、そうやって合わせて楽しむもんなんだよ! さぁ、今宵は存分に楽しもうぜ!」
ガルファンが自分のジョッキを豪快に鳴らし、ガブガブと酒を煽る。
翔馬もまた、熱くなった頬を撫でながら、ちびちびと二口、三口とエールを口に運んだ。
これくらいの苦みであれば、慣れれば大丈夫そうだ。何より、肉と合うのが収穫だった。
アルコールのせいもあり、胸と腹の奥がじんわりと温かくなり、日中の疲れが心地よく解けていく。
翔馬は、この瞬間に幸せを感じていた。
◇
酒場を出ると、ひんやりとした心地よい夜風が大通りを吹き抜けていた。
ほんのり顔を上気させた翔馬は、夜空に浮かぶ二つの月を見上げながら、ゆったりとした足取りで歩く。
前を行くガルファンとレオナの背中が、街灯の灯りに照らされていた。
「……ガルファンさん、レオナ」
「あん?」
「はい、エスティ?」
二人が足を緩めて振り返る。翔馬は澄んだ瞳で、二人を真っ直ぐに見つめた。
「今日、連れ出してくれて……本当にありがとうございました」
改まった口調に、ガルファンが照れくさそうに鼻を鳴らす。
「なんだ今更。美味い飯食ったからってかしこまるなよ」
「そうじゃなくて……。今日、鍛冶屋とか、商人さんや御者さんたちを見て、あのスープを飲んで……。今日見た景色とか、あの子たちの顔が頭から離れないんです」
翔馬は自分の胸にそっと手を当てた。
「あの部屋に引きこもっていたら、一生気づけませんでした。……僕、この街の現場をもっと知りたいです。頭元締めさんたちが守っている現実を、ちゃんと自分の目で見たいって」
その言葉には、かつての思い上がった万能感も、卑屈な諦めもなかった。
ただ前を向く青年の決意を聞き、ガルファンは満足そうに口元を吊り上げた。
「へっ……やーっと街の面白さが分かってきたんじゃねえか?」
レオナもまた、優しく微笑んで頷いた。
「ええ……私にとっても素敵な一日でした。エスティ、明日からも一緒に歩いていきましょうね」
夜のテノラーダ。
重厚な紫黒石の街並みは、昼間の荒々しさを静かに潜め、歩み出す三人を温かく包み込んでいるようだった。




