第32話 見ること、知ること、分かること
三人は、朝靄の残る神殿の門をくぐり、街の只中へ足を踏み出していた。
外輪山の稜線から差し込む朝日が、紫黒石の建造物を照らし始める頃。通りには行き交う人々の姿が増え、店先に商品が並び、街が活気に満ち始める。
「それで、エスティ。今日は何を見に行くのですか?」
「午後の、あの倉庫街の車列です。僕には見えていなかった……だから、もう一度じっくりと『見て』みたいんです」
翔馬は淀みなく答えた。
脳裏には、三人の頭元締めへ突きつけた、あの〝午後の停滞〟が浮かんでいる。
昨日までの死んだ魚のような目とは打って変わり、引き締まった少年の横顔を見たガルファンは、ニヤリと口元を緩めた。
「まだ時間があるな。前にも言ったが、テノラーダは武具や鉄製品が名物でよ。先に鍛冶工房へ寄ってみねえか? まだ見てねえだろ」
「そういえば、行ったことないですね。神殿の周囲にもたくさん工房があるみたいですが……」
ガルファンが、神殿から真っすぐ伸びる通りの先を指さす。
「この先に、知り合いの武具工房がある。紹介してやるよ」
通りをしばらく進み、テノラーダの南西。住宅街との境にある一軒の建物の前で、ガルファンが足を止めた。紫黒石の街並みの中では珍しく、木造の工房で、掘っ建て小屋に増築を重ねたような、歪なシルエットをしている。
「ここだ」
「……すごく独特な建物ですね。ええと……パゴルド武具工房?」
入口の横に不自然に立てかけられた、煤けた木看板の文字を翔馬が読み上げる。
「見た目は気にすんな」
ガルファンが建付けの悪い重い扉を押し開け、翔馬とレオナが続いて中へと入る。
外観同様、室内も乱雑そのものだった。完成品を丁寧に並べて売る店ではなく、単に〝創る〟だけに没頭した、実験場のような空間。
作業場の床には、木の削りカスや紫黒石の破片、使い古された工具、打ち直し途中の武具が所狭しと転がっている。
工房だから当然か、と翔馬は心の中で納得はしたが、それでも乱雑であることに変わりがなかった。
「おい、パゴルド!! いんだろ!? 返事しやがれ!!」
ガルファンが奥に向かって怒鳴ると、奥から『でけえ声出すな! こっちにいる! 入ってこい!』と低くしゃがれた声が返ってきた。
三人が作業場の奥へ足を踏み入れると、顔中に汗を滲ませながら、赤々と燃える火床へ薪と炭をくべる初老の男がいた。
パゴルドと呼ばれた男は、ガルファンの顔を見るなり「留め具なら直してあるぞ」と、棚から革の手甲を放り投げて寄越した。
「あぁ、助かったぜ。代金は――」
「いらん」
火床に真剣な目を向けたまま短く返す男。ガルファンはその様子を気にすることなく、手甲を装着した。
パチンと、留め具の嵌る小気味よい音が響く。
「ところで、ずいぶんと派手に炉を熾してんじゃねえか。大仕事か?」
「ああ。午後に上質の鉄鉱石がドカンと届く手筈でな。荷が着いた瞬間に叩けるよう、温度を上げてんだ」
職人の言葉に、翔馬は小さく目を見張った。
ここでもまた、街道から届く馬車の時間に合わせて、職人の作業スケジュールが緻密に組み立てられている。
まじまじとその作業を食い入るように見ている翔馬は、あることに気が付いた。
「……炉も、ここの黒い石で造られているんですね」
テノラーダの街並みを印象付ける黒い石。それが炉に使われていた。
「詳しくねえが、だいたいの工房は紫黒石を使ってんじゃねえのか? なぁ?」
「ああ。この街の石は、頑丈な上に熱を逃がさねえからな」
ガルファンから話を振られ、パゴルドはそう答える。
そして、思いついたように男の鋭い視線が翔馬とレオナに向いた。
「……見ねえ顔だな? お前の連れか?」
「あぁ、コイツはラグロの領主サマんとこの居候で、エスティっつーんだ。んで、こっちが領主サマの妹君」
「はじめまして。エスティといいます」
「お初にお目にかかります、パゴルド様。レオナ・グライアス・ハルトニアと申します」
男は『そうかい』と一言返すと、翔馬の腰に佩かれた空色の持ち手を持つ長剣をじっと見据えた。
「お前さん、剣士か? 業物だな。どれ、見せてみろ」
翔馬は一瞬戸惑ったが、ガルファンがニヤニヤしながら頷いた。
黒革の鞘からゆっくりと長剣を引き抜き、パゴルドに手渡す。すると、男はあらゆる角度から剣を眺め、鋭く目を細めた。
「……刃こぼれはねえが、手入れをサボってるな? 剣は正直だ。持ち主がサボればあっさりサビが入るぞ。たまに油を塗るのと、空気を吸わせてやれ」
「あ……すみません……。……油……? 空気……?」
縮こまりながらつぶやく翔馬に何かを察したか、パゴルドは『ほれ。やり方を教えてやる』と、布と油壺を放り投げて寄越した。
鼻を突く独特の油の匂い。翔馬は教えられたとおり、静かに長剣を布で拭い続けた。
油を引くたびに、すらりと伸びた細い刃は、翔馬の顔を鮮やかに映すほどの輝きを取り戻していく。
火床を整える音、立ち上る炭の熱気、油の匂い。
机の上で図面を眺めていただけでは決して触れられなかった熱が、翔馬の肌を静かに焼いていた。
◇
工房を後にした一行は、東門から倉庫区へと続く巨大な幹線街道――あの、馬車が滞留する街道へと足を向けた。
数日前の翔馬は、この街道を見下ろす回廊の上から、ただ停滞する時間と、車列の長さという数字を見ていた。
だが、今は、無数の旅人や行商人の群れに混ざり、石畳の上からその景色を見ている。
正午を回り、陽が傾き始めた頃、街道の向こうから一台、また一台と大型の馬車が連なり始めた。
「来たぞ」
ガルファンが顎で示す。
テノラーダへ到着した幾台もの大型馬車が、東門から検認所そして倉庫へと続く街道の半分を埋め尽くしていく。やがて先頭の馬車が止まり、ゴトゴトと響いていた車輪の音がぴたりと途絶える。
翔馬が『非効率で、放置された欠陥』と断じた滞留が始まったのもつかの間、御者台から疲労困憊の顔をした男たちが飛び降りてくる。
「あーっ! ようやく着いたぞ!」
「腰が砕けるかと思ったぜ!」
目の前の御者が、凝り固まった首を回しながら、愛馬の首筋を優しく撫で回す。
馬もまた荒い息を吐きながら、御者の胸元に鼻先をすり寄せていた。
御者は、手際よく近場の水槽から木桶に水を汲んで馬に与えると、使い古された手ぬぐいで、汗と泥に塗れた馬の脚や腹を丁寧に拭いはじめる。
別の場所では、車輪の脇に屈み込んだ若い御者が、槌と油壺を手に車軸を点検していた。
「おい親父! 左の車軸押さえが抜けかけてやがる! あの峠の下りでやっちまったかもな」
「今のうちに予備で直しとけ! ハウロスへ向かう途中で壊れたら命がねえぞ!」
「部品も調達しとかねえとな! 近くに工房はあったか?」
翔馬の前で繰り広げられる、怒号のような荒っぽいやり取り。
「すごい……手際もいい……」
翔馬は思わず呟く。
そこには悲壮感ではなく、過酷な旅を生き延びて街へたどり着いた者たちの、安堵と連帯があった。
そして、バートンの言葉が、頭の中で鮮やかに蘇った。
――あの滞留は、疲れた馬と人間を強制的に休ませて、馬車を点検するために、絶対に必要な余裕だ。
(こういうことなのか……)
「エスティ、あちらも……」
レオナが、そっと道に立ち並ぶ馬車列の外を指差し、翔馬の視線を導く。
荷役の男たちがベンチに腰掛け、汗を拭いながら大声で笑い合っている。そこへ、どこからともなく無数の人々が押し寄せていた。
「さぁ、どうだい! 焼き立ての肉だよ!」
「こっちの温かい野菜スープはどうだい! 旅の疲れが吹っ飛ぶよ!」
立ち止まった馬車隊、商人に御者と護衛、そして倉庫の荷役をめがけて、瞬く間に即席の露店街が出現していた。
ぐつぐつ煮立つ大鍋の湯気、焼きたてパンの香ばしい匂い、小銭が木箱にチャリンと落ちる音。
パンを山盛りに積んだバスケットを抱える小さな少女たちや、香ばしい煙をあげる手押し車を押す店主たちが、車列へと吸い寄せられていく。
さらに、その匂いに釣られるかのように、木で編まれたかごを抱える近所の住人までもが。
スープをすする商人たちの会話が、翔馬の耳に届く。
『おい、北の王都じゃ、いま南の香辛料が高騰してるらしいぞ』
『本当か? なら倉庫から出す積荷、半分をハウロスに回すか』
熱い湯気の向こうで、商談と情報が目まぐるしく飛び交っていた。
「……僕たちも買って、食べてみませんか?」
「ふふふ。ぜひ」
三人は、白い煙が立ち上る一軒の露店へと歩み寄った。『いつものをくれ。大盛りで!』と、常連客と笑いあう丸顔の店主が、大きな鍋から木椀へ手際よくスープを注いでいる。
店主は、商人たちに混じる不釣り合いな格好の翔馬たちに気づくと、威勢の良い声を張り上げた。
「やあ、お兄さんたち、見慣れない顔だね! どこから来たんだい?」
「ハルトのラグロから来ました。……えと、スープを三ついただけますか?」
「あいよ! ラグロニーネからかい。遠いところをご苦労さん! 焼きたてのパンもサービスしとくよ!」
銅貨を払い、差し出された熱々の器を受け取る。
そこへ、店主の後ろから七、八歳ほどの小さな女の子が二人、焼き立てのパンを持ってトコトコと駆けてきた。
「お兄ちゃん、お姉ちゃん! このパンね、お母さんが朝一番でこねたの!」
「すごく柔らかいよ! 食べてね!」
少女たちは健気な笑顔で、焼き立てで香ばしい匂いのパンを三人に差し出した。
小さな手は粉と煤で薄く汚れ、寒風の中で一生懸命に働いていることが窺えた。
その姿に、レオナは優しく目線を合わせるよう膝を折る。
「まあ……美味しそう。ありがとう、可愛らしいお嬢さんたち」
パンを受け取り、レオナは少女の頭を優しく撫でた。少女たちは照れくさそうに『えへへ』と笑う。
三人で街道の縁に並んで腰掛け、ふうふうと息を吹きかけながら塩気のあるスープを口に運ぶ。
香辛料が強く効いている肉と、干し魚による濃厚な旨味。そしてじっくり煮込まれた野菜の甘みが口いっぱいに広がる。
「……これ、すごく美味しい……!」
レオナが頬に手を当てて目を輝かせた。
翔馬も一口すすり、その温もりが胃にじんわりと染み渡っていくのを感じる。
「お嬢さん、嬉しいねぇ! うちのスープは旅人の疲れによく効くんだ! 体を温める香草がいくつも入ってるからね!」
「これ、すんげえうめえぞ」
ガルファンは、サービスで渡されたパンを口いっぱいに頬張っている。
甘辛く煮込んだ干し肉が挟まれたそれは、焼きたての香ばしさに芳醇な麦の香り、肉の濃厚な旨味が絶妙に合わさる。
店主は美味しそうに食べる三人に顔をほころばせながら、店先へ次々とやってくる客へスープを盛り続けた。
「……ご主人。この時間になると、馬車が止まって長い列になりますよね? 邪魔だなって思うことはないんですか?」
翔馬は、スープとパンを交互に味わいながら、客が途切れた合間を見て店主へ問いかけた。
丸顔の店主は、一瞬きょとんとした顔を浮かべたが、すぐに心底おかしいといった表情になり、ガハハと豪快に笑い始めた。
「ワハハハハ! 邪魔!? なーに言ってんだ、お兄さん! むしろ一番の稼ぎ時だよ!」
「え……?」
「この時間は、商人や御者たちのメシの時間だからね。うちはこの時間、普段より安く、たくさんモノを出すんだ。近所の連中もコレ目当てに買いに来てくれるしね」
そう言うと、店主は愛おしそうに、馬車の合間を縫ってパンを売り歩く娘たちを見つめた。
「俺たちみたいな路地裏の小さい店は、ありがたいと思うだけだ。邪魔と思ったことなんて一度もないよ!」
視線の先では、先ほどの少女と少し年上の姉が、空になりかけたバスケットを抱えて駆け回っていた。
『お姉ちゃん、あと五個しかないよ!』
『じゃあ私、あっちの馬車に行ってくる!』
顔なじみの商人が『おう、今日も元気だな!』とパンを買い、銅貨を受け取った姉妹が嬉しそうに顔を見合わせている。
「この時間があるから、俺はあの子たちに毎日、腹いっぱい飯を食わせてやれるんだ」
翔馬は、目を見開いた。
ガツンと頭を殴られたような衝撃が全身を駆け抜けたと同時、ヴィンセントのあの冷徹な言葉が、鮮烈に蘇った。
――あの街道沿いには、何百人もの商人と、その家族の生活がへばりついている。
翔馬はスープの器を握り締め、混雑する街道を改めて見渡した。
馬を休ませる御者。車輪を直す若者。スープをすすりながら、次の相場を語り合っている商人たち。
そして、小銭を数えて笑う店主と、それを健気に手伝い、家族を支える小さな姉妹。
(……あの子たちも、商人たちも、この時間が大切なのかな……)
数字で無駄と判断し、切り捨てようとした時間と場所。
三人の前には、この巨大な都市を支える何千人もの人間の安全、生活、そして笑顔がしっかりと息づいていた。
「もし……僕がこの車列を消していたら、どうなってたんだろう」
ぽつりと零れた翔馬の呟きは、目の前の現実を見て生まれた疑問だった。
ガルファンが翔馬の肩をバシッと、力強く叩く。
「俺にゃ分かんねえが、人間も馬も休まねえと壊れる。みんな生きてんだからな」
「……そうですね」
レオナも、温かい眼差しで翔馬を見つめ、静かに頷いた。
「それを肌で知ることができただけでも、大きな一歩だと思いますよ、エスティ」
「……はい」
レオナの言葉に頷きながら、翔馬は深く、深く息を吐き出した。
空になったスープの器を見つめる胸の奥で、この街をもっと知りたいという熱が、静かに灯り始めていた。
「ご馳走様でした。とても美味しかったです」
器を返し、翔馬が頭を下げると、店主と少女二人が、満面の笑みを向けた。
「おう、ありがとうよ! お兄さんたちの旅が、安全であるように祈ってるよ!」
「お兄ちゃん、お姉ちゃん、また来てねー!」
少女たちが手を振り、レオナもまた目線を合わせて笑顔で手を振り返す。
冷たい冬の風が吹き抜ける街道。
だが、見送る人々の笑顔に包まれた翔馬の胸の内には、確かな温もりが満ちていた。




