第31話 壊れたならば、直せばいい
「僕は……何も見えていなかったんだ! 自分の考えが正しいって……何も、知ろうとしなかった! 知るチャンスなんか、いくらでもあったのに!!」
翔馬は、床に伏せた身体をゆっくりと起こすと、木剣を握る拳を何度も何度も石床にたたきつけ、顔をぐしゃぐしゃに歪ませて泣きじゃくった。
溢れ出る涙も、流れ出る鼻水を拭おうともしない。
喉が裂けそうなほど、声を絞り出す。
「僕は、何もしてこなかった……だから、ここで変わらなきゃって……! ここから頑張らなきゃって……! リーデル様に褒められたのが、嬉しかったんだ……! 僕、ようやく役に立てる人間になれた、変われたって、調子に乗って……!」
脳裏に、ラグロニーネの屋敷の光景が蘇る。
あの日のリーデルの、穏やかな眼差し。
――エスティ。君の前を向く柔軟な思考を誇りなさい。
――君はいつか、理解の異なる者たちの“壁”を壊せるかもしれない。
鼻の奥がツンと激しく痛み、視界が涙で滲んで歪んだ。
考えるよりも先に、胸の奥に溜め込んだ本音が止めどもなく溢れ出し、もう翔馬自身でも止められなかった。
「自分で考えて……数字を動かすのが、すごく楽しかったんだ……! 旅の間も、僕ができる側になってるって、思い込んで……クロイツの人たちが何を考えてたかなんて……これっぽっちも考えなかった! 自分の計算が完璧だって……!」
顔も瞳も、鼻すらも真っ赤にしながら、奥歯をぎりぎりと噛み締めて叫ぶ。
「でも……でも! 僕、変わってなかった! 現場には、数字じゃ測れない命があるって、リーデル様に教わったのに……! なのに、僕……またテノラーダでも同じことをやったんだ! うぅぅああああ!」
絶叫が紫黒石の壁を跳ね返り、やがて途絶えた。
ひっく、ひっくと激しくしゃくりあげながら、翔馬は肩で息をする。
握りしめていた木剣が、指先から力なく転がり落ちた。
「……分かってたんだ。言われたことも……僕が何をしでかしたかも。……だから、取り返さなきゃって思った。でも、身体が動かなかった……何も書けなくて……。立とう、謝ろうって思ったけど……だんだん、もういいやって……。そんなこと、僕には許されないのに……。駄目なのに……っ!」
静かな衣擦れの音が響いた。
レオナがふらりと立ち上がり、力なく腕を降ろしてへたり込む少年の前へ歩み寄ると、静かに両膝をついた。
滴る涙を拭おうともせず、愛おしげに翔馬の濡れた頬を両手で包み込む。
そして、少年の頭をそっと手繰り寄せ、自分の胸元へと抱きしめた。
「ごめんなさい、エスティ……っ。私……兄様と私を、あなたが救ってくださるのだと……ずっと縋り付いていました……」
瑠璃色の瞳からこぼれる雫が、翔馬の黒い髪を濡らす。
「あなたの心が折れてしまうのが怖かった……。どこか逃げ場所を作ってあげなければと……! ……でも、あなたは逃げず、向き合おうと苦しんでいたのに、私が……! ……私があなたの目を背けさせてしまった……! 私も……大きな間違いをしてしまいました……ごめんなさい……」
強く抱きしめられた翔馬の身体から、力が抜け落ちていく。
そして、力なくレオナの細い肩口に額を預けた。
「レオナ……僕、みんなを傷つけた……。駄目で、情けない人間だ……」
「情けなくてもいいのです。失敗してもいいのです。格好悪いところも、全部、見せてください。私だって、失敗ばかりです……。……だから、一緒に傷ついて、一緒に泣いて……もう一度、一緒に歩き出しましょう……?」
レオナの華奢な身体から伝わってくる温もりが、赦しのように翔馬の身体の隅々に染み渡っていく。
翔馬は、自分を受け入れてくれる存在の優しさの中で、絞り出すように「ありがとう……」と小さく呟き、静かに涙を流した。
レオナはそれ以上何も言わず、ただ、頷きながら、その背を抱きしめ続けた。
「ったく……世話が焼けるぜ。あぁ、拳が痛えぜ。……姫さんの魔法、マジで洒落になんねえな」
ガルファンは、二人から少し離れた場所であぐらをかきながら、赤くなった右の拳をさすり、ふっと口元を緩めた。
目に映る二人には、歪んだ空気も、白い靄のような違和感もなかった。
その代償が、この拳の痛みくらいで済むのであれば、安いものだと鼻を鳴らす。
「……手厳しい稽古だな!! ガルファンよ!!」
豪快な声が、修練場の入口から響いた。
ガルファンが驚いて振り返ると、扉の向こうには、いつの間にか大勢の人影があった。先頭に立つのは、満足そうな笑みを浮かべる武闘僧侶総長――父バルザック。
その隣には、穏やかな笑みを浮かべて、手拭いを抱えた母マリアーネ。
さらに後ろには、腕組みをしながら深く頷く兄のガルヴィンを始め、騒ぎを聞きつけて集まってきた神殿の僧侶や神官、巫女たちが、温かな眼差しで立ち並んでいた。
「親父……。それに、みんなして何見てんだよ……」
気まずそうに顔を背けるガルファンの肩を、ドカドカと巨体を揺らしながら歩み寄ってきたバルザックの、まるで丸太のような腕がドシンと叩いた。
「痛え! 何しやがる!」
「ガハハ! 怒鳴り声と爆音が神殿の奥まで響いておったぞ! お前も少しは先達らしい面構えができるようになったではないか!」
「……うるせえな」
バルザックの分厚い手のひらが、息子の逞しくなった肩の筋肉を確かめるように、ぐっと力を込める。
四年前、炎神の神殿の武闘僧侶として生きることを良しとせず、『俺は俺の道を見つけてえ』と言って、飛び出していった次男坊。
家名も、神殿の務めも、立場上背負うべき責任も、どこか他人事だった。
だからこそ、便り一つ寄越さぬ四年間には、怒りも、心配もした。
その男が今、他人の弱さと真正面から向き合い、自ら泥を被って拳を振るっていた。
「昔のお前は、立ち止まった奴など目もくれず、面倒だと置き去りにしておったろうに。他人のために嫌われ役を買って出るとは……ハルトの風に揉まれて、少しは気骨のある漢になったようだな」
「俺は、やるべきだと思ったからやっただけだ」
照れ隠しに唇を尖らせてそっぽを向く息子を、マリアーネが愛おしそうに見つめながら、静かに翔馬とレオナの前へと歩み寄り、その前で膝を折った。
「ほらほら、お二人とも。さあ、これをお使いなさい」
差し出された清潔な手拭いを受け取り、翔馬とレオナは濡れた顔を拭った。
マリアーネは二人の背中を優しく撫で、立ち上がると、そっぽを向き続けるガルファンの横顔を覗き込んでクスリと微笑んだ。
「ふふふ。ガルファンったら、昔から困っている人を見ると放っておけないところは、お父さんそっくりね」
「はぁ!? どこがだよ!」
「素直じゃないところも、そっくり」
帰ってきた息子は、少し日に焼けて、少し傷が増えていた。
けれど、ずっと優しい顔をするようになった。
それがマリアーネにとっては、何より嬉しかった。
そんな母の柔らかなからかいに、ガルファンは首筋まで赤くして頭をガシガシと掻いた。
その横から、兄のガルヴィンが静かに進み出る。
寸分の乱れもない神官僧侶の衣を纏った長男は、床に座り込む翔馬の前に立つと、その右肩を不器用に、だが力強く叩いた。
「大事なのはここからだ、エスティ殿。愚弟の言った通り、折れた後に立ち上がる者にこそ、道は開ける」
「ガルヴィン様……」
「……兄貴、どこから聞いてやがった……?」
ガルファンがジト目で兄を睨みつけると、ガルヴィンは視線を弟の腫れた右拳へと落とし、静かに口元を緩めた。
「最初からだ。しかし、驚いたぞ。お前が四年前、ここを出ると言ったとき、正直お前が何に焦り、何を考えているか、分からなかったからな」
「ケッ、今更何を言ってやがる」
腕を組むガルヴィンもまた、弟の横顔を静かに見ていた。
いつだったか、旅に出ると言った弟を、愚かだと思ったこともある。
神殿に残れば、家も、立場も、未来も用意されていたからだ。
それを捨てる意味が、自分には理解できなかった。
だが、今なら少しだけ分かる。
ガルファンは強さを求めていたのではなく、自分が本当に守りたいものを探しに行ったのだ。
ガルヴィンは弟の背中を、武闘僧侶としての敬意を込めて見据えた。
「だが、ようやく分かった。お前は、ずっと探していたのだな。醜く足掻きながら、前に進む存在を」
「……ケッ! 分かったように言うんじゃねえ。さっきも言ったが、俺は、やるべきことをやっただけだ」
憎まれ口を叩きながらも、ガルファンはそれ以上反論せず、舌を鳴らして視線を逸らした。
集まった僧侶や巫女たちからも、からかい混じりの温かい笑い声と頷きが漏れる。
名門レニム家の重圧から飛び出し、外の世界で自らを鍛え上げてきたガルファン。その成長を余すことなく受け止め、誇らしく包み込む家族の温もり。
修練場を満たすその力強くも優しい気配が、打ちのめされていた翔馬の凍えた胸の奥へ、じんわりと温かい熱となって染み渡っていった。
手拭いで強く目元を拭い、翔馬は自らの足で、ゆっくりと立ち上がった。膝の震えはまだ完全には止まっていなかったが、その背筋だけは真っ直ぐに伸ばす。
――市民なくして都市は成立しない。
――自身の足で稼げ。渦に足を踏み入れろ。熱の中で身を揉まれてみろ。
あの日、耳を塞ぎたくなったカルロの言葉が、いまは確かに胸に響いていた。
(……僕はもう、逃げない。知った気になって人を蔑ろにするのも、ガルファンさんを裏切るのも、絶対に嫌だ。……もう一度、やり直す)
翔馬は瞳を閉じ、少し考えたあと、黒い瞳をレオナに向けた。
「……レオナ」
「はい、エスティ」
まっすぐにその瑠璃色を見つめる。
「僕、もう一度進みます。前に。……だから、一緒に来てくれますか?」
レオナは一瞬驚いて目を見開くが、やがて柔らかな笑顔を向け、頷く。
そして、差し出された少年の右手を、迷うことなく両手でしっかりと包みこんだ。
「……はい! ご一緒します!」
並び立つ二人の姿を見つめるガルファンが、満足そうに口元を弛ませた。
◇
七日目。
朝の食堂。
今日も、三人分の食器が並んでいる。
ガルファンが、いつもの席で手早く食事を済ませ、正面の空いた二つの座席をじっと睨みつけていた、その時だった。
かちゃりと、食堂の扉が開いた。
ガルファンが顔を上げると、そこにはいつもの深緑色のチュニックを身に纏い、腰に鈍色の長剣を佩いた翔馬と、凛とした佇まいのレオナが立っていた。
ガルファンが少しだけ目を見開いくが、すぐにいつもの顔へ戻した。
「……おう」
いつもと変わらない声に安堵した翔馬は、ガルファンに向かって、深く、心からの感謝を込めて頭を下げた。
「おはようございます、ガルファンさん」
「ガルファン様、おはようございます」
翔馬とレオナの二人は、自分の席へと腰を下ろすと、運ばれてきた黒パンを手に取った。
ちぎって口へ運ぶ。黒麦の香ばしく力強い風味が、鼻腔へと抜けていく。
熱々のスープを一口すする。干し魚から溶け出した濃厚な出汁と、しっかりとした塩気が、五臓六腑へとじんわり染み渡った。
「……美味しいですね」
噛みしめるように呟いた翔馬を見て、ガルファンが呆れたようにハッと息を吐いて、肩を竦めた。
「神殿の連中が満足する飯だぞ? 当然だ」
その憎まれ口に、レオナがふふっと可憐に笑う。
食事がこれほど温かく、多様な味の重なりに満ちていたものだったのかと、翔馬は失っていた生きることの実感を噛み締めていた。
スープを飲み干し、柑橘の茶で喉を潤した翔馬は、居住まいを正して再び頭を下げた。
「ガルファンさん、レオナ。……本当に、ありがとうございました」
真剣な眼差しでぺこりと一礼。レオナは微笑みを返し、ガルファンは気恥ずかしそうに鼻を擦って、ニッと白い歯を見せた。
「ハッ、礼なら全部やり遂げてからにしな! ――さあ、行くぞ!」
三人は席を立った。
冬の朝日が、食堂の窓から差し込んでいた。




