第30話 何かしなければ、壊れるものもある
六日目。
朝の食堂。
今日も、三人分の食事が並んでいる。
今日も、正面の食席が空いている。
ガルファンは、今日も素早く食事を済ませ、その空席を見つめる。
茶を啜ると、静かに席を立った。
◇
翔馬の耳に、扉の向こうから、誰かの話し声が響いてきていた。
いつもと違うのは、それが口論だったことだ。
話し声が大きくなると、やがて――。
バンッ!!
客間の扉が、鉄槌を叩きつけたかのような轟音を立てて開くと、ガルファンが勢いよく入ってくる。
後ろでは、レオナがその侵入を阻もうと、その腕を必死に引っ張っている。
「おやめください! ガルファン様!」
「ガルファンさん……?」
翔馬が掠れた声で顔を上げると、ガルファンはレオナを引きずりながら、大股で部屋の中に踏み込んでくる。
ベッドの前まで来て、無表情のまま一言。
「おう、エスティ。しばらく見ねえうちに痩せたんじゃねえか? ……まぁいい、立て」
そう言うやいなや、ガルファンは翔馬の首根っこを掴み、ベッドから引きずり下ろした。
翔馬は立てずにその場で転ぶ。足が覚束ない様子で、へたり込んでいた。
「ガルファン様! いい加減にしてください!」
「……自分の足で立てねえのか? ほら、行くぞ」
ガルファンの声は落ち着き払っている。
レオナの制止も意に介さず、その瞳は翔馬だけを映していた。
「え……行くって……。どこへ……?」
「修練場だよ。小賢しいこと考えてる暇があったら、身体を動かせ」
「……僕はもう……いいんです。放っておいてください」
翔馬はベッドの脇に座り込んだまま、動こうとしない。
ガルファンの顔も、目も見ようとしない。
目を背け続ける翔馬の姿が、ガルファンの逆鱗に触れた。
「あぁ!? さっきから見てりゃ、見苦しいったらありゃしねえ!!」
ガルファンは翔馬の襟首をがっしりと掴み、無理矢理に引き起こした。
あまりの勢いに翔馬の頭が揺さぶられ、視界が歪んだ。
「何をするつもりなんですか!? 今のエスティがどれだけ傷ついているか、分からないのですか!? 仲間なら、これ以上エスティを傷つけないでください!!」
翔馬を庇おうとレオナは声の限りに叫ぶ。
しかし、ガルファンは、腕にしがみつくレオナを冷徹な眼光で見下ろすと、その腕を力任せに振り払った。
「……いい加減にすんのは姫さんだ!! いいから黙ってろ!」
明らかな怒りの目と、地を揺るがすようなガルファンの大喝一声。
狭い客間に反響した声にレオナが息を呑み、衝撃で言葉を失ってたたらを踏む。
「エスティに必要なのはな! 今のあんたじゃねえ! おら、立ちやがれエスティ!! 身体を動かさねえ奴に、明日なんか来ねえぞ!」
再び襟首を掴むと、ガルファンは容赦なく翔馬を引きずり、廊下の暗がりへと踏み出していく。
レオナの顔から、血の気が引いた。
次の瞬間、彼女の胸の奥から湧き上がったのは、抑えきれない恐怖だった。
「やめてください……。……お願い! やめて! ガルファン様! エスティ!!」
取り乱し、涙を浮かべるレオナ。
それらを意に介さず、ガルファンは、抵抗しない翔馬を引きずっていった。
◇
炎神の神殿に配された室内修練場は、重厚な紫黒石を切り出したブロックで隙間なく囲まれている。
その威圧感と対象的な、天井の明り取りから差し込む陽の光と壁の松明が、二つの影を落としていた。
ドサリと音を立てて、翔馬は修練場の冷たい石床の上に膝をついた。
客間からここまで、どのような経路で引きずられてきたのかは分からない。
ただ、目の前のガルファンの威圧感だけは分かる。
「エスティ。剣を取って構えろ」
木剣を持つガルファンの静かな声が、修練場の壁に反響して聞こえる。
ガランという音と共に、足元へ、ガルファンが投げてよこした稽古用の木剣が一本、転がった。
「頭ん中で泥団子をこね回すな」
「……あ」
翔馬は、焦点の合わない目で、床に転がる木剣を見つめた。
だが、今の翔馬の身体は、鉛を流し込まれたかのように重く、指先ひとつ動かない。
「……構えねえのか? じゃあ、こっちから行くぞ」
言うと同時に、ドッと地を蹴る鋭い足音が響く。
とっさに、ガルファンが踏み込んでくる気配を感じて、木剣を手に取ろうとするが、掴み取れなかった。
バシィッ!
「ぐっ……」
容赦なく振り下ろされた木剣が、翔馬の肩口を強く打ち据えた。
鈍い衝撃に骨が揺れ、翔馬の身体は石床の上を転がった。
「どうした、エスティ!」
ガルファンは容赦なく追撃の足を踏み鳴らす。
「手足の動かし方まで忘れたか!? 剣の重さも、衝撃も、目の前の俺の動きも、何も見えちゃいねえじゃねえか!」
パァンッ! バシィンッ!
太もも、腕、背中、肩。
ガルファンの手加減された、だが正確な打撃が、翔馬の全身を打つ。
「くっ……あ……っ!」
石床の上を何度も転がり、頬にその冷たさを覚えた。
打たれたところがじんわりと痛み、苦痛に顔を歪める。
「まぁだ身体が反応しねえか? お前ならできるだろうが」
「で……できる……?」
「そうだ。この程度、お前なら対応できる。……いくぞ」
(……動かないと……。でも……)
思考が身体の動きを邪魔する。
ガルファンが再び剣を構え、姿勢を低くする。
飛び出しの姿勢に入った――その時だった。
「やめてください! ガルファン様!」
修練場の重厚な鉄扉を押し開き、激しく息を切らせて駆け込んできたのは、レオナだった。
乱れる呼吸のまま胸元を押さえ、瞳に涙を溜めている。
視界に、床に伏している翔馬の姿を見るや、悲鳴のような声をあげて二人の間へ割り込んだ。
「なぜ!? どうして!? これ以上、エスティを傷つけないでください!!」
レオナは翔馬の傷ついた身体を庇い、身を挺して強く両腕を広げる。
少女の、喉を引き裂くような悲鳴が、冷たい石の壁に跳ね返って鋭く響いた。
いつもの静かな彼女の瑠璃色の瞳が、今はただ、拒絶するようにガルファンを射抜いている。
だが。
「そこを退け、姫さん。俺はやめるつもりはねえ」
ガルファンは、木剣を肩に担いだまま、両腕を広げて塞ぐレオナへ、獲物を狩る肉食動物のような眼光を向ける。
ぞくりとレオナの背筋に寒気が走った。
(……このままでは、エスティの身体も、心も、壊れてしまう)
レオナは、ガルファンの睨みつける視線から目を離さず、一歩前へ出た。
広げた両手に力が籠められる。
指のリングに刻まれた水の印が淡く光り、周囲の空間を涼やかな蒼色に染め上げる。
「……これ以上、見過ごすわけにいきません。ガルファン様、お赦しを」
両の手を前に突き出して。
ドンッ!!
その手のひらから、四つの水球が勢いよく飛び出した。
水の精霊にマナを捧げた対価。純粋な“力”としてこの世界に現れた魔法が、ガルファンに向けて超高速で飛んでいく。
「……チッ! 馬鹿なことしやがる!!」
ガルファンは冷静にその軌道を予測し、動き出した。
一発目は、身体を左にひねって難なく躱す。
直後の二発目。木剣を超高速で振り切り、手首を返してその軌道を明後日の方向へと逸らす。
さらに迫る三発目に向けて飛び出したかと思いきや、そのまま木剣を勢いよく投じる。
木剣は、水球の直撃を受けて粉々に砕け散りながら、威力を減衰させた。
それを軽々と躱し、最後の四発目は――。
「おぉぉらあぁぁぁぁ!!」
ガルファンが右手に力を籠めると同時に、革の手甲に刻まれた炎の印が、赤々と輝いた。
間髪入れず、拳を水球に向けて突き出す。拳の周りにかすかな炎と火花が散り、そして――。
どっぱあああん!
周囲に衝撃が走ると同時に、水球はガルファンの炎を纏った拳によって破裂し、辺りに白い霧となって立ち籠める。
深く、深く息を吐くガルファン。
その圧倒的な身のこなしと武威に、レオナは目を丸くして立ち竦むほかなかった。
(え……? ……どうして……?)
レオナには、あまりのことに思考が停止した。
四発の水球を、確実にガルファンへ直撃する進路に放ったはずが、すべて見切り、木剣と拳で完璧に無力化された。
しかも、瞬時に。
ガルファンは、靄の向こうで構えをゆっくりと解き、拳を振るって水滴を払う。
レオナは、震える身体を何とか制しながら数歩後ろへ下がり、ちらりと翔馬を見る。
(エスティを守らなければ。……氷矢の雨……でも、真っ向勝負は不利。足を凍らせて動きを止めて、霧の魔法に紛れてエスティを……。でも、どこへ逃げたら……)
そのレオナの少しの逡巡を、ガルファンは見逃さなかった。
「いい加減にしろってんだ! 姫さん!! コイツを殺す気か!?」
手加減の一切ない、地を揺るがすような一喝。ドオン、と壁に反響したガルファンの怒声が、修練場の空気をびりびりと震わせた。
レオナはあまりの剣幕に凍りつき、ぺたんと座り込んだ。
「が、ガルファン様……? 何を……何を仰っているのか……」
「あんた、全然気づいてねえだろ?」
ガルファンは、床に伏せたままの翔馬を指さす。
濃紅の瞳には、普段の軽口や粗雑な態度は微塵も見られない。
「……傷ついているから可哀想? ……落ち込んでいるから優しく? ……ふっっざけんじゃねえ!! 今コイツに必要なのはな、ヌルい逃げ道じゃねえだろが!!」
「ガルファン様……っ! 私はただ、エスティを――」
真っすぐな言葉に気圧されるが、すぐに気を取り直して反論しようとする。
「黙れ!!」
ガルファンは反論の隙を与えず、一歩二歩詰め寄る。
そして、へたり込んでいるレオナの前でしゃがみ込むと、瑠璃色の瞳を見据えた。
「……姫さんよ、エスティはガキじゃねえぞ! あんたは全然コイツの姿を見てねえ! すべきことすら見えてねえ! バカなことしてんじゃねえよ!!」
ガルファンの叫びが修練場にこだますると同時、レオナの全身から、すうっと血の気が引いていく。
手足の先が冷たく痺れ、膝が震えた。
(エスティの姿を……見ていない? 私が……? 私は……何をしていたの……?)
レオナの脳裏に、これまでの自分の行動が走馬灯のように駆け巡る。
食事や、身の回りの世話をした。
お茶を淹れ、必要そうなものを整えた。
嫌そうなものを、見えないようにした。
聞きたくなさそうな音を、聞こえないようにした。
手に取らなくなった物を、片付けた。
傷ついた翔馬を受け入れ、震えを受け止め、肩を抱いた。
(あ……。私は……エスティを……)
気づかないうち、瑠璃色の瞳から涙が溢れていた。
唇を震わせ、声もなく泣いた。
ガルファンはゆっくりと立ち上がると、冷たい石床に突っ伏して震えている翔馬の前に歩み寄った。
靴底が床をコツンと叩く音に、翔馬がビクッと跳ねる。
「姫さん、泣いちまったぜ。てめえのせいだぞ?」
苦笑しながら、翔馬の前であぐらをかいて座った。
「なぁ、エスティ。俺はよ、クロイツを出た時から嫌な予感がしてたんだぜ」
「……え……?」
「お前、自分が連中を救った、感謝されたって、本気で信じてやがるよな?」
翔馬は、いきなり道中の話をされたことに戸惑い、ヒリついた喉のまま、掠れた声を出した。
含みある言い方に、じっとりと背中に冷や汗をかいている。
あの時の記憶が思い出された。
「連中、ペッコペコ頭を下げてよ。切り詰めろっつってんのに、お前にパンを渡してきたよな?」
手足が冷たく感じていた。翔馬は、それが床のせいなのか、責められているからかは分からない。
ただ、ガルファンの言葉が耳に入るたび、室温が下がっていることを感じていた。
「連中は、お前のやり方に納得してねえ! 後ろに見える領主サマが怖かった! お前はそれに気づかなかった! そんだけだ! いい加減気づきやがれ!!」
「が、ガルファンさん……っ……!」
「テノラーダ《ここ》でも押し付けただろが! クロイツとはちげえんだ! てめえで撒いたタネだろ! 女にヨシヨシされて満足なのか!? ああ!?」
ガルファンの叫びが、容赦なく翔馬の鼓膜を、脳を揺らした。
靄のかかった頭の中で、クロイツでの記憶が蘇る。
完璧だったはずの自分の計画。
領主の客人として、胸を張って受け取ったパン。
クロイツの広場に漂っていた、どこか引っかかりのある空気感。
(……あ……。そうか……。あの時……)
翔馬は、あの大人たちの、しぶしぶとした重苦しさの意味を掴みかけていた。
ゆっくりと顔を上げ、ガルファンを見上げる。
濃紅の瞳が、怒りを湛えてこちらを見下ろしている。視線が合う。
ガルファンはため息をひとつ吐いてから、すぅと息を吸い込んだ。
「ふっざけんな! お前、そんな男じゃねえだろ! お前の前向きさが、俺をここまで連れてきたんだぞ!」
ガルファンが肩で息をする。静まり返る修練場で、誰も声を発しなかった。
その石床の上、突如として――小さな、抑えきれない嗚咽が漏れ出た。
「ひぐっ……う……あぁぁぁ……っ! うわあああああ!!」
「え……エスティ……? ……う……。……うあぁぁぁぁ……!」
木剣を硬く握りしめたまま、石床に伏していた翔馬が、ボロボロと大粒の涙をこぼし始めた。
それに触発されるかのように、声も上げず、涙を流していたレオナが、突如嗚咽を漏らした。




