第29話 何もしなければ、壊れることはない
朝の食堂は静まり返っていた。
翔馬は、重い足を引きずりながら、自分の席へと腰を下ろす。
向かいに座るガルファンは、すでに自分の朝食を済ませていた。
「……おう、エスティ。気分はどうだ?」
「あ……。はい……なんとか……」
翔馬の喉から、かすれた声がこぼれ落ちる。
いつもなら「おはようございます」と丁寧な声が返ってくるはず。それがない。
その隣に座るレオナは、翔馬の背中にそっと手を添え、無言でガルファンへ視線を向けて会釈すると、すぐに憂いた表情の少年へ向き直る。
ガルファンは、わずかに眉をひそめたが、すぐにいつもの表情へ戻し、茶をひと口すすった。
(……ま、仕方ねえわな。あんだけボロクソ言われたんだ)
侯爵の屋敷で起きたあの光景を思い出しながら、ガルファンは正面の二人を交互に見やる。
(ま、飯を食う気があるなら大丈夫だろ。……姫さんがのおかげか。俺にゃ真似できねえな)
――カルロの部屋から出てすぐ、翔馬はその場で膝から崩れ落ちた。
俯いたまま動けなくなった翔馬にガルファンが肩を貸し、ようやく神殿へ連れ戻ったのは、朝の出発から二刻も経たない頃だった。
道中、翔馬は覚束ない足取りで、うわ言のように何かをブツブツと呟いていたが、ガルファンにはそれが何か聞き取れなかった。
神殿へ戻ってからはそのまま部屋へ引きこもり、昨夕の食席に現れなかった翔馬。心配したレオナが、部屋まで食事を運んでいたことを思い出す。
「エスティ。俺は今日、ダチんとこへ挨拶に行ってくる。夕方には戻るから、修練はその後で頼む」
「……はい」
翔馬は、ガルファンの目も、姿も見なかった。
「……じゃ、行ってくる。また後でな」
茶を飲み干したガルファンが翔馬の横を過ぎようとした瞬間、その視界の中で、翔馬の身体がビクッと微かに跳ねる。
横目でそれを確かめたガルファンは、その肩に手をぽんと乗せてただ一言告げた。
「……ま、元気だせ。これで終わりじゃねえんだからな」
返事はなかったが、ガルファンは待たずに食堂を後にした。
残された静寂の中、レオナが翔馬の顔を覗き込む。
「エスティ、少しでも召し上がってください」
視線を落とし続ける翔馬の横、レオナは黒パンを手に取ると、食べやすいようにと、それをひと口サイズにちぎって渡す。
「……ほら、ね?」
翔馬は言われるがまま、パンとスープを口へ運んだ。
温かいはずのスープなのに、味がしない。
小さくちぎられたパンの、もそもそとした乾いた食感だけが舌に残る。
香ばしい風味は感じない。
ただ、喉を通して胃に落とすだけ。
ただ、口に運ぶだけ。咀嚼し、嚥下するだけの作業だった。
揺れるスープの油膜に、自分の顔が映り、耳の置くであの声が蘇る。
――あなたは《《見ていない》》し、《《聞いてもいない》》んですから。
「あ……ぁぁ……」
かちゃんと、甲高い音が静寂に響く。
指先から力が抜けて、スプーンが皿の縁に落ちていた。
翔馬は、その震えを隠すように、そっと手を自分の膝へ引っ込めると、隣のレオナは何も言わず、翔馬の冷えた手に自分の両手を重ねた。
食事も早々に、翔馬は這い出すように、神殿の外へと足を踏み出す。
――街を見なければ。人を知ろうとしなければ。
見上げた先には、テノラーダの抜けるような冬の青空が広がっていたが、踏み出す両の足はなぜだか重い。
露店街に差し掛かった途端、黒い街並みが迫ってくるような錯覚を覚える。
荷馬車の軋みや商人たちの笑い声、小銭を数える音。それらが、まるで濁流のような轟音として鼓膜を叩いた。
――現場の人間の生き血を吸ってようやく成り立つ、血も涙もない机上の空論なんですよ。
頭元締めの声が、街の雑音に混じって聞こえる。
胸が苦しくなり、喉が、肺が、急激に狭まる感覚に襲われる。
――その責任、負えますか?
酸素を求めて、浅く速い呼吸を繰り返す。
翔馬はそれ以上一歩を踏み出せなかった。ただ、逃げるように踵を返した。
背中から、そっと柔らかく温かい綿のような気配が寄り添う。
「……エスティ。今日は、もうお部屋で休みましょう?」
振り返った先、差し伸べられたレオナの白い手と、優しい笑顔。
その温かい綿の気配に、翔馬は安堵を覚えた。
夕刻。
日課である修練の時間、昨日は動けずに休んでしまった。
ガルファンは『分かった』とだけ言い、それ以上翔馬に理由を問い詰めたりはしなかった。それが、ありがたくもあり、同時に辛くもあった。
(今日は……行かなきゃ……)
レオナは『休んでいていい』という。
だが、ガルファンは待っている。
部屋を出る足取りは、神殿を出るときよりも重く、まるで鉛のようだった。
やっとの思いで修練場に着いた頃には、背中に服が張り付いていた。
手に持つ木剣すら、リーデルから渡された長剣のように重く感じる。
正面のガルファンが木剣を構え、打ち込んでくる。
いつもより遅く、緩い、手加減された軌道。それなのに足が動かない。
腕を動かそうとして、肩と肘が遅れる。
思考と身体が連動しない。振り下ろしが来る。その時――。
――当たり前だ! 荷物は勝手に歩いてかねえんだよ! 人をおもちゃのコマみてえに見てんじゃねえ!
脳裏に、怒号が轟いた。
翔馬が身を竦めた瞬間、ガルファンの木剣が無防備な右腕へ直撃する。
バシン! ガランッ!
鈍い打撃音。翔馬の手から木剣が落ちた。
(……こいつ、マジでどうしちまったんだ?)
いつもなら難なく受け流せるはずの一撃。
翔馬は、目を瞬かせながら、足元に転がった木剣をただ見ていた。
(……あ、拾わなきゃ……。……でも、どうして拾うんだっけ?)
屈みかけたまま翔馬は動かない。
木剣に伸ばしかけた手が、ぴたりと止まっていた。
今度はガルファンが目を見開き、しばらくそのまま翔馬の姿を凝視した。
お互いに動かない。やがて、ガルファンがため息と共に構えを解いた。
「……エスティ。今日はもういい。部屋に戻って休め」
その言葉を聞いた瞬間、翔馬は安堵を覚えた。
力なくガルファンに一礼をした翔馬は、背中を丸めて修練場を後にした。
(……こりゃ重症だな。どうしたもんかね……)
去っていく少年の背中を見送りながら、ガルファンはやれやれといったように肩を竦めた。
紫黒石の床の上には、拾われなかった木剣が一本、転がったままだった。
◇
翌日。
食堂には、三人分の食事が用意されていたが、翔馬は現れなかった。
レオナは食事を手際よくトレイに乗せると、それを客間へと運んだ。
だが、運ばれたパンとスープは、半分以上が手つかずで残された。
レオナは何も咎めない。静かに皿を片付け、新しい茶を淹れる。
翔馬がふらふらとベッドに倒れ込めば、そっと毛布をかけて首まで引き上げる。
気分転換にと、神殿の書庫から何冊かの本を運び入れては、ホコリひとつないように部屋を掃除した。
机の上には、いつでも書けるようにと、羊皮紙とペンを整然と並べた。
空が朱に染まる頃。
翔馬はベッドから起き上がると、椅子に腰かけ、インクを含ませた羽ペンを握った。だが――余白にペン先を落とそうとした瞬間に、指先が凍りついたように硬直した。
(……僕は、何をしようとしているんだ?)
何も書かれていない紙の上を見つめていると、声が聞こえた。
――馬車が止まっている間、そこにいる商人たちは何をしていましたか?
カタカタと小刻みに震えるペン先から、黒いインクが、ぽたりと紙に滴り落ちた。
白い羊皮紙の上に、黒いインクがじんわりと円を描いて広がっていく。
翔馬はそっとペンを置き、逃げるようにベッドへと戻って、頭から毛布を被った。
指先に付いたインクの汚れは、ただ指同士をこすり合わせて薄め広げた。
その羊皮紙は、レオナがそっと拾い上げ、丁寧に折り畳んで屑籠へと投げ捨てた。
コンコン、とドアが静かにノックされる。
翔馬が声を出せないでいると、ギィとドアが開き、パタンと閉じる。
部屋の静寂に、廊下の声が響く。
ガルファンの声。レオナの声。
翔馬は毛布をぐっと握り締め、その音が遠ざかるのを願って目を閉じた。
長い沈黙の後、重い足音が、諦めたようにゆっくりと遠ざかっていった。
「……エスティ。今日はもう大丈夫です。ゆっくり休んでください」
毛布越しに聞こえるレオナの声に、どこか安堵を覚えた。
◇
三日目。
翔馬は、一度も部屋から出なかった。
「エスティ。せめてお食事だけは召し上がってくださいね」
言われるがまま、パンとスープ、野菜を胃に流し込む。
これが朝食なのか、昼食なのか、よく分からない。
カーテンは閉められていて、昼なのか、夜なのかも分からない。
ただ、何もしなくても腹は減る。その事実だけがハッキリとしていた。
机の羽ペンを取ることはなく、羊皮紙に向き合うこともない。
レオナが書庫から運び入れた書物は一度も開かれることなく、ベッドで伏せっている間に、別の本に差し替わっていた。
(レオナ……こんな僕で、ごめん。ありがとう。ごめんなさい……)
部屋には、レオナが何度も淹れ直す、柑橘の匂いだけが淀んで広がる。
彼女がお茶のカップを机に置く、コトンという音だけが時間を刻んでいた。
レオナが、空になった皿を持って部屋から出た。その直後。
部屋の外から、レオナと誰かが話している声が響いた。
「――姫さん。それじゃ、あいつはただの病人扱いだぞ?」
「エスティは病人同様です。良いと思ったことなのに、深く、残酷に傷つけられました。心に傷を負っています」
「それはそうかもしんねえが……」
「あの人に外の雑音を聞かせてはなりません。そっとしておいてあげてください、ガルファン様」
「――……ああ、そうかい」
バタン、と扉が閉ざされる。
外と部屋のつながりが遮断されたことに、翔馬は心底安堵した。
「エスティ、大丈夫ですからね。私が守りますから」
「……レオナ、ありがとう。ごめん」
部屋は再び、柑橘の濃い香りと、耳が痛くなるほどの優しい静寂に包まれた。
◇
四日目。
翔馬は頭から毛布を被り、世界から目を背けた。
薄暗い毛布の隙間から、ぼんやりと部屋の片隅を見つめる。
脇に立てかけてある一本の剣が見えた。
一瞬だけ目を背け、再びそれを見る。
美しい銀の鍔に、うっすらと白いホコリ。
(あ、拭かなきゃ……)
頭で思っても、指先ひとつ動かない。息が急に浅くなる。
(でも、剣を持ったって……)
何も選ばず、何も決めないことが楽に感じた。
誰も気にしないし、誰も傷つかないし、自分も傷つかないで済む。
この暗闇の中で溶けていればいい。翔馬は、そっと瞼を閉じた。
「エスティ……お茶を置いておきますね」
甘酸っぱい香りが届く。
静かに衣類を畳む、衣擦れの音が聞こえる。
カーテンを整える音。
炉床の灰を払う音。
薪が、パチパチと爆ぜる音。
机の上の羊皮紙を、トントンと揃える音。
ドアの向こうで、レオナと誰かの話し声。
毛布から顔を出したとき、カーテンの隙間から闇が見えた。
パンとスープの香りが届いても、自分で食べる気力が沸かない。
「少しでも食べないと身体に毒ですよ。はい……口を開けて」
その声が、まるで子守唄のように聞こえてくる。
甲斐甲斐しく、レオナがスープを翔馬の口へ運ぶ。
カーテンの外は真っ暗。この部屋の温もりだけあれば、外の世界は二度と見なくていい。翔馬は、もうどうでもよくなっていた。
◇
五日目。
食堂には、今日も三人分の食事が並んでいたが、レオナと翔馬の食席は空いたままだった。
ガルファンは、目の前の誰もいない椅子をじっと見つめた。
スプーンを持つ手が、ギリギリと音を鳴らす。
右手に持った硬い黒パンが、指の力で歪んでいた。
(…………)
食べかけのパンを置くと、ガルファンは乱暴に席を蹴って食堂を後にした。
神殿の中庭。木剣を手に、静かに瞑目する。
高く掲げたそれを、一気に振り下ろす。
――ビュッ! ビュッ!
(……俺が焦ってどうする)
――ビュッ! ブン!
一振り、また一振り。
冬の朝の冷たい空気を、木剣が斬り裂いていた。
中庭を臨む、神殿の客間。
翔馬は、ベッドから降りることすらしなくなっていた。
目を開けることすら億劫で、何も考えないようにしていた。
机の上には、ペンも、羊皮紙も置かれていない。
「エスティ……苦しい時、辛い時は、これでいいんです……。私を頼ってください……立てる時がきたら、その時に立てばいいんです」
翔馬は、ベッドの端に座り込んだレオナの細い身体へ、すがるようにして額を預けていた。レオナは何も言わず、ただ少年の背中をトントンと、一定の優しいリズムで叩き続ける。
その温もりと、優しい香りと、部屋の静寂が翔馬の世界になっていた。
――ビュッ! ビュッ!
完璧に閉ざされた密室の静寂の向こう、階下の中庭から音が響いてきた。
重く、鋭く、空気を引き裂く音。
レオナが窓から外を覗くと、中庭の真ん中で、ガルファンが一人、木剣を振り抜いている。
苛立った表情を浮かべて、何かを振り払うかのように、猛然と。
――ビュッ! ブンッ!
空気の裂ける音が部屋に響くたび、翔馬の肩はビクリと跳ねる。
「大丈夫です。エスティ……」
レオナの腕が、翔馬の体を逃さないように抱きすくめた。
「外には行かなくていいのです。お気持ちが収まるまで、ずっと私と一緒にいましょう」
部屋に漂う香りは、柑橘の匂いではない。
お香の匂いが、部屋に充満していた。
窓の外を見ない。
本も手に取らない。
ペンも紙もいらない。
レオナに寄りかかり、瞼を閉じれば何も見なくていい。
何も考えなくていい。
――ビュッ!
木剣が空気を裂く。
苛立ち、焦り、怒りのような乾いた音が、また遠くで響く。
レオナは震える翔馬を抱き寄せ、ガルファンはひたすらに振り続けた。
もう、誰も同じ方向を見ていなかった。




