第28話 消えゆく光に、伸ばした手
頭の中の計算式。
それは、街をもっと活性化させられるものだと信じていた。
滞りのない矢印。
それが、渋滞に困っている市民のためになると信じていた。
馬の疲労。馬車の点検。人足や荷役の休憩。
沿道で食事を売る者たち、その家族の生活。
“放置され続けた欠陥”には、何百人……いや、ひょっとすると何千人もの営みと、街を守る緩衝材が詰め込まれていた。
翔馬には分からない。
頭の中にある街の活性化や、現状に困る市民が、本当に頭元締めの語る“現実”という世界にいるのかどうか。
であるとしたら、自分は何を見て、何を見ていなかったのか。
ただ、翔馬は項垂れた。
「……もういいか? こんなくだらない話をしている暇はないんだ」
バートンが冷ややかに手帳を閉じた。
「お勉強の成果発表なら、ハルトに戻ってやるんだな!」
翔馬は唇を白くなるほど強く噛み締め、手を震わせて頭を下げ続ける。
そして、ぽつりと。
「……申し訳……ありませんでした……」
ヴィンセントは、翔馬を冷たい目で見ながら、ひょいと円卓の上の羊皮紙を持ち上げる。
「この“面白い”ご提案は、私が預かっておきますよ。閣下にもお見せしないといけませんからね」
そう言うと、三人の元締めは翔馬にもはや一瞥すらせず、会議室を後にした。
完全な一蹴。完全な拒絶だった。
しばらくの沈黙。
ほんの少し前まで伸びていた背筋は丸みを帯び、青ざめ、膝を折る翔馬。
レオナは、その肩を狼狽えながら支え、ガルファンは目をつむりながら、肩を竦めることしかできなかった。
(……ま、いいクスリになるだろ。……しっかり反省しやがれ、エスティ)
◇
せめてこの場を設けてくれた挨拶をと、レオナに促されるがまま。
カルロの執務室へ戻ったのは、翔馬が視界にようやく色を取り戻した頃だった。
重厚な扉を開けると、巨大な黒石の机の前で、苦々しい顔をした男が待っている。その机上には、先ほどヴィンセントが持ち去った、翔馬の手書きの羊皮紙が広げられていた。
「侯爵閣下。このような貴重な機会を設けてくださり、誠にありがとうございます。ラグロニーネの使者を代表し、私、レオナ・グライアス・ハルトニアが篤くお礼申し上げます」
「そうか。……して、満足いく結果は得られたかね、エスティ殿?」
カルロは、少女に支えられながら唇を噛み締め、今にも膝から崩れ落ちそうな少年の姿を、鷹のような眼光で見つめた。
「……えと……。その……」
喉からかすれた声が出るが、その先が続かない。
少し前、臆することなく真っ向から視線をぶつけてきたはずの少年は、今や視線を合わせず、床の紫黒石を見つめていた。
(……ふむ。ヴィンセントの言った通りだな)
鼻っ柱と自尊心を木っ端微塵に粉砕され、激烈に打ちのめされながら、言い訳ひとつ口にしない。
カルロの獰猛な瞳の奥に、微かに興味の火が灯る。
平和なハルト本国。商会の次男坊。王族の治める領地へ出向し学ぶ、いわゆる《《いいトコ》》のお坊ちゃん。
箱入りで育てられ、外を知らない子供が、ほんの小さな成功体験で調子に乗る。
見識を深めようと、自信満々で外の世界へ出てくる。
外を知らない子供が大層な正論を吐いては、叩き上げに痛烈な反撃を受ける。
そんな屈辱を受けたらどうなるか?
想像は容易い。
ちんけな自尊心が折られぬよう、顔を真っ赤にして論点をずらす。
使者という便利な立場を振りかざし、相手を感情的に批判する。
すべての対応を従者に投げ、本人は知らぬ存ぜぬを決め込む。
カルロは、過去の“お坊ちゃんたち”の姿を思い出し、今回もそうなるのであれば、使者でも追い返すつもりだった――が、翔馬は違っていた。
「……どうした? 体調でも崩されたか?」
「シュタイン侯爵閣下。恐れながら、エスティは気分が優れないため、こちらで失礼させていただけると……」
肩を支える少女が、何も言えない少年の代わりに述べる。
カルロの目には、気分が優れないどころではないようにも見えた。
もしかしたら、この少年には伸び代があるかもしれない。
それに、この状態で正当な使者を無下に追い返せば、ラグロ辺境伯との間に無用な角が立ちかねない。
そう考えたカルロは、机上に広げられた羊皮紙をトンと指で叩きながら、低く地響きのような声を放った。
「……粗末な芝居はここまでにしよう。……ああ、ヴィンセントからこれを受け取ったぞ? コテンパンに鼻っ柱を叩き折られたようだな、エスティ殿」
「……僕は……。僕には、見えていませんでした」
翔馬は俯いたまま、ひりついた喉から重厚な部屋に不釣り合いな声を出す。
視界が酷くかすみ、相手の顔を直視することもできない。
「そうだろうな」
カルロは翔馬の話を否定せず、冷静に、かすかな含みを持たせて続ける。
「最初に忠告したはずだ。この街は机上の計算で動くような、生易しい場所ではないと。完璧な計算や絶対の正解などというものは、この街のどこを探しても落ちてはおらん。あるのは、泥に塗れながら、日々を愚直に生きる人間だけだ」
翔馬はその言葉にピクリと反応するが、顔を上げることはできなかった。
カルロは不敵に薄い唇を吊り上げると、そっけなく羊皮紙を畳んで引き出しへしまい込んだ。
「さて、貴殿はここからどうする? このままハルトへ帰るかね?」
不意の問いかけ。
回らない頭で、何か答えなければと頭を回そうとする。
かつての自分は、どうしただろう?
逃げ帰っているだろうか?
今の自分は、どうしたいのだろう?
どうするべきなのだろう?
何も出てこない。頭の中が、進路調査票のように、真っ白になった。
「…………分かりません」
そう絞り出すのがやっと。
「ふむ」
今すぐにでも死んでしまうのではないかという表情を見やる。
カルロは、この少年に、本当に《《伸び代》》があるならば、ひとつくらい肥料を与えても面白いと考え、ヒントを出した。
「実態や背景といった実態を見ず、表面的な情報のみで答えを出し、責任すら負おうとしなかったのが、お前の過ちだ」
反応はない。
「……シュタイン侯爵閣下。恐れながらエスティは……」
「レオナ殿。私は貴殿ではなく、彼と話をしている。控えてもらおう」
瑠璃色の瞳を揺らし、キッと睨むような視線を向けるレオナを意にも介さず、カルロは低い声でそれを制する。レオナは思わず息を呑み、やがてギリリと歯を噛み締めると、視線を外した。
「……いいか。ここは貿易都市などと大層な名で呼ばれてはいるが、市民なくして都市は成立せんのだ。自身の足で稼げ。渦に足を踏み入れろ。熱の中で身を揉まれてみろ。……そこに何があるのか考え、責任を負う気になったら、またここへ来い。私は多忙だが……扉だけは開けておく」
翔馬は相変わらず頭を上げない。
ただ、ピクリと反応をして、握られる拳が、少しだけ力を帯びた。
「もっとも、その気がないなら、早々に帰国することを勧める。……それと、二度目もくだらん論を聞かせるつもりなら、この街から叩き出すがな」
翔馬は、やっとの思いで頭を上げた。
「…………失礼します……」
◇
カルロの屋敷から、どうやって宿へ帰ってきたのか、まったく覚えていなかった。
レオナやガルファンから、道中でどんな言葉をかけられたのかも、全く耳に残っていない。
食事は取っただろうか。それすら、記憶の引き出しが錆びついて開かない。
ただ、レオナの小さな肩に支えられながら部屋に入ったこと。そして、自分が大きな過ちをやってしまったということだけが、脳裏にこびりついている。
翔馬は、自室のベッドへ倒れ込み、そのまま膝を抱えて蹲った。
対話の途中から、誰が何を言っていたのかよく覚えていない。
ただ、ぼやけた視界と、遠のく音。冷たいのか、熱いのか分からない肌の感覚だけは覚えている。
あの円卓を、頭元締めたちの言葉を、思い出そうとすればするほど、胃がねじ切られるような感覚で、喉の奥から酸っぱい塊が這い上がってきた。
ベッドの横に腰かけたレオナが、翔馬に向けてそっと腕を伸ばした。
だが、そのあまりにも小さく震える背中を見て、彼女は伸ばしかけた手を静かに引き、ただ俯いた。
「エスティ……」
震える声で呼びかける。だが、返事はない。
「……エスティ……?」
それでも、もう一度呼びかける。返事はない。
返ってくるのは、浅い呼吸の音だけだった。
翔馬の脳裏に、ラグロニーネの屋敷の、色とりどりの花が咲き乱れる庭が浮かぶ。
あの陽だまりの中で、せめて彼女には誠実でありたいと、心を奮い立たせて打ち明けた、“非”勇者の告白。
――実は、僕は、伝説にあるような“勇者”じゃないんです。
あの日、彼女は涙を零し、目を腫らしていた。
でも、信じてくれた。
(レオナ……。こんな僕で、ごめん……)
リーデル、ギルバート、ガルファン、そしてこれまでに関わった、たくさんの人たちの顔が浮かんでは消えていく。
ラグロニーネで少し上手く行った。
クロイツでも。
剣だって抜いた。大切な人を救った。
だから、どこかで自分は変われた気になっていた。
(あぁ……そうか。僕は、何も変わってなかったんだ……)
自嘲が、翔馬を切り刻む。
そうだ、何一つ自分で決めてこなかったじゃないか。
(どうしてあんなことを言ったんだ……? 僕は何を勘違いしていたんだ……?)
――なぜこんな無駄を放置しているのか。
その自分の声が頭の中で生々しく再生され、再び身体が震えた。
かつて、ラグロニーネで、リーデルに『ガルファンさんのやり方を広めたほうがいい』と伝え、優しく諭された。あの時と、あまりにも似ていた。
(同じ間違い……?)
翔馬は、ベッドの上でさらに身を縮め、激しく震えた。
全身がジリジリと焼け焦げるように熱い。
今すぐ石の床を抉り、その裂け目の中に消えてしまいたかった。
(……僕は、人の期待に応えようとしちゃいけない。……リーデル様の言う通り、何もしなければよかった)
隣にいるレオナにすら、合わせる顔がない。
恥ずかしくて、情けなくて、呼吸すら億劫になる。
レオナは、顔を歪める翔馬を見つめていた。
湯を沸かし、静かに新しい柑橘のお茶を淹れて机へ置く。
「お茶です……。飲めたら、飲んでくださいね……」
だが、翔馬は返事をしない。
その甘酸っぱくも爽やかな香りは、空気を拭い去ることまではできなかった。
(……こんなエスティ、見たことがない)
出会った日の翔馬は、非力さに震えるだけの弱々しい存在だった。
自らの足で立ち上がり、役割を見出し、前を向いて自分に希望をくれた。
その彼が傷つき、打ちのめされている姿を見るのが、堪らなく耐えられない。
「エスティ……寒くはないですか……?」
レオナは、小さく震える少年に、毛布を掛け直したあと、せめて部屋を温めようと暖炉に薪を焚べた。
カルロの屋敷から戻り、部屋の片隅に置かれたままの荷物を解いて片付ける。
ちらりとベッドを見ると、毛布が少しだけ上下していることに安堵し、再び翔馬の傍へ座った。
「……あなたは、あなたなりに進もうとした。だから、これ以上、傷ついてほしくない。……傷が癒えるまで、私が傍にいますから……」
返事はない。
やはり、呼吸の音だけが聞こえる。
それがとたんに怖くなった。
(こんなに脆くて、こんなに繊細な人……)
レオナはそっと、翔馬の震える肩に手を置いた。
驚いたかのように跳ねたその身体に、レオナの瞳からふと涙がこぼれる。
刹那、フッと表情が変わる。
「……エスティ、あなたは悪くありません。あの方たちが、意地悪で乱暴だっただけです。エスティのお話は、この街を良くしようという素晴らしいもの……それをあんな言い方で切り捨てるなんて」
レオナは翔馬の震える肩を撫でる。
震えた声と、想いのこもった口調。
あなたは悪くないという言葉は、翔馬の耳に強い毒となって響いた。
「……そんなわけ、ないんです。レオナ……」
翔馬は、毛布の中から絞り出すように声を出し、首を振った。
「僕はまた……同じ失敗をした。リーデル様に教えてもらったのに、僕は何も分かってなかった。……何もしないほうがいいんだ」
自分が致命的に間違っていたことだけは、嫌というほど分かった。
目の前の事実から目を背けさせようとするレオナの優しい言葉は、翔馬の心をえぐる。深く、深く苛む。
「どうしてそんなことを……! 私は、ずっと近くであなたを見てきました! だから分かります! エスティは誰よりも頑張っていると!」
レオナは思わず翔馬の言葉を遮り、抱きしめんばかりに寄り添う。
翔馬はそれ以上、返事をしない。
ただ蹲り、毛布の中で硬く拳を握り締めて、暗闇の中で全身を震わせ続けることしかできなかった。




