第27話 理想の先に、見えていないもの
屋敷の重々しい扉をくぐり、甲冑に身を包む警備兵たちの厳重な警戒を通り抜けて案内されたのは、執務室というよりも、軍の作戦会議室を思わせる広間だった。
その最奥、巨大な黒石の執務机に座っていた男が、ゆっくりと顔を上げる。
ケーニヒシア王国テノラディア侯爵領の主――カルロ・フォン・シュタイン侯爵。
白髪が混じる赤茶色の短髪に、鷹のように鋭い眼光。
無駄のない引き締まった身体には、豪奢な貴族服ではなく、実用的な革の胴甲が着けられていた。
軍事と経済の調和を重んずるケーニヒシアの門にして、他国との窓口となる都を切り回す、根っからの現場主義者の佇まいに、翔馬は息を呑む。
「……神官長オルバからの紹介状、そして、ハルト王国ラグロ辺境伯閣下からの親書、確かに拝見した」
カルロは、低く地響きのような声を響かせる。
その視線は、レオナへ。そして、その隣に立つ黒髪の少年へと注がれた。
「……エスティ殿と言ったな。ラグロ辺境伯閣下の親書には、君の持つ算術と物流への見識について、並々ならぬ評価が記されていた。故に、将来を見据え、このテノラーダを“学ばせたい”とな」
「はい、その通りです。シュタイン侯爵閣下」
まっすぐに視線を受け止めるカルロは、薄い唇を歪めた。
「……言っておくが、ここはラグロニーネのような穏やかな街ではないぞ? 外輪山から見えたであろうが、この都市には、欲望にまみれた何百という商人と、毎日何千何万もの物資が雪崩れ込んでくる《《戦場》》だ。机上の計算だけで動くような、そんな生易しい場所ではない」
威圧感あふれる言葉。
試されている、と翔馬は直感したが、そんなこと端から分かっていた。
いくら公務を帯びた使者とはいえ、海千山千のカルロからすれば、自分は赤子のようなもの。であるならば――。
「はい。生易しくないからこそ、です」
喉の奥が張り詰めるような圧力を前に、翔馬はそっと、腰に佩いた長剣へ左手を添えた。黒革の鞘から冷たさが伝わってくる。
――山魔狼を薙いだときの、あの手首に走る衝撃。
――ガルファンの手を必死で往なそうと、全身の筋肉を震わせたあの修練の感覚。
それらの記憶が、もう一本の背骨のように翔馬の背筋を支える。顎を引き、カルロの鷹のような鋭い眼光を受け止め、一歩も退くことなく真っ向から見据え返した。
「ラグロニーネで僕が学んできたことは、このテノラーダでも活かせるはず。ただ、これほど大きな街が、どうやってその莫大な質量を動かしているのか。……その仕組みを、僕の目と頭で確かめたいんです」
静かだが、引かない言葉。
カルロは数秒間、翔馬の目をじっと見つめ返していたが、やがて『ほう……』と低く喉を鳴らした。
「……いいだろう。いい度胸だ」
ニヤリと不敵に笑い、机の上のベルを鳴らした。
扉が開き、側近と思しき従者が姿を現す。
「辺境伯閣下と、君の熱意に免じて許可しよう。……定例の報告会が先程終わったところだ。三人には、ハルトからの客人が来ると言って、待たせてあるのだよ。……この方たちを会議室へ案内しろ」
「御意に」
側近の役人は深々と頭を下げると、翔馬たちへ向かって恭しく手を示した。
「この街の“血潮”について、私から教えることは何もない。貴殿が向き合うべきは、《《現場》》であり、それを仕切る三人の頭元締めたちだからな。……健闘を祈る」
「皆様、どうぞこちらへ」
従者に案内されて足を踏み入れた回廊は、やはり要塞のごとき圧迫感と、静寂に包まれている。
足元の紫黒石に、自分たちの靴音が硬く響いた。
(いよいよ……この街を実際に動かしている人たちと会うんだ。何とか……!)
翔馬は胸の奥でひとつ静かに深呼吸をし、自らの背筋を伸ばした。
ガルファンは口元を緩めたままだが、その手はいつでも動けるよう拳を軽く握られており、レオナもまた緊張に身を硬くしている。
黒の回廊の突き当たり。
今まさに獲物を狩るかのような。獰猛な猛禽類の装飾が施された両開きの扉の前で従者が足を止め、静かにノック。その後、扉を押し開いた。
――中央に円卓が配された会議室の中には、すでに三人の男たちが座っている。
テノラーダの“現場の頂点”たちだった。
一人は、仕立ての良い紫のシルク服を纏い、細い指先で金貨を弄んでいる男。
その双眸から、計算高さが滲み出ているかのよう。
商業の頭元締め、ヴィンセント。
一人は、胸板の分厚い皮鎧を着込み、髭面に深い傷痕を残した巨漢。
頑固で職人肌の雰囲気を漂わせる。
倉庫組合の頭元締め、ボリス。
一人は、ところどころ薄汚れた作業着のような衣装をまとった男。
羊皮紙の手帳を片手に、神経質そうに指を鳴らしている。
物流の頭元締め、バートン。
三人が一様に深緑のチュニックを身にまとった少年へ視線を向けた。
「……閣下がハルトからの客人に会わせたいと仰るから、何事かと思えば」
ヴィンセントが金貨をポケットに突っ込み、目を細める。
「……なるほど。神殿の顔立てで、ハルトから来たお坊ちゃんとお嬢ちゃんの“社会見学”のお相手をしろということですか? 商売人は時間こそ金なんですがねぇ」
ボリスが太い腕を組み、鼻で笑う。
「フン、使者殿に現場を荒らされちゃ溜まらねえんだがな」
バートンがカリカリと手帳にペンを走らせながら、苛立った声をあげた。
「俺は今すぐ南西門の馬車手配に戻りたいんだ。話なら手短に頼む」
三人の態度は、ハルトの辺境伯からの使者という立場には目もくれず、懐疑的で『ハッキリ言って迷惑だ』とでも言いたげにあからさまだった。
翔馬の隣のガルファンは、やれやれとばかりに肩をすくめ、レオナも、三人が放つ独特の圧迫感に少し表情を硬くしていた。
だが――翔馬は違っていた。
テノラーダ到着からの数日間、ガルファンや、ときにレオナも同行した上で街を歩き回り、観察し、頭の中で組み立てた“テノラーダの構造図”がある。
ここまでに培った経験と成功、そして胸の中に抱いている、完璧な効率化への自負が、背中を強く押す。
翔馬は一歩前へ出ると、円卓の前に進み出た。
「頭元締めの皆さん、初めまして。ハルト王国ラグロ領から参りました、エスティと申します」
翔馬は丁寧に着席の礼をとると、三人の元締めたちの顔を順番に見つめた。
「皆さんがお忙しいのは重々承知しています。僕はこれから、この街で学ばせていただきたいと思っていて、皆さんにどうしてもご挨拶をと願い出たのです」
まっすぐに視線をぶつけ、たどたどしくもハッキリと自分の言葉を述べる翔馬に、ヴィンセントがその目を少しだけ興味のある色に変えた。
「ふぅん? ……ま、少しくらいならいいでしょう。バートンも、それでいいですね?」
「チッ……」
明らかに不満そうなバートンであったが、ヴィンセントは気にせず、視線を再度翔馬に向けた。
商人としてか、現場叩き上げとしてか、品定めのような視線が射抜く。
翔馬は、背中にじっとりと汗を感じながら、このタイミングだと考える。
数日、この貿易都市を歩いて見つけた“疑問”をぶつけるのなら、今しかない。
「で、何を“学びたい”のでしょう?」
「ありがとうございます。……お言葉に甘えてひとつ、皆さんにお聞きしたいことがあるんです」
「あぁ? 聞きたいことだぁ?」
倉庫のボリスが、鬱陶しそうに眉をひそめる。
翔馬は革鞄から一枚の羊皮紙を取り出すと、円卓の中央へと滑らせた。
そこには、この数日をかけて描き起こしたテノラーダの図。細かくびっしりと線が踊り、そこに新しく引き直された赤い線があった。
「商業区の第二検認所から、第四倉庫へ向かう街道……このあたりです」
翔馬は図の一点を指差し、はっきりとした口調で言い放った。
「毎日、午後の二の刻から五の刻にかけて、数十台の荷馬車が足止めされていて、三刻以上の渋滞が置きています。倉庫での荷下ろし申告の受付時間と、流通区画からの積替馬車の出発時刻がズレていることが原因ではないか、と読みました」
ガルファンに連れられて歩いた、テノラーダの流通を支える施設で見た“停滞”。だが、それは一箇所ではなかった。
複数の検認所と倉庫で、時間帯は異なるが、どこかしらで起きていた。
「……なぜ、このような《《単純で無駄》》な滞留を、現場のトップである皆さんは放置されているのですか?」
そして、静寂が会議室を支配する。
(おいおいおい……! エスティよぉ……!)
背後のガルファンが息を呑み、額に冷や汗をにじませる。
しかし、翔馬の瞳には、一点の曇りもなく、まっすぐに光だけを映していた。
ただ純粋に、自らが導き出した答えで、正しい方向へと導きたい。クロイツのように、彼らを救ってあげるのだという、疑いようのない親切心だけだった。
手元で広げられた羊皮紙の上には、“滞留”という不快な濁りを一瞬で消し去るための、白銀に輝く完璧な線が、さも当然かのように美しく引かれている
「ここを解消できれば、この街はきっと今よりも良くなります」
――こんなに簡単なことなのに、なぜ、このプロの人たちは気づかなかったんだろう。
翔馬は、まるで解けない算数に悩む子どもへ、大人が優しく答えを差し出すかのような、無邪気で、それゆえに底知れない傲慢さを宿した微笑みを三人に向けた。
だが、翔馬のその言葉が部屋に消えた瞬間、三人の頭元締めたちの纏う空気が凍りついた。
(エスティ……! ここはクロイツとはちげえんだぞ……!?)
ガルファンですら緊張を隠せないでいる。額には冷や汗が滲む。
金貨を弄ぶヴィンセントの手が止まる。
ボリスの獰猛な眼光が翔馬を射抜く。
手帳を叩いていたバートンが、ゆっくりと机へペンを置く。
ハルトのお坊ちゃんの社会見学だと高をくくっていた現場のプロたち。
翔馬が欠陥と断定し、それを救うと言わんばかりに叫んだそれは、現場を知る三人にはケンカを売るには十分だった。
部屋の中に、張り詰めたような重苦しい沈黙が落ちる。
紫黒石の壁で囲まれた会議室の空気をぐらぐらと歪ませた。
円卓の前に立つ翔馬の指先は、自ら提示した物流ルート図の上でピタリと止まったままである。
しばらくして、バートンがゆっくりと身を乗り出し、冷ややかな、だが底知れぬ圧力をはらんだ声で呟いた。
「……おい、ハルトのお坊ちゃん。今……何と言った?」
その鋭い眼光は、まるで獲物を今まさに狩らんとする肉食獣のようだった。
「……単純で無駄? 今より良くなる……だと?」
商業の頭元締め・ヴィンセントが、ポケットの金貨をチャリンと鳴らしながら、侮蔑混じりに笑った。
「アハハハハ! ボリス、聞きましたか!? 我々は現場で何十年と飯を喰ってきたつもりなんですが、ハルトから来た使者殿に言わせれば、どうやら全員タダの抜け作だったらしいですよ!」
「ハッ、笑わせるぜ!」
巨漢のボリスが太い腕を組み、椅子をギシと鳴らして背もたれを叩いた。
髭面に刻まれた深い傷痕が僅かに歪む。
「え……? そんなこと……」
空気が一変し、レオナは一歩翔馬の前へ出ようとしたが、翔馬はそれに気づかない。
刹那、バートンは机の上の羊皮紙に、骨ばった指をずいと突き立てた。
「お坊ちゃん。あんたの言った《《無駄》》な。……その通りだ。毎日起きてる……そう、毎日な。だが、あんたはそこで、何が起きているかすべて見てきた上で、無駄なんて言ってんだな?」
「何が……って……荷馬車が止まって、移動が停滞しているからこそ……」
「停滞だと?」
翔馬の言葉を遮り、バートンが鼻を鳴らす。
口は笑っているが、目は明らかに笑いがない。
「あのなぁ……隊商はな、何日も何十日も旅してここへ来んだよ。蹄鉄は削れ、車軸の油は切れ、御者も人足も疲労困憊だろう。あんたの言う通り、搬入ルートを広げて、受付の時間も伸ばしてギッチギチに詰め込んでみろ。……御者はろくすっぽ休憩も、馬車の点検もできず、疲れ切った馬を叩いて次の区画へ突っ込むことになる」
一気に言い切ると、バートンは机へ手帳を叩きつけた。
翔馬の心臓がびくりと跳ね、全身がしびれたように感じる。
しかし、視線は更に厳しく、口調も強くなっていく。
「結果どうなると思う? 車軸が折れて馬車が横転する、馬が過労で倒れる、御者が居眠りで通行人を撥ね飛ばす! こんな事故が一度でも起きりゃ、道は封鎖するしかない! あんたの言う話は、これを現実にする可能性を高める『爆薬を抱えた硝子細工』だ! あの《《滞留》》はな、ただの怠慢じゃない! 疲れた馬と人間を強制的に休ませ、馬車を点検させるための、絶対に必要な余裕だ!」
「あ……。え……」
翔馬の喉から、掠れた息が漏れた。
確信に満ちて羊皮紙を指していた指先が強張り、熱を失う。
そこへ、間髪入れず倉庫のボリスが丸太のような拳を円卓に叩きつけた。
ドン!
分厚い円卓が揺れ、衝撃音が室内に轟く。
「次は倉庫の申告受付の話だ! お坊ちゃん!」
ボリスの怒号が、雷のように鼓膜を殴りつける。
「申告時間を伸ばせばいい、だぁ? 倉庫で荷を運んでる荷役が、この街の中で何百人いると思ってんだ! あいつらだって人間だ! 飯を食い、水を飲み、息を整える時間が要るんだよ! てめえのいう通りにしてみろ! 次の日には若い奴らが全員道具を放り出して他所の街へ逃げ出すか、暴動を起こすぞ!」
「荷役の……休憩……」
「当たり前だ! 荷物は勝手に歩いてかねえんだよ! 人をおもちゃのコマみてえに見てんじゃねえ!」
鼓膜を叩く怒声に気圧された翔馬の膝が、小さく震えて後ずさりかけた。
背後でレオナが『エスティ……!』と息を呑み、胸元のブローチを痛々しいほど強く握りしめる。
だが、壁際に立つガルファンは苦い顔で腕を組み、ただ静かに目を伏せることしかできない。現場の苦労を知るガルファンには、怒りの理由が痛いほど分かる。だからこそ、遮る言葉が何一つ出せない。
「……さらに言えばね、お坊ちゃん。あいにく商人から見ても、あなたの“疑問”など考える間もないのですよ」
最後にヴィンセントが口を開いた。
細い目をさらに細め、冷ややかに、優雅に、だが極めて毒々しく微笑む。
「……馬車が止まっている間、そこにいる商人たちは何をしていましたか? そして、どんな話をしていましたか?」
「え……何って……」
声が出ない。分からない。
「分からないでしょう? あなたは《《見ていない》》し、《《聞いてもいない》》んですから」
喉の奥からひゅっと声が出る。
ヴィンセントの双眸が翔馬を射抜き、それが酷く冷たく感じる。
「……街道沿いの露店で温かいスープを買い、酒を酌み交わし、互いの無事を祝い合っている商人たちの姿を見ましたか?」
喉がやたらとひりつく。手足の先の感覚もない。
「そっちの荷は何だ、あの市場で何が高値で売れてる、といった熱量ある声を聞きましたか? その場で商談をまとめている商人たちの逞しさを見ましたか?」
どれも知らない。
《《見ていない》》し、《《聞いていない》》。
背中に貼り付くチュニックの湿り気だけが、妙にハッキリと分かる。
「……あの“滞留”にはね、何百人もの商人と、その家族たちの生活がへばりついているんですよ。あなたの言う通り、渋滞を消し去れば時間は縮まるでしょうが、代償が大きすぎる。沿道の露店街は干上がり、商人たちの情報網は寸断される。結果、何百人もの人間が、明日からの飯の種を失うことかもしれない」
ヴィンセントの口が動いているが、何を言われているのか分からない。
頭が重く感じ、反芻される言葉がただ通り抜ける。
「……あなたの弾いたその“綺麗な計算”はね、現場の人間の生き血を吸ってようやく成り立つ、血も涙もない机上の空論なんですよ。その責任、負えますか?」
全身からすうっと血の気が引き、耳の奥がキーンと鳴り響く。
視界から休息に色が奪われる。
円卓に広げられた自慢の図面が、インクの線が、じんわりと滲んでいき、あの日の進路調査票に重なって見える。
そんなはずはない。
目を閉じ、もう一度見る。
やはり図面だ。
そんなこと、当たり前だった。




