第26話 熱気の街に、理想の線
翔馬に充てがわれた客室は、床も、壁も、天井すら紫黒石で囲われていた。
黒く冷たい印象のあるそれは、壁に埋め込まれた小さな暖炉の炎と、机の上に灯るランプによって、幾分か和らいで見える。
(街の流れ……)
荷解きも早々に、分厚い木机の前で羽ペンを走らせていた。
明日から数日間、ガルファンの案内で、街を見て周る約束になっている。
早々に床へ入るつもりだったが、街の熱気を帯びたままでは、どうにも寝付けそうになかった。
(そうだ。人と物。建物……)
街の風景を思い出す。
極彩色の布に覆われて立ち並ぶ露店、威勢よく掛け声を発する店主たち、無数に行き交う馬車。香辛料に交じる土の香り。そして、鉄を叩く音。
倉庫街に並ぶ大型馬車の列、荷役の怒号、商人たちの会話。
瞼の裏にその光景が広がるたび、羊皮紙の上に線が一本、また一本と増えていく。
冬の風に負けぬ熱気に包まれる、この貿易都市そのものを表したい。
部屋にはペンが紙をこする音だけ。それもまた、翔馬の耳に心地よく響いた。
(……ここはこう……。こっちは……うん。ラグロニーネを大きくしただけじゃないんだな……)
やがて羽ペンが止まると、線は図となり、羊皮紙の上で街が踊り出す。
ラグロニーネで翔馬が見てきたものとは全く異なる、人と物の動き。
翔馬の心は、落ち着くどころか更に熱さを増していかんばかりだった。
(全然違う……)
そのとき、コンコンと乾いた音が部屋に響いた。
「……エスティ。まだ、起きていらっしゃいますか?」
「あ、はい。どうぞ」
声の後、ギィィという渋い音と共に扉が開く。
湯気の立つティーポットと、二つのカップをトレイに乗せて立っていた。
シンプルな部屋着を纏っている。
「温かいお茶を淹れてきましたので、ご一緒にと思って」
「あ……全然眠れなさそうだったので、ありがたいです」
「ふふふ。テノラーダ中を見て回るとおっしゃっていたのに。明日に差し障りますよ?」
プラチナシルバーの長髪を軽くまとめた彼女は、どこか幼さのある笑みを浮かべた。テーブルまで来ると、かちゃりとポットを置き、カップへ茶を注ぐ。
ふわりと甘酸っぱい爽やかな香りが立ち上り、辺りを包んだ。
「はい、どうぞ」
長旅の疲れがある身体に、ゆっくり、じんわりと染み渡っていくような、そんな香りだった。翔馬は、そっと差し出されたカップを受け取り、ひと口含む。
その香りが、ひときわ濃く身体を包んだ。
「……何か書いていたのですか?」
レオナが、机上に広がっている羊皮紙に視線を向ける。
「はい。今日、街へ入ってから見えた街を整理していたんです。テノラーダの動きというか……人と物の動き、ですかね? ガルファンさんが言っていた話が、なんかすごく面白くて、それを思い出していたら眠れなくなってしまいました」
どこか気恥ずかしそうなその表情を、レオナは愛おしそうに見つめる。
脳裏に浮かぶのは、この少年の様々な表情。
水神の神殿、その水鏡の間。勇者の出現に歓喜する自分とは正反対の、どこか困ったような表情。
執務室。兄と向き合い、心なしかその身を縮こめながら、怯えていた目。
書庫。向き合うべきものに出会ったかのように、光が宿った瞳。
屋敷の庭。本心をさらけ出す、不安と期待の両方を含む視線。
旅の途中。前を見据え、生き生きとした一人の青年。
ずっと見てきたからこそ分かる。
いまや、レオナにはその姿が眩しい。
「エスティは、本当にこうしたお仕事がお好きなのですね」
レオナは胸の前で両手をきゅっと握りしめた。
翔馬の、貿易都市に対する熱が、自分にも感染ってしまったのだろうかと、瞳に光を宿らせながら。
「え? 好き……なのかなぁ……? 自分でもよく分からないですけど……」
うーん、と少し考えてから。
「感覚ですけど、ごちゃごちゃしてるものが綺麗に整理されていくというか、答えにたどり着けるのが心地よいというか、落ち着くというか……」
「……なんだかエスティらしい」
レオナはクスクスと可憐に笑い、カップを口に運んだ。
何を言うでもなく笑い合う。二人の間に流れる空気は、かつての勇者と巫女という緊張感ではなく、まるで長年連れ添った幼馴染のように穏やかで、自然なものにさえ見えた。
「そういえば、神官長様が領主様への面会を手配してくださるのですよね」
「はい。テノラディアの侯爵様と、街を仕切る三人の頭元締めさんたち……。正直、緊張しますよ。相手はこんな巨大な街を動かしているプロなんですから。でも、自分がやってきたことにも自信がありますし……」
ケーニヒシア王国の南部一帯を占めるテノラディア侯爵領は、各国との流通の入口であり、その中枢はここ貿易都市にある。
膨大な人口を抱えるこの都市を一手に引き受ける侯爵との面会。さらに、それを補佐し、荷と人の出入りを引き受ける頭元締め。
翔馬が見てきたラグロニーネとは、文字通り規模が異なる。それを動かす“外”のお偉方が、自分をどう見るのかに不安を覚えつつ、それでもこの世界に転移してからのことを思い返し、ここまで来ることが出来たという自負も滲ませた。
「はい。私もそう思います。大丈夫。……今のエスティなら、テノラーダでも、きっと大きなことを成し遂げられます」
まっすぐな瞳を向けるレオナに、翔馬は胸の奥が再び熱くなる。そして『ありがとうございます。頑張ります』と強く頷いた。
◇
神官長オルバが、テノラディアの領主たちとの面会調整を進める間、その数日間。
翔馬とレオナはガルファンの案内で、テノラーダの三つの心臓部――商業、倉庫、物流の各区画を巡っていた。
主要機能は、ほぼ都市の外周部に集中している。ただ、テノラーダに繋がる街道は八本。それをすべて見て回るというのは一日二日で足りるような規模ではない。
「見な。東門から入った荷馬車は、まずあの建物に吸い込まれる」
ガルファンの指差す先、そこは、翔馬たちが通った門から続く道――その先にある、巨大な施設の前には、数十台の大型馬車が整然と並んでいた。
商人たちが積荷の照合と検品、代金の決済を手早く済ませていく。
「商会によっては十台単位で荷が届くからな。テノラーダにはそんなでけえ商会がゴロゴロしてんだ。街中で荷受けなんかしたら、どうなるか分かるだろ?」
「なるほど……通りを詰まらせないためなんですね」
「そういうこった。門近くで馬車の荷と金の管理をやってんのさ。で、ここを牛耳ってんのが、商工会長のヴィンセントだ」
とにかく、街の中で商会の好き勝手に荷馬車を引き入れ、道を占拠させない。そういう設計なのだろうと翔馬は理解した。
荷の検認と決済を終えた馬車は、専用の連絡路を通って、隣接する倉庫区へと流れていく。高く聳える紫黒石の壁の向こうには、見渡す限りの巨大倉庫群が立ち並ぶ。
荷役たちが掛け声を上げ、食料から鉱石、木材までが緻密に仕分けされ、保管されていく。
「……んで、手続きを終えた馬車の荷は、こっちで降ろされて、倉庫へ収まるってなわけだ。そして、ここの管理者が、倉庫組合の親分ボリスだ」
「ぜんぶ降ろしてしまうんですか?」
「さぁな。詳しいことは知らねえが……ただ、あっちにもあるんだ、見るものが」
さらに歩みを進めた先に広がるのは、物流区の発着場。
何百頭もの馬と屈強な人足たちがひしめき、倉庫の荷役たちと連携しながら素早く倉庫から物が出されていくのが見える。
それらは、市街向けの小型馬車に積まれ、あるいは北の王都ハウロスや、他国へと向かう長距離隊商の馬車へ目まぐるしく積み替えられていた。
「どの道を、どのタイミングで何台走らせるか。街道の回送ルートを一手に仕切るのが、物流商会長のバートンだ。この三人が噛み合って、この街は回ってる」
「改めて見ると、凄いですよね……」
感嘆する翔馬。だが、その日の見学を終えようと、検認所から倉庫へと抜ける連絡路に差し掛かった時だった。
――突如として、前方の車列がピタリと止まった。後続の馬車が次々と詰まり、あっという間に数十台の荷馬車が、路上で“立ち往生”する。ガラガラとした車輪の音の代わりに、御者たちの声や、馬の嘶きが乾いた空気に響き渡り始める。
「……あれ? ガルファンさん、馬車が詰まってますけど……?」
「ああ、この時間帯は毎日こうだ。夕方までたっぷり三刻は動かねえな。ま、いつものことだし、名物みたいなもんだよ」
ガルファンは気にした風もなく肩をすくめたが、翔馬の足は止まっていた。
(いつものこと……? なんで……? この列を動かせば、もっと早く荷物を回せるのに……?)
◇
神殿の客間に戻った後も、翔馬の胸の熱は冷めるどころか、激しく波打っていた。
机の上に広げたテノラーダの全体図面。
翔馬は、昼間に目撃した渋滞のポイントをペン先でトントンと叩き、違和感の正体を探り続けていた。
(完璧なんだ。商業、倉庫、物流の役割分担も、物の動かし方も。……そのはずなのにな……)
無意識に働いた解析が、その違和感の原因だけでなく、より効率的な視点で図面をトレースし始める。やがて、テノラーダの最適化に対する感嘆と同時に、ある思いが生まれる。
(あ……もしかして、倉庫で荷下ろしをするタイミングと、出発時刻がぜんぜん噛み合っていないんだ。……じゃあ、ここをこうして。時間を半刻くらいずらして、搬入ルートを……もう一本増やせば、あの無駄な渋滞は完全に消せるはず)
羽ペンの先をインクに浸し、考えのままに羊皮紙の上へ一本の直線を引き直し、それを見ながら翔馬は考える。
果たして、現場のプロである三人の頭元締たちが、こんな単純なロスを見落とすだろうか、と。
……それでも、もし見落としていたとしたら?
元の世界のような高度な計算機もなく、一部の人間が、手作業と経験則だけで回している世界だ。ラグロニーネの規模であれば、それでもよいのかもしれない。
しかし、この貿易都市の規模となれば、全体の統括だけでなく、数値をきちんと計算できる人間がいないと、どこかしらに無駄が生じるかもしれない。
そして、毎日の停滞を「仕方のないこと」として放置しているのかもしれない。
街の人も、そういうものだと考えているのだろう。
――ここを直せば、この街は更に動きがよくなる。
荷役の負担も減るし、通行する市民にも喜ばれるはず。
(そうか、三人の頭元締めたちも、忙しすぎて構造的な欠陥に気づいていないんだろうな……ここだけ変えたらいいのに)
――僕が、教えてあげなきゃ。
――僕の計算なら、この活気があって泥臭い街を、もっと無駄のない、美しい街にできる。
レオナに、勇者ではないと告白したあの日。
ラグロニーネで第四輸送隊を見出し、リーデルに提案したとき。
外で学びたいと志願し、王家の長剣を手渡されたとき。
クロイツで問題を解決し、住民たちからも喜ばれたとき。
過酷な旅路を超えて、魔獣からレオナを救ったとき。
積み重なってきた成功体験と、研ぎ澄まされた計算能力。
それらが混ざり合い、心地よい全能感となって翔馬の全身を熱く駆け巡っていく。
「……大丈夫だ。クロイツと同じ。僕の計算なら、絶対に上手くいく」
呟いた少年の口元には、かつての怯えや迷いは微塵もなかった。
困っている人々を自分の力で正しく導いてあげられるという、純粋な善意と親切心に満ちた、それゆえ底知れない傲慢ささえ感じる笑みが、確かに灯った。
――数日をかけ、テノラーダ中の検認所や倉庫を見て回った翔馬たちは、いよいよ行政区画の最奥に鎮座する領主の屋敷へと向かうこととなった。
正確に切り出された紫黒石を一分の隙間なく積み上げられた屋敷の姿は、優雅なラグロニーネのそれとは異なる威圧感を放つ。
ところどころに施された装飾は、無骨な倉庫と異なると言わんばかりであるが、それでも、外敵の侵入を一切許さない不落の要塞のようにすら見えた。
(……ここから始まるんだ。早く結果を掴み取って、リーデル様に恩返しを)
翔馬は、大きく息を吸い込むと、よしと一声。屋敷の門をくぐった。




