幕間Ⅰ 蒼穹の剣
ある日の深夜。
領主館二階の執務室には、机上のランプが灯す淡い光が残されていた。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った館の中。
リーデルは一人、机に向かっていた。
積み上げられた書類へ視線を落とし、羽ペンを走らせる。
補給隊の報告書。
ヴァルメイ前線からの物資要求。
ハルト本国への物資申請書。
領内街道の整備を求める要望書。
修繕が必要な公共施設の見積書。
どれも見慣れたものだ。もはや驚くことすらない。
ただ、やるべきことをやる。
それだけだった。
「……ふぅ」
積みあがった書類の半分。
決裁印を捺し終えたリーデルは、小さく息を吐く。
窓の向こうでは、月が高く高く昇っていた。
あの有能な執事は、すでに休んでいるだろう。
妹も、神殿での務めに備えて、床についている時間だ。
誰もいない。本当に一人きりだった。
執務机から立ち上がり、身体をほぐすように首を動かし、肩を回す。
ふと、壁へ視線が向いた。
そこに掛けられた一振りの剣。
前ハルト王エンデルス・グライアス・ハルトニア。
父より成人の祝いにと賜った、蒼穹の剣。
リーデルは、しばらくそれを見つめていた。
何を思うでもなく、ただ、眺めていた。
やがて歩み寄り、手を伸ばす。
鞘ごと持ち上げた剣は、懐かしい重みを伝えてくる。
「……久しぶりだな」
誰に向けた言葉でもない、静かな独り言だった。
夏の青空を思わせる持ち手を引くと、僅かに刀身が覗く。
青く冷たい月光と、ランプの温かい光を受け、その刃は輝いていた。
幼い頃、強い父の背中に憧れた。
いつか自分もこの剣を手に、国を守り、民を守るのだと思っていた。
――そして、あの日。
何もできなかった。
剣を握ることすら。
前へ出ることすら。
ただ震えていることしか、できなかった。
「……っ」
リーデルは静かに目を閉じる。
脳裏を掠める、過去の記憶を振り払うように。
それは、完全には消えることがない傷。
どれだけ時間が経っても、癒えることのない痕。
やがて目を開き、刀身を見つめる。
そこで不意に、ある少年の顔が脳裏に浮かんだ。
黒い髪に、黒い瞳。
戦う力もなく、魔法も使えない。
政治的な火種になりかねず、しかし、妹の心を守る一本の糸。
到底、水鏡に導かれた勇者とは思えないほど、頼りない少年。
本当なら、あの少年は館に置いておくつもりだった。
外を見せるつもりもない。
危険へ晒すつもりもない。
期待を背負わせるつもりもない。
それが一番、お互いにとって穏当だった。
檻の中にいるほうが、かえって安全だ。
危険に近づく必要などない。
何もしなくていいと言われ、それに安堵した少年。
――だったはずなのに、わざわざ檻から出ようとする。
書庫へ籠もったかと思えば、今度は補給廠へ通い始めた。
人と話し、荷を眺め、分厚い帳簿を読み漁る。
何を考えているのかと思えば、また別の場所へ首を突っ込む。
「……まったく、不思議な子だね」
誰に聞かせるでもなく、小さな呟き。
「……どうやら君は、私の想定よりも厄介らしい」
あの少年には何かがある。
力の資質ではない。
そんな分かりやすいものではない、別の何か。
まだ名も分からぬ、何かとしか言えない。
そんな感覚だった。
リーデルは、しばらく蒼穹の剣を見つめた後、それを静かに鞘へ収める。
そして、元の場所へ戻した。
「君は、ここからどうするのだろうね」
困ったように小さく笑う。
自分でも、その理由はうまく説明できなかった。
だが、気付けば、あの少年のことを考えている自分に気付く。
それだけは確かだった。
「……いや、考えるにはまだ早いか」
ランプの灯りが揺れる。
リーデルは再び机へ戻ると、残された書類へ手を伸ばした。
領主としての一日が終わるには、まだ少しだけ時間が必要だった。




