第22話 野営の灯火、二頭の引き馬と食わず嫌い
*日常回ですが、楽しくてつい長くなりました。
道中の難所であるゴラン峠は、ハルト王国のラグロニーネ側こそ息を切らすような急峻な登りであったが、ケーニヒシア側へと抜けると、緩くだらだらと下る長い一本道へと表情を変えていた。
標高が下がるにつれ、肌を切り裂かんばかりの冷気はいくらか和らいだが、街道を取り囲む風景は、登りで目にしたものとはまるで異なっていた。
ゴラン峠と、目指すテノラーダを抱く外輪山との合間に広がるのは、見渡す限りの荒涼とした大地。露わになった赤灰色の脆い岩肌と、ひび割れた乾いた赤土が、どこまでも地平の果てへと続いていた。
風を遮るものがなく、乾いた風が絶え間なく吹きつけるせいか、群生する植物も、それまでの天を突くようなものから、強風に耐えかねて、地を這うようにねじ曲がった不恰好な低木ばかりだ。
冷たい風が車体を揺らす中、馬車の中では、翔馬が革表紙の地理書と羊皮紙の地図を広げていた。膝の上で揺れる地図には、ラグロニーネからテノラーダへと至る街道の高低差や、農村、集落、宿場町の位置が、緻密な記号で記されている。
「エスティ、車内で文字を追うと、また酔ってしまいますよ?」
向かいの座席から、レオナが心配そうに声をかけてきた。
ポンチョのような可愛らしい外套を纏い、プラチナシルバーの長髪を揺らしながら、彼女は小首をかしげている。
「あ、大丈夫です。ありがとうございます。でも、ゴラン峠を越えたらすぐ盆地に出るのかと思ってたんですけど、この荒野を抜けた先に、もう外輪山があるんですね。テノラーダまでは、まだいくつも難所がありそうだなって」
「ええ。私も初めて通りますが、なかなか過酷な道ですね。ガルファン様がついていてくださらなかったら、どうなっていたことか」
レオナの柔らかい微笑みに、翔馬は小さく頷いた。
旅に出た初日の自分であれば、この荒れ果てた風景を見ただけで圧倒され、不安に押し潰されていただろう。しかし今は、隣にいるレオナの存在と、前で手綱を握る頼もしい男の背中が、その心を静かに支えていた。
◇
翌朝。
地平から昇る朝日が、遠く連なる雪化粧の峰々を眩い黄金色に染め上げていく。
荒野の朝は冷え込みが厳しく、吐き出す息は真っ白に立ち上った。
出発の準備を整える傍ら、翔馬はおずおずと、ここまで重い馬車を黙々と曳き続けてきてくれた、二頭の馬へと近づいた。
焦げ茶色の艶やかな毛並みを持つ、がっしりとした体躯の馬たち。
日頃の感謝を伝えようと、翔馬は右手をおずおずと馬の正面、その鼻先へと伸ばした。
「よしよし……いつもありがとうな。今日もよろしく――」
「フシューッ!」
だが、右側の馬が鬱陶しそうに頭を大きく振り、いかにも嫌そうにその手をすげなくかわした。荒い鼻息が翔馬の手の甲を吹き抜ける。
「うわっ……!? や、やっぱり嫌われてるのかな……」
へっぴり腰で慌てて手を引っ込める翔馬の情けない姿に、二頭の脚の調子を確認していたガルファンが、腹を抱えて大声で笑った。
「ダハハッ! バカ野郎、いきなり正面から手を突っ込むからだ! 視野の端から急に手先が伸びてきたら、馬だって驚いて噛みつきたくもなるぜ」
(そういえば……草食動物は目が頭の横についてるから、真正面は死角になるんだったっけ……)
元の世界で読んだ雑学知識を思い出し、へっぴり腰のまま納得する翔馬。
そんな彼に、ガルファンは蹄鉄の泥をヘラで落としながら、ぶっきらぼうに追撃をかけた。
「そいつはな、右の首筋の毛並みを優しく撫でられると喜ぶんだよ。左のやつは耳の裏だ。馬にも一頭ずつ、触られてもいい《《ツボ》》ってもんがあんだよ」
「え……右の首筋ですか?」
思わぬアドバイスに翔馬は目を丸くした。
言われた通り、翔馬は深く息を整えると、馬の視界を遮らないよう斜め前からゆっくりと右側へ回り込んだ。そして、驚かせないよう優しく声をかけながら、温かい首筋の毛並みに手のひらを添え、毛の流れに沿ってゆっくりと撫で下ろしてやる。
すると、先ほどまで警戒するように耳を伏せていた馬が、満足そうに『ヒヒン』と小さく鼻を鳴らし、気持ちよさそうに目を細めて翔馬の腕へ頭を預けてきた。
「本当だ……! すごい、ガルファンさん! 全然嫌がらない……どころか、甘えてくれてるみたいです!」
「へっ、《《仕事道具》》の癖くらい把握してなきゃ、プロの輸送屋は名乗れねえよ」
ガルファンは鼻を鳴らし、革の手甲をパンと叩いて誇らしげに胸を張った。
その手慣れた様子に翔馬が心底感心していると、馬車の陰から、水筒と乾布を手にしたレオナが軽やかな足取りで歩み寄ってきた。
美しい銀髪を朝風になびかせ、つぶらな瑠璃色の瞳を引き馬たちへ向ける。
「そういえば、ガルファン様。この子たちに、お名前はないのですか?」
「あ? 名前ぇ? 仕事道具にいちいち名前なんて付けねえよ。無駄に情が移ると、万が一の事故や魔獣の襲撃で切り捨てなきゃならねえ時、判断が鈍るからな」
割り切るなどと冷酷そうな口ぶりをしながらも、馬ごとの好む撫で方から、体調の癖まで完璧に把握しているガルファンのツンデレぶりに、思わず翔馬は苦笑いを浮かべた。しかし、レオナは気にする様子もなく、馬の前にすっと歩み寄る。
「ふふふ。でもお名前があった方が、呼びかける時にも心が通いやすいのではないでしょうか?」
レオナは小さな指先を顎に当て、二頭のたくましい脚元と、艷やかな焦げ茶の毛並みをじっと見つめ、しばし思案に耽った。
「じゃあ姫さん、あんたが勝手に付けりゃいいだろ。俺は呼ばねえがな」
そう言ってそっぽを向き、荷台のロープを点検し始めるガルファンをよそに、レオナは何かひらめいたように、パッと紫紺の瞳を輝かせた。
「……では、『チャコ』と『チャイ』……というのはいかがでしょうか?」
「「……はぁ」」
翔馬とガルファンの声が、見事なユニゾンで重なった。
険しい峠道を越え、泥濘を踏み越えながら、重い馬車を曳き倒す屈強な馬に対しては、あまりにも可憐な響きだった。
「ど、どこから出てきたんですか、その名前……?」
戸惑いながら尋ねる翔馬に、レオナは楽しそうに微笑みながら、馬の脚元を指さした。
「この子たちの足首を見てください。そこだけ白い毛並みになっていて……まるで、可愛い靴下を履いているみたいでしょう? 右の子がチャコで、左の子がチャイ。……ダメでしょうか?」
レオナが小首をかしげて馬たちに優しく語りかけると、二頭はまるで自らに与えられた名を理解したかのように、嬉しそうに『フリリ』『フルル』と耳を前へ倒し、彼女の手のひらに鼻先を擦り寄せた。
翔馬は、結局どこからチャコとチャイが出てきたのか、分かっていなかった。
「姫さんのセンス……独特だな」
「ほら、見てください! 二人とも気に入ってくれたみたいです!」
あえて言わなかったその言葉は、ガルファンの喉を通して世界に放たれる。
しかし、それが聞こえていないレオナは、しそうに両手を合わせて花咲くように笑う。馬たちの機嫌も、最近ないほど、すこぶる良さそうに見える。
「……チッ、馬のくせに愛想振り撒きやがって。おいチャコ、チャイ! 水飲んだらすぐ出発だぞ!」
ガルファンが呆れたように水桶を差し出しながら口走った瞬間、すかさず翔馬が吹き出しながらツッコミを入れた。
「ガルファンさん! 思いっきり名前呼んでるじゃないですか!」
「あん……? ……う、うるせえ! これは備品の《《識別名》》だ! 効率的な運用のための呼称なんだよ!」
顔を背けて強がるガルファンの分かりやすい照れ隠しに、翔馬とレオナは顔を見合わせ、朝の荒野に澄んだ笑い声を響かせ合ったのだった。
◇
馬の名前が決まり(?)、荒涼とした平原をひたすら北上すること半日。
空が茜色に染まり始める頃、一行は冷たい夜風を遮ることができる巨大な岩棚の陰へと馬車を滑り込ませた。今夜の野営地だ。
馬車が止まるや否や、翔馬は作業用の革手袋をはめ、手際よく周囲の枯れた低木から薪を集め始めた。手にしたのは、硬い角閃石と小さな鉄片。
旅の初日、ラグロニーネを出て最初の夜の記憶が、翔馬の脳裏によぎる。
火打ち石の角度も力加減も分からず、何度も指を打ちつけて悶絶しては、火花すら散らせないまま顔と服を煤だらけにして往生した。
見かねたガルファンから『おいおい、お坊ちゃんは火の点け方も知らねえのか』と腹を抱えて大笑いされ、悔しさと情けなさで顔を真っ赤にしたものだった。
(……あの時は、本当に何もできなかったもんな)
翔馬は苦笑しながら、乾燥した枯れ葉と削り出した細かな木粉を火口として円錐形に整え、その周りに細い薪を組んだ。
呼吸を落ち着け、石の角に鉄片の刃先を鋭く滑らせる。
カンッ!
澄んだ硬質な金属音が岩陰に響いた。放たれた火花が一発で火口へと飛び込み、小さな赤い火種がじわりと煙を上げる。
翔馬が腰を落とし、そっと息を吹き込むと、火種は一気に息を吹き返し、パッと温かいオレンジ色の炎が立ち上がった。
「よし、と」
「おう、見違えるように手慣れてきたじゃねえか、エスティ」
チャコとチャイのブラッシングを終えたガルファンが、満足そうに頷きながら近づいてきた。ガルファンは手際よく鉄の三脚を焚き火の上に据えると、水と干し肉の入った鉄鍋を火にかける。
そして、腰の革袋をごそごそと探ると、道中の岩陰で手早く摘み取ってきたという〝それ〟を取り出した。
「さて、今日のメインディッシュだ」
ガルファンの手の中にあったのは、手のひらほどの大きさの植物――いや、キノコのようなものだった。その見た目は、禍々しい紫色の傘に、毒々しい黒い斑点模様が無数に浮かび上がり、表面にはぬらぬらとした怪しい光沢がある。
お世辞にも食用とは思えない、まるで猛毒の塊のようなグロテスクな代物。
ガルファンはそれを無造作にナイフでぶつ切りにすると、鍋へ豪快に放り込もうとした。
「「ちょっと待ってください!!」」
翔馬とレオナの悲鳴のような制止が、完璧なタイミングで夕暮れの岩陰に響き渡った。
「あんだよ、急に大声出しやがって」
「あんだよ、じゃありませんよガルファンさん! それ、何ですか!? 絶対に毒キノコですよね!?」
「……色も形も、とても食べ物には見えません……! 薬草はありますが、お腹を壊してしまいます……!」
本気でドン引きして後ずさりする二人に、ガルファンは心底やれやれといった風に大げさに肩をすくめてみせた。
「はぁ〜……。これだから世間知らずのお坊ちゃん、お嬢ちゃんは困るぜ。旅では食わず嫌いが命取りなんだよ」
「いや、食わず嫌いというか! 本能が『食べるな』って全力で警鐘を鳴らしてるんですけど……!?」
必死に止める翔馬と、ブンブンと首を振るレオナを意にも介さず、ガルファンは不敵にニヤリと笑った。
「いいから騙されたと思って食ってみろって。こいつは紫斑茸って言ってな、寒冷地の岩肌にしか生えねえ貴重品だ。見た目がエグいキノコほど、極寒の大地じゃ身体の芯を温める最高の薬になるんだよ。干し肉の塩煮込みにはこれ以上ねえ相棒だ」
そう言い放つと、ガルファンは制止を無視して、紫と黒のキノコをぐつぐつと煮え立つ鍋の中へ惜しげもなく投入する。
鍋の中は、食欲を失う見た目になった。
そこはかとなく哀愁が漂っているようにも見える。
「「あぁぁ……」」
鍋からモクモクと立ち上る湯気。
しかし、立ち上ってきたのは予想に反して、香ばしく濃厚な、食欲を強烈に刺激する芳醇な香りだった。
「ほら、できたぞ。冷めねえうちに食え」
木椀によそわれた熱々のスープが、二人の手元へと差し出される。
スープはほんのり薄紫色に染まり、黒い斑点のあるキノコの切れ端がぷかぷかと浮いている。翔馬とレオナは互いに顔を見合わせ、生唾を飲み込んだ。意を決し、目をつむり、スプーンで恐る恐るスープを一口すする。
「……ん? あれ……?」
舌の上にスープが広がった瞬間、翔馬の目が丸くなった。
恐れていたような嫌なえぐみや異臭は微塵もない。
舌の上で弾けたのは、凝縮された濃厚なキノコの旨味と、爽やかな野草のほろ苦さだった。それが干し肉から溶け出した強い塩気と脂に見事に調和し、驚くほど重厚で深い味わいを生み出している。
そして何より、一口飲み込んだ瞬間から、喉を通って胃袋の底がカッと熱くなり、指先やつま先までポカポカとした温もりが急速に巡り始めた。
「……え、おいしい。旨味とほのかな苦味が……」
「……本当ですね……。とても味わい深くて……寒さで強張っていた身体の芯が、じんわりと解けていくようです……」
驚きと感動に目を輝かせる二人の反応に、ガルファンは焚き火の向こうで勝ち誇ったようにニヤニヤと笑った。
「へへっ。どうだ、旨ぇだろ!?」
「……悔しいですけど、めちゃくちゃ美味しいです……」
「ガルファン様のおっしゃる通りでしたね……」
「過酷な街道を何日も旅する輸送隊にとっちゃ、飯はただの腹塞ぎじゃねえんだ。寒さに耐えるための武器で、心を折らねえための防具なんだよ。兵士や仲間に不味い飯しか食わせられねえ隊長は、それだけで無能の烙印を押されるからな」
豪快にスープをあおりながら語るガルファンの言葉には、現場の最前線で命を預かってきた者ならではの、揺るぎない重みがあった。
ガルファンは空になった木椀を置くと、翔馬の荷袋を指さした。
「そうだエスティ、宿場で買った黒パンを出してみな」
「あ、はい」
翔馬は道中の宿場で買い足しておいた保存用の黒パンを取り出した。
しかし、北の大地の厳しい冷気と乾燥にさらされたパンは、水分を失ってまるで石炭のようにカチコチに硬くなっていた。
そのまま一口かじろうとした翔馬は、歯が折れそうなほど硬いパンに顔を歪めて悶絶する。
「ハハハ! そのまま噛む奴があるかよ。ちぎって、そのスープに浸してみろ」
言われた通り、翔馬は怪力でちぎった硬い黒パンの欠片を、熱々のスープの中に沈めてみた。すると、乾いたパンが濃厚なスープをぐんぐんと吸い込み、みるみるうちにふっくらと柔らかく膨らんでいく。
それを口に運ぶと、麦の香ばしさとキノコスープの深い旨味がジュワッと口いっぱいに広がり、極上の煮込み料理へと姿を変えた。
「あ……すごい! あんなに硬かったパンが、もちもちしてすごく美味しい……!」
「本当……! スープを吸って、とても食べやすくなりますね!」
「どうだ、これが旅人の知恵ってもんよ!」
夜空の下で豪快に笑うガルファン。
翔馬とレオナは顔を見合わせ、もはや完敗といった体で、苦笑いを漏らすしかなかった。
書類の計算や神殿の儀礼では決して学べない、大地の上で生き抜くための《《生きた知恵》》。こと旅の生活術に関しては、この頼もしい男に完全に頭が上がらない二人であった。
満天の星空の下、冷たい夜風が岩肌をかすめていくが、焚き火の炎とキノコスープのおかげで、身体はぽかぽかと温かい。
焚き火の周りには、静かで心地よい時間が流れていた。
翔馬とレオナは、干し草と、細かく刻んだ乾燥根菜の端切れを木桶に入れ、岩棚の奥で休んでいる二頭の馬の元へと向かう。
「チャコ、チャイ。お疲れさま。ご飯ですよ」
レオナが澄んだ声で呼びかけると、二頭は待っていましたとばかりに長い首を伸ばし、木桶の中の干し草を器用に食み始めた。
翔馬は、右側の馬――チャコの温かい首筋にそっと手を添え、ガルファンに教わった通りに優しく撫でてやる。
「ふふ、チャコもエスティに懐きましたね」
隣でチャイの額を優しく撫でながら、レオナが微笑む。
「……うん。最初は触るのすら怖かったのに、不思議ですね。相手を知ろうとすれば、伝わるものがあるんだなって」
チャコが気持ちよさそうに目を細め、翔馬の肩口に温かい鼻先をすり寄せてくる。
伝わってくる力強い体温と、生きた命の確かな息遣い。
焚き火の爆ぜる音と、二頭の草を食む静かな音が、荒野の夜に優しく溶けた。




