第23話 並び立つ歩幅と、夜風の刃
*再度の日常回です。削除するにできないため供養としてご笑覧ください。
(翔馬くん色々と頑張ってます。)
荒涼とした平原を抜け、一行の馬車はいよいよ、目指すテノラーダを抱く、広大な大盆地の外輪山へと差し掛かっていた。
標高が上がるにつれ、街道沿いにはぽつりぽつりと堅牢な宿場町が現れ始める。
ハルト王国の白漆喰と木組みの建物とは異なり、このあたりの家々は、寒風と大雪に耐えるための重厚な灰色の切り石で組まれ、急勾配の屋根が連なっていた。
石造りの煙突からは、針葉樹の薪が爆ぜる独特の香ばしい煙が立ち上り、分厚い毛皮を羽織った北方の人々がせわしなく行き交っている。
旅路を重ねる中で、翔馬の佇まいは目に見えて変化しつつあった。
かつて馬車の揺れに酔い、荷物の重さにへたり込んでは息を切らしていた少年。
しかし今や、早朝のチャコとチャイへのブラッシングと手綱の点検は、完全に翔馬の身体に染みついた日課となっていた。
作業用の革手袋をはめた手足からは無駄な力みが抜け、荷台の麻縄を手際よく締め直す手つきは、どこから見ても板についた一人前の旅人そのものだった。
「よし、緩みなし。チャコ、チャイ、今日も頼むな」
首筋を優しく撫でてやると、二頭は心地よさそうに目を細めて鼻を鳴らした。
「エスティ、次の宿場町に入りますね」
「はい。そろそろ水と塩漬け肉、それに保存用のパンを補充しておかないと……今日はここで宿泊ですね」
宿場町に到着するたび、ガルファンが馬車の見張りと馬の世話を一手に引き受け、翔馬とレオナの二人で市場へ買い出しに向かう。これがここ数日の自然な役割分担となっていた。
「おい、エスティ。しっかり姫さんをエスコートしてこいよ。怪しい奴が寄ってきたら、声張り上げて叫べよ?」
御者台からひらりと飛び降りたガルファンが、ニヤリとからかうように片目を瞑る。
「からかわないでください。買い出し、すぐ済ませてきますから」
「行ってまいりますね」
二人はガルファンに手を振り、賑わいを見せる市場の通りへと足を踏み入れた。
◇
市場の通りには、北方の鮮やかな織物や見慣れぬ乾燥香辛料、色とりどりの根菜が所狭しと並んでいた。
町ごとに異なる特産品や行き交う人々の活気。そのひとつひとつが、翔馬の目には新鮮な驚きとして映る。
かつてなら、人混みの熱気を避け、呼び込みの大声に気圧され、誰かの後ろに隠れるように縮こまっていただろう。今の翔馬は、荷物を抱えやすいよう、左腕を空けつつ、レオナの半歩前を歩いていた。
行き交う大柄な商人たちの肩が彼女にぶつからないよう、ごく自然に身体を寄せて庇いながら進む。
(レオナは水神の神殿の巫女で、王女様だ……。粗野な人混みで怪我なんてさせられない)
そんな翔馬の気遣いを察してか、レオナは嬉しそうに目を細め、彼の半歩後ろをしっかりとついて歩く。
そんな中、ふとレオナが露店の一角に並ぶ木彫りの装飾品に足を止めた。
北方の針葉樹を薄く削り出し、繊細な花の形に仕立てたブローチだった。
「綺麗……北の国では、木をこのように細工するのですね」
「ラグロニーネの金属細工とはまた違った温かみがありますね。……あ、レオナ、あそこの店で食料を揃えられそうです」
「ええ、行きましょう」
露店街の中心付近、乾燥肉やパンを多く扱う食料店へ足を止める。
「すみません。こちらの塩干し肉、ふた盛りほどいただけますか? あと、この乾燥根菜の束と、保存用の黒パンも三つお願いします」
「あいよ! まいどあり! お兄ちゃん、見慣れない顔だね。旅人かい?」
恰幅のいい女店主が、手際よく干し肉を麻布で包みながら、威勢のいい声をかけてくる。旅の始めこそ、街の人たちとの触れ合いに気後れしていた翔馬だが、今となっては言葉を返せるくらいにはなっていた。
「はい。ラグロニーネから、テノラーダを目指して旅をしているところです」
「そうかい、ハルトから! まだまだ外輪山越えがあるからねぇ、しっかり腹ごしらえして行きなね。……それにしても、隣の別嬪さんは奥さんかい? こんな綺麗な嫁さん連れてるんだ、男なら命がけで守ってやりなよ! ほら、これ奥さんにサービスね!」
女店主は豪快に笑いながら、包みの上に甘く煮詰めた木の実の小袋をポンと乗せた。この辺りの特産らしく、店先にも山のように積まれているそれだ。
「ありがとうござ……。え……っ!? あ、い、いえ! 違います! 奥さんなんかじゃなくて、その、旅の仲間というか、大切な……わわっ!?」
矢継ぎ早に繰り出された威勢の良い冷やかしに、翔馬の思考は一瞬で真っ白になった。耳まで真っ赤にして狼狽するあまり、革の小銭入れから銅貨を取り出そうとした指先が滑り、チャリンと甲高い音を立て、数枚の硬貨が木製カウンターの上を派手に転がっていった。
「あっ……すみません、すみません……!」
慌てて転がる銅貨を押さえようと右往左往する翔馬。その隣で、レオナもまた、透き通るような白い肌を柿色に染めていた。
しかし、銅貨を零しながらパニックになる翔馬の慌てぶりがよほど可笑しかったのか、レオナは外套の小さな袖口で口元を覆いながら、『ふふ……あはは……』と困ったように、けれどどこか嬉しそうに目を細めていた。
買い物のやり取りそのものは随分と板についてきたものの、こうした予想外のからかいに対しては、現代の少年・翔馬はまだまだ免疫がないのだった。
◇
買い出しの包みを両腕に抱え、その日の宿へと戻る道すがら。
冷たい夕暮れの風が赤く染まった頬を冷ましてくれるのを心地よく感じながら、翔馬は小さく息を吐いた。
「からかうつもりはないんでしょうけど……ああいうの、ちょっと心臓に悪いですよね……」
「……エスティ? 聞きようによっては、私と一緒にいると心臓に悪い……つまり、不愉快だと受け取れるのですが?」
隣を歩いていたレオナがふっと足を緩め、少し眉をひそめてジト目を向けてきた。
瑠璃色の瞳の奥には、彼がそんな意味で言ったのではないことなど百も承知だという、ちょっぴり意地悪な悪戯心が宿っている。
「えっ!? いや! いやいや! そういう意味じゃありませんて!」
予想外のからかいに続いて、予想外の角度からの突っ込み。
翔馬は再び顔を青くしてぶんぶんと首を振った。両手が買い出しの荷物で塞がっているため、身振り手振りの代わりに必死に頭を振る。
「……ふふふ、冗談です。エスティがそんなつもりで言ったのではないことくらい、分かっていますよ」
「本当に焦るのでやめてください……。それこそ心臓が止まりそうになります」
レオナは鈴を転がすような愛らしい笑い声をあげた。
過酷な街道の旅を共にする中で、二人の間にあった形式張った気兼ねは、確実に解けつつあった。
こうして他愛もない軽口を叩き合えるほど、心の距離は近づいている……のだが、翔馬の胸の奥には、どうしても拭いきれない一本の《《線》》が存在していた。
「でも……エスティが焦る理由は、少しだけ気になります」
翔馬の僅かな視線の揺らぎを見透かしたように、レオナが静かに問いかけた。
その言葉にハッと息を呑みながら、翔馬は抱えた荷物の重みを確かめるように、少しだけ視線を落とした。
かつて、自分がどんな人間なのかを包み隠さず打ち明けたあの日。
それ以来、レオナの瞳から自分へ向けられていた、おとぎ話の勇者への過剰な畏敬は消え去った。お互いに一人の人間として向き合えている今の関係は、翔馬にとって温かく、何物にも代えがたい救いだった。
けれど――翔馬にとって、レオナはどこまでも尊く、高嶺の花であることに変わりはなかった。ラグロ辺境伯領主リーデルの実妹であり、王女であり、水神の神殿に名を連ねる誇り高き巫女。
旅の中で自分にできる仕事が増え、生きる実感を得つつあるとはいえ、自分と彼女の間にある生まれ持った立場、培われてきた品格、圧倒的な資質の隔たりは、そう簡単に埋まるものではないと感じていた。
荷物を抱え直し、ほんの半歩前を歩く翔馬は、静かに言葉を絞り出した。
「……僕なんかじゃ、レオナの《《横》》に堂々と並び立てるほどの存在じゃないですから。だから……さっきみたいに言われると、恐れ多くて焦っちゃうんです」
その言葉を聞いた瞬間、レオナはぴたりと足を止めた。驚きに瑠璃色の瞳を見開いた彼女は、すぐにその瞳を細め、静かで、しかし確固たる温もりを宿した。
トントン、と軽やかな足音を立てて翔馬の後ろ姿を追いかけると、彼女は彼の歩幅にぴったりと合わせ、すぐ隣に並び立った。
「そのような謙遜、やめませんか? エスティ?」
横から見上げてくるレオナの表情は、どこまでもまっすぐだった。
「かつての私は、奇跡を祈り、エスティに重荷を押し付けました。でも、今、この冷たい北の地で、私の前を歩き、私を守り、寒さに凍えないよう火を熾してくださるのは誰ですか?」
レオナは柔らかく微笑み、言葉を重ねた。
「今のエスティは、誰よりも頼もしいですよ」
追い抜くでもなく、遅れるでもなく、視線を合わせ、歩幅を揃えてくれる彼女。
その言葉が、単なる気休めでもお世辞でもないことが、瞳の奥の光から真っ直ぐに伝わってきた。
「……ご期待に沿えるよう、精進します」
まさか、自分の口からそんな前向きで責任感のある言葉が出るとは思わなかった。
口にしてから自分自身で驚く。
けれども、翔馬の背筋はいつの間にか自然とピンと伸びていた。
その瞳には、自分の足でこの大地を踏みしめて進む、一人の青年としての静かな覚悟が宿りつつあった。
◇
宿での素朴な夕食を終えた後。
街の裏手に広がる岩がちな広場に、パチパチと薪が爆ぜる焚き火の明かりが揺らめいていた。
空に残っていた残光もすっかり消え去り、頭上には満天の星と冷たい夜風が広がっている。
「ほらほら、足が止まってんぞ! 頭で考えてるから初動が遅れるんだよっと!!」
バシィッ! という鋭い打撃音とともに、ガルファンの構える木剣が、翔馬の構える長剣の刀身を激しく弾き飛ばした。
「くっ……!」
手のひらに痺れるような衝撃が走り、翔馬の身体が数歩後ろへたたらを踏む。
徒手空拳が基本のガルファンだが、長年修羅場をくぐり抜けてきただけあり、武器の扱いにも長けていた。
翔馬が老執事ギルバートから毎夜叩き込まれたのは、王家の伝統に基いた、美しく正確無比な基本の型だった。
対して、ガルファンが教え込むのは、足場の悪い荒野や乱戦で生き残るための泥臭い実戦の間合いと、相手の力を最小限の動きで逸らす受け流しの技術だった。
「言ったろ! お前の空間を読む才覚はとんでもねえが、乱発すりゃ脳が焼き切れる諸刃の剣だ! 自分の感覚で相手の刃を受け止められねえ奴が、そんな大技に頼ってたら真っ先に野垂れ死ぬぞ!」
「はぁ……はぁ……っ。はい……!」
肩で息を乱しながらも、翔馬は素早く切っ先を構え直した。
ギルバートから教わった綺麗な立ち姿に、ガルファンから学んだ重心を低く保つ実戦的な足さばきが重なっていく。
「もう一度だ! 感覚で俺の踏み込みを感じ取ってみろ! 視界に頼るな。落ち葉を踏む音、風の動き、気配の揺らぎ……身体全体で俺を見ろ!」
「つ……ッ!」
ガルファンが地を蹴り、木剣を斜め上段から鋭く振り下ろしてきた。
翔馬は目を極限まで細め、ガルファンの言う生の五感へと全神経を集中させた。
――相手の体格、踏み込みの角度、速度、着弾点。無意識に頭の中で数値を弾き出そうとした瞬間、こめかみの奥にチリチリとした嫌な痛みが走り抜ける。
(だめだ……! データで処理しようとするな……!)
翔馬は奥歯を噛み締め、思考を強引に遮断した。
視覚の情報を手放し、夜風が運ぶ冷気の揺らぎ、足元の砂利が擦れるわずかな音、そしてガルファンが放つ熱気と気配の《《波》》だけに意識を合わせる。
(肌に触れる風の流れ……落ち葉を踏む微かな音……今だ!)
振り下ろされる木剣の軌道に合わせ、翔馬は下から斜め上へと長剣の刀身を滑らせた。
ガキィンッ!
鈍銀色の鍔が月明かりに一瞬煌めく。
澄んだ打撃音とともに、ガルファンの放った剛腕の一撃が、夜空に描かれた鈍銀の弧に沿って、滑るように虚空へと受け流された。
空を切った木剣の風切り音が闇に消える。
ガルファンが驚きに濃紅の瞳を見開いた。
これまでまったく出来ていなかった受けの身こなし。素人くささは抜けきっていないものの、数日前まで剣の重さに引きずられていた少年の面影は、そこには微塵もなかった。
「……上等だ、エスティ。少しはサマになってきたじゃねえか」
ガルファンはニッと口元を緩め、木剣を肩に担いで息を吐いた。
翔馬は長剣を静かに鞘へと納めると、膝に手をつき、深く、長く熱い息を吐き出した。
「はぁ……はぁ……。毎回……死に物狂いですよ……」
「エスティ、お疲れ様。お水です」
焚き火の傍らで見守っていたレオナが、小走りで駆け寄り、湿らせた清潔な布と水筒を差し出してくれた。
「あ……ありがとうございます、レオナ」
受け取った水を一気に喉へと流し込む。冷たい水が、火照った身体の隅々まで染み渡っていく。
額の汗を拭う翔馬の表情には、自分の生身の身体で確かに掴み取りつつある手応えと、青年らしい凛とした光が宿っていた。
「へっ、いい顔してんぜ。明日は外輪山を越えて、いよいよ大盆地へ降りるぞ」
ガルファンが夜空を見上げ、木剣で北の空を指し示した。
翔馬とレオナも視線を並べ、満天の星の向こう、暗闇の中にそびえる巨大な山並みを見据える。
あの険しい峠を越えた先に、目指す貿易都市テノラーダが待っている。
並び立つ三人の足元を、冷たくも澄んだ夜風が静かに吹き抜けていった。




