第20話 万能感の影、ゴランの険路
冷たい秋風が、クロイツ宿の広場を吹き抜けていく。
宿の一室で、翔馬は深く息を吐きながら、緑のチュニックに袖を通した。
身体を苛む倦怠感は消え去り、驚くほど軽い身体に『そりゃそうだよな』と独り言をつぶやく。
――混乱するクロイツ宿の食堂で、物資の配分案を《《提示》》した翌日。
いつもの時間に起き、身体に大きな違和感がないことを確認した翔馬は部屋を出た。
現場が計画通りに動いているか確かめたい一心で、ふわりと木のよい香りの残る廊下を進む。
突き当りを左、階段を降りようとしたところで、階下から真っすぐの視線が交錯する。レオナだった。
「あら、エスティ。おはようございます。……えと、どこかへ行かれるのですか? まさか、お手伝いですか? それも大切なのでしょうけれど、今のエスティに必要なことは静養ですよ?」
口元はにこやか。
しかし、普段の雰囲気からは想像もつかない、瑠璃色の瞳から滲む気迫。
結局、終日部屋で、レオナの監視を受けながら書物を読むに留めたのだった。
――それを思い出し、ため息ひとつ。
部屋の窓から外を眺めると、今日も宿前広場で荷物の積み下ろしが始まっていた。
一昨日までの怒号はない代わりに、どこか重苦しい空気が漂い、窓の隙間から、荷役をこなす村人や商人たちの愚痴が漏れていたが、翔馬は気づかなかった。
「……本当に飯が一日二回なのかよ。腹が減って力が出ねえよ」
「静かにしろ。あの若造に聞かれたらどうなるか分からん。それこそ致命傷だろが」
「ちっ……完璧な計画だかなんだか知らねえが、ハルトの若造が、上から押し付けやがって……」
彼らは一昨日翔馬が書いた交換一覧表の羊皮紙を手に、ルール通りに動いてはいる。だが、それは生き残るための自発的な行動ではない。
ハルト王家の剣と公務の両方を帯びた人間という、圧倒的な権力への恐れと妥協によるものだった。
翔馬が荷物を抱えて一階へ降りると、裏手の厩舎でガルファンが馬の脚や蹄鉄を念入りに点検していた。
「おはようございます、ガルファンさん」
「おう、エスティ。顔色は悪くねえ。姫さんのおかげだな?」
ガルファンはニッと野性味のある笑みを浮かべ、馬の背をポンと叩いた。
「あははは……」
苦笑いを浮かべつつ、翔馬は手にした革鞄から、配分表の控えを取り出してじっと見つめた。それをちらりと見ては、そそくさと作業に戻る商人や村人。
パニックは完全に解決したはずなのに、不満げで苦しい顔なのはなぜだろうかと不思議だった。
しぶしぶ従っているとでも言いたげな態度が、どうにもじれったく、我慢がならない。
「……ガルファンさん。やっぱり、もう一度説明した方がいいと思うんです。彼ら、なんだかまだ不満そうですし、ルールを完璧に納得してもらわないと、行き違いが起きたら……」
懸念を口にする翔馬に、ガルファンは手を止めて少し思案した後、顔を向けて『ハッ』と笑った。
そして歩み寄るなり、手甲を外した手で翔馬の頭をガシガシと雑に撫で回した。
「あいたたたっ……ガルファンさん!?」
「あんなぁ、エスティ。お前の計画と、領主サマ発行の身分証。あのふたつで連中はようやく動き始めたんだぞ?」
ガルファンの言葉は静かだったが、その瞳には宿っていた。
「大人たちは、お前の計画に納得してねえ。領主様の威光ってやつに、しぶしぶ首を縦に振っただけだ。……けどな、俺たちの目的地はここじゃねえ」
頭を乱暴に揺すられながら、翔馬は眉をひそめた。
(……リーデル様の威光に、しぶしぶ従っただけ……?)
確かに、身分証の力は大きく、喧々囂々《けんけんごうごう》の騒動は収まった。
それがリーデルの威光によるとしても、あのままでは不平不満が大きくなり、やがて収集がつかなくなっていただろう。
翔馬は、ガルファンの『逆らえないルール』とでも言いたげな言葉の真意を完全には理解できず、ただ表面上の成功に満足し、肩をすくめた。
「……分かりました。ひとまず動いてるんですし、僕たちは、次の目的地へ進むことですね」
「ああ、そうだ。 俺たちは俺たちのやるべきことをやろうぜ?」
ガルファンはそれ以上何も言わず、腕を組んだ。
出発の刻。宿の主人や近隣の村役人たちが、恭しく馬車の周りを取り囲んだ。
その表情には、領主の客人への最大限の配慮と、機嫌を損ねてはならないという、必死の追従が張り付いていた。
「エスティ様。……この度は本当に、ありがとうございました。配分表のおかげで、我らもしばらくは持ちこたえられます」
宿の主人が、ペコペコと頭を下げながら、温かい布包みを差し出してきた。
「これ……我らからのせめてもの感謝にございます。道中で召し上がってください。焼き立てのパンと、スープ用の乾燥野菜です」
在庫を極限まで切り詰めているはずの彼らが、わざわざ一等品のパンを用意した。
それは純粋な感謝というより、ハルト王家の剣を帯びた少年に対する、ある種の〝供物〟といっていい。
しかし、翔馬はそれを『自分の計画で人たちを救い、認められた証』として、誇らしげに受け取った。
「ありがとうございます。皆さん、どうか力を合わせて乗り切ってください」
翔馬が胸を張って答えると、役人たちはさらに恭しく頭を下げた。
馬が嘶き、車輪がガラガラと回り出す。
完璧な自分の計画で町を救ったという、満ち足りた万能感の翔馬の横で、レオナは違和感を覚えていた。
それは、手を振る大人たちの恭しすぎる態度や、その瞳の奥にある恐れ。そして、一昨日まであれほど怒鳴り合っていた大人たちが、なぜこれほど物分かり良く動き始めたのか。
疑問がないわけではない。だが、嬉しそうに胸を張る翔馬の横顔を見て、彼女は何も言わずに静かに微笑んだ。
御者台で手綱を引くガルファンは、後方に遠ざかる大人たちのへりくだった背中をチラリと見やり、呆れたように鼻を鳴らした。
(……クロイツはラグロニーネに近けえ。……あの領主サマの御威光は、ここらを平伏させるにゃあ十分すぎるってわけだ。当の計算バカは、自分のアタマで救ったと信じ込んでやがるが……。この先、変なことにならんきゃいいが)
翔馬の胸の奥で、無自覚な慢心の芽が、誰にも気づかれずに深く、深く根を張り始めていた。
◇
クロイツ宿を抜けると、街道は勾配を増し、道中で最も険しい山道――ゴラン峠へと入っていった。
標高が上がるにつれ、肌を刺す空気の冷気は一段厳しさを増していたが、薄雪は、登り始めた頃には朝日の熱で綺麗に溶け去っている。
「……おっと、またかよ」
御者台のガルファンが手綱を引き、馬を止める。
そこには、街道を塞ぐようにして、一本の巨大な針葉樹が倒れている。
早すぎる寒波に伴う激しい突風が、浅い土壌に根を張っていた大木を根こそぎ倒していたのだった。
ゴラン峠を貫くルートは、ところどころに馬車同士がすれ違える待避所がある。
峠に入ってから、このような風倒木にあちらこちらで見られた。
「しゃあねえな。エスティ、これも退かすぞ!」
「はい!」
ガルファンは荷台から大型の木こり斧と頑丈な麻縄を取り出した。
翔馬もまた、迷わず馬車から飛び降りる。
元の世界の自分であれば、こんな荒仕事には視線を向けず、腰が引けていただろう。しかし、いまや緑のチュニックと作業用の革手袋が手肌に馴染んでいる。
長旅で鍛えられつつある足腰を使って、翔馬は必死に太い枝へ斧を打ち込み、ガルファンの指示に従ってテコに体重をかけた。
「せーのっ……そら!!」
ガルファンの掛け声とともに二人が一気に力を込めると、みしみしと音を立てて、巨大な幹が街道の脇へと転がり落ちていった。
「ふぅ……」
冷たい空気の中で、荒い息とともに白い汗が立ち上る。
荒仕事に額の汗を拭う翔馬を見て、ガルファンは可笑しそうにニッと笑った。
「へっ、いい腰つきになってきたじゃねえか。書類仕事だけのお坊ちゃんじゃなくなってきたな」
「そりゃ、ガルファンさんに鍛えられてますから」
翔馬は苦笑しながらも、自分の手に宿る確かな実感を心地よく噛み締めていた。
風倒木を切り払い、押し退かす泥臭い作業を繰り返すこと、およそ半日。
早朝、低く構える秋の太陽が天頂を過ぎ、空を朱に染め始めた頃。一行はようやく、峠の九合目付近へ到達した。
「よし、今日はここらで休むぞ」
ガルファンが馬車を広い岩棚の脇に止め、手綱を繋いでから脚の調子を見る。
翔馬とレオナは馬車から降り、冷たい風が吹き抜ける展望の開けた崖際へと歩み寄った。
「わあ……」
レオナから、小さな感嘆の声が漏れた。目の前に広がる圧倒的な光景に言葉を失う。
南方――ハルト王国の方向を振り返れば、自分たちが越えてきた穏やかな丘陵地帯と、遠く紫色の靄の向こうに霞むラグロ領が見渡せる。
そして、北方――これから向かうケーニヒシアの先を見やると、そこには息を呑むような大自然の威容が横たわっていた。
目指す貿易都市テノラーダは、このゴラン峠からさらに北へ進んだ盆地にある。
はるか遠く、ここからその姿を見ることはできないが、その遥か先の地平を断ち切るように立ち塞がり、眩しいほど真っ白な雪を冠する巨大な峰々が、天空へと聳え立っていた。
(あの山脈の麓に……テノラーダがあるんだな)
翔馬は冷たい風を全身に受けながら、遠く輝く白い嶺を見つめた。
自分がこれから向かう未知の世界のスケール感が、胸を強く締め付ける。
「綺麗な景色だな……」
翔馬は、眼前に広がる自然の造形美を見ながら、自分が生きていることを実感した。未来がどうなるか分からない不安はある。でも、だから選ばないのではなく、だからこそ選ぶ。
今は自分の意思があり、自分の足で大地に立っているという実感を、ようやくつかみ始めていた。
岩に腰を下ろし、水筒の水を飲んでいたガルファンが、景色を眺める二人を見上げながら言った。
「エスティ。景色に見とれるのもいいんだが、今のうちに、例のやつを始めておく。野営の準備はその後だ」
「例のやつ……五感の訓練ですか?」
「おう」
ガルファンは水筒の蓋を閉めると、ゆっくりと立ち上がり、翔馬の前に進み出た。
「一昨日、姫さんから教わったろ? お前が使った才覚は、おそらく魔法だ。印もなしに周囲を把握するなんて大それた魔法をやれば、無理が来るのもわけねえ」
翔馬はこめかみに手を当て、一昨日の猛烈な頭痛と倦怠感を思い出した。
書物の読みすぎたとはわけが違うその感覚に、思わず顔を顰める。
「お前は、頭だけで周りを知ろうとする。だから才覚が先に発動して、無理が来ると踏んだ。じゃあ、どうすればいいかって話だが、答えは簡単だ。才覚に頼らず、まずは五感で感じ取れ」
「五感で……」
「そうだ。息を静かに吐き出しながら、自分の周りをより感じてみろ。足元の土の感じ、風の匂い、鳥のさえずり、肌に触れる冷気。そこに意識を絞れ」
ガルファンに促され、翔馬は崖際で静かに目を閉じた。
冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、吐き出しながら、周りの状態を感じ取ろうとする。しかし――その瞬間、翔馬の頭で無意識の解析が回り始めてしまった。
(周囲を把握……。風向きは北北西……かな。風速はどれくらいだろう……気温は……結構低いな。雪が降ってもおかしくない。……背後の木々は……)
環境をデータや理論として処理しようとした途端、脳の奥でチリチリとした嫌な痛みが走り抜けた。
「あっ……?」
「エスティ!?」
翔馬は思わずこめかみを押さえてよろめいた。
無意識のうちに空間解析の引き金が引かれかけ、膨大な情報が脳内へとなだれ込もうとしてきたのだ。
それを見て、咄嗟にレオナが支えた。
「バカ野郎! まーた頭で考えやがったろ!」
ガルファンが呆れたように怒鳴り散らした。
「お前は言葉や数字じゃねえと世界が見えねえのか!? 理屈じゃねえ、ただの生き物として、肌で周りを感じろって言ってんだよ!」
情報だらけの現代社会で生きてきた翔馬にとって、五感で世界を捉えるという半ば野性的な行為は、感覚としてまったく掴めないものだった。
困り顔を浮かべる姿を見て、ガルファンはやれやれといったように息を吐いた。
「……深く考えんな。頭ん中空っぽにしてみろ」
「す、すみません……。頭を空っぽにする……うーん……」
翔馬は、レオナに支えられながら、冷や汗を拭い困惑。
考えあぐねた結果、ふと思い至り、別のアプローチを試みようとした。
(……そうだ。周りの空気を読むことなら、元の世界でもやってきた……。気配を推し量るって、そういうことじゃないか……?)
周囲の雰囲気を察し、他人の顔色を伺って、選択せずに身を潜める。
元の世界で身につけたあの過剰な空気読みの職人染みた感覚。
周囲の気配探知に応用できるのではないかと、翔馬は再び集中した。
その直後――。
ポコッ!
「痛っ!?」
後頭部に、硬く軽い衝撃が走った。
翔馬が振り向くと、すぐ後ろでガルファンがニヤニヤしながら、手の中で小さな木の実を転がしていた。
「お前、いま、周りの空気を読んでみようって考えたろ?」
「え……!? な、なんで分かったんですか!?」
「分かりやすいんだよ。顔に出まくってんぞ?」
ガルファンは、岩の上に座り、目をつむりながら数個の木の実をポンと空中に投げ上げ、それをこともなげにキャッチしてみせた。
「人間同士の空気の読み合いじゃねえぞ。自然はな、お前に顔色なんて絶対に見せてくんねえから、目、耳、鼻、皮膚……五感で音や匂いの波を拾うんだ。お前は頭が良すぎる分、身体の感覚を一切信じてねえんだよ」
「僕の……身体の感覚……」
言葉を失う翔馬に、ガルファンは肩をすくめて言った。
「お前の才覚は凄えが、このままじゃ命がいくつあっても足りねえ。それに、その才覚は、素の五感で世界を感じて初めて意味があると俺は思う。……一朝一夕でできるこっちゃねえがな」
自分の脆さを突きつけられ、翔馬は苦笑いを浮かべる。
頭や才覚に頼らず、この足で大地に立ち、この身体で風を感じ取ること。
一足飛びの奇跡などない。泥臭く、地道に積み重ねるしかないのだと悟り、深く頷いた。
「ま、テノラーダに着くまでまだ時間はある。毎日やるぞ。習うより慣れろだ。さ、野営の準備だ。さっさとしねえと陽が落ちちまうぜ」
「……はい。よろしくお願いします、ガルファンさん」
その真摯な返答に、ガルファンもまた、力強く頷き返すのだった。




