第19話 白き自信、黒き慢心
自分の身体に現れる〝異変〟の片鱗を掴み、二刻ほど経過した頃。
すっかり体調が回復した翔馬は、レオナに伴われて階段を降り、食堂へと向かった。ちょうど夕食の時間だ。先に降りたガルファンも空腹だろう。
そう思って降りた先には、旅情とは程遠い、殺伐とした空気が充満していた。
「だから言ってるでしょう! 次の荷がいつ届くかも分からないのに、これ以上の薪と干し肉を安値で出せるわけがないんだ!」
「そんな殺生な! こっちだってこの寒さで村の子供たちが凍えてるんだ! 金なら払うと言ってるだろう!」
宿屋の主人と思われる肥満体の男と、近隣の村からやってきたという村役人の男が、食堂のテーブル越しに激しい怒号を交わしていた。
周りを取り囲む商人や旅人たちも、不安と苛立ちの混ざった表情でその様子を固唾を呑んで見守っている。
食堂の隅で果実水を飲んでいたガルファンが、降りてきた翔馬たちに気づいて手招きした。
「おいおい、エスティ。もう動いて大丈夫なのか?」
「ええ、すっかり楽になりました。……ところでガルファンさん、この騒ぎは一体何ですか?」
ガルファンは眉をひそめ、声のトーンを落として二人に説明した。
「……北の寒波が強まった煽りか、この先のゴラン峠で嵐があったみてえだ。倒木で道が塞がったせいで、テノラーダの定期輸送が足止めを喰っちまってるらしい」
ここまでの道中、ガルファンから『ケーニヒシアの冬は乾燥した強風が吹く。想像以上に寒いぞ』と聞いていた。それがこちら側まで降りてきたがための嵐。
「……それって、結構まずいですよね?」
「ああ。クロイツは、辺りの村へ物資を配分する中継点だ。その物資が途絶えちまうってんで、備蓄の取り合いを始めてんだろ」
翔馬は、テーブルで怒鳴り合う大人たちの姿を凝視した。宿主の足元を見やると、数冊の分厚い在庫帳簿と、各村からの要望書が無造作に積み上げられている。
乱世の恐怖。例年にない冬の早まりによる物流の停滞。
そして、それによって引き起こされる人間のエゴと混乱。
前までなら、『関わらないでおこう』と目を背け、部屋へ逃げ込んでいただろう。
だが、今は違う。補給廠でギルバートと共に、膨大な書類と向き合い、第四輸送隊の地味ながら確実な運行記録を解析した。
提案は、リーデルから認められ、旅立ちを許された。
そして昨日は、大切な人を守るために自ら剣を抜いた。
それらの成果が、翔馬にとっては大きな自信となっていた。
(逃げてちゃダメなんだ……)
「……ガルファンさん、レオナ。すみません。ちょっと行ってきます」
「エスティ?」
「おい、エスティ!」
翔馬は意を決すると、混乱するテーブルの前へと歩み寄った。
「あの……すみません。少し、その帳簿を見せていただけませんか?」
通る声で発せられたその一言に、喧嘩をしていた宿主と、複数名の役人たちが一斉に振り返った。深い緑色のチュニックに身を包んだ一人の少年。
恰幅のいい宿主は、翔馬の姿を見て、昨日の夕刻、血相を変えて宿に飛び込んできた一団のうちの、抱えられていた一人と気づいた。
「ああ……あんたはお客人じゃないか……」
そして、村役人たちはそんなことも気にせず翔馬へと凄む。
「なんだお前は! ガキの出る幕じゃない! 引っこんでろ!」
「部外者が口を出していい話ではないぞ!」
「いえ、僕はラグロ領のリーデル様より、物流調査を命じられている者です」
翔馬は毅然とした態度で、胸元からリーデルの署名が入った身分証の羊皮紙を提示してみせた。ラグロ領主の印章とハルト王家の文様を目にした宿の主人と村役人たちは、一瞬で毒気を抜かれたように目を丸くする。
彼らはリーデルに従う必要のない、ケーニヒシア王国の住民たちである。しかし、クロイツ宿からの距離は、テノラーダよりもラグロニーネの方が近く、更に両都市からも定期便が走っている。
ラグロ領は別の国とはいえ、ラグロ領の影響も無視できない立場にあった。
翔馬は、知らず知らずのうちに、リーデルとラグロ領の〝威光を活用〟してしまったのだった。
「ラ……ラグロ辺境伯様の……? ……帳簿ったって……あんたのような若いのが何をするって……?」
「話は何となくですが、聞かせていただきました。ただ、パニックを起こして物資を囲い込んでも、誰も救われません。……僕に三刻……いや、二刻の時間をください」
翔馬の瞳には、かつてのような迷いや怯えは一切ない。
論理的で、冷徹なまでに現実を見据えた強い眼差しを見せる。
「補給隊が到着するまでの配分案を作れたら、少しは混乱も収まると思います。資料を精査してみていいですか?」
宿の主人は、その少年の持つ不思議な圧迫感を、背後に見えるラグロ領主の威光と考え、ゴクリと唾を呑む。やがて、無言で分厚い帳簿を翔馬の前に差し出した。
翔馬の動きは圧巻だった。
馬車の荷物から羊皮紙と羽ペンを取り出し、宿の食堂で帳簿を広げた翔馬は、凄まじい集中力で数字の羅列を追い始めた。もとより数学は得意だ。文字が読めて、数字が分かれば、何とか落とし込める。
病み上がりを心配するレオナの忠告を受け、こまめに休憩を挟んでは、帳簿から情報をかき集める。帳簿から追えない数字は、役人らへ問うた。
宿場町に存在する保存食、穀物、野菜、塩、薪の総在庫。
近隣三つの村の人口と、それぞれの村が独自に保持している備蓄。
そして、足止めを食っている補給隊がこの先の峠を迂回し、ここへ到達するまでの日数――ガルファン曰く、五日から六日程度。
(宿場の塩と穀物は余剰がある。逆に、東の村は根菜と薪の蓄えが十分にあるけれど、塩が致命的に足りないようだ。西の村は……)
欲しい答えを少しずつ手繰り寄せていくたび、バラバラだったパズルのピースが噛み合っていく。これなら何とかなるかもしれない。
答えが少しずつ姿を見せるたび、楽しくなっていった。
「主さん、役人の皆さん、聞いてください」
そこから二刻も経たないうちに、翔馬は羊皮紙をテーブルに突き出した。
「北からの補給隊が到着するまでの六日間、クロイツと、他の村にある物を交換してください。宿場の塩と麦を、東の村の根菜と薪といったように。物と取引レートはここに書きました。これなら、東の村は塩不足が解消され、宿場には十分な燃料と食料が入ります」
「な……物物交換だと……!? それでは村人の収益はどうする!?」
「この状況で、どこにお金を使うのですか?」
喚く役員に呈する疑問。緊急事態で収益を気にしている場合ではない。
収益を気にするのであれば、ここにいる商人や旅人たちの不安を煽り、買い取ってもらうのが得策だ。だが、それでは確実に飢える者が出る。
そう考えた翔馬が冷たく言い放つ。
「それで村人を納得させられる、とでもいうのか!!」
「……それでも納得させるのが、役人の仕事なのではないですか?」
まるで『それはお前の仕事だろう』と言外に含む言葉。
役人は恨めしそうな顔をして黙りこくる。
「あと、この宿場に滞在している商人や旅人……僕らも含めて、食事の提供量を、補給隊の到着まで一律で二割減らしてください。お腹が空くでしょうが、皆で我慢するしかありません。周囲の村のことを考えれば、物資をこれ以上無駄にはできません。食事の回数も一日二回に。……この通りに運用すれば、現在の在庫で、この地域の人が六日間を乗り切れます」
提示された整然たる数字と、容赦のない制限のルール。
食堂に集まった大人たちの間に、ざわめきと不満の色が広がっていく。
「……確かに、これであれば持ちこたえられるだろうが……」
「いや……これで納得しろと言われても……」
「おい、冗談じゃないぞ! 飯を二割も減らされたら、商人や旅人が納得するはずない!」
「確実に『損をさせられた』と怒り出す者が出る! 現場の感情を無視しすぎだ!」
「急にこれで『まとめてくれ』と言われてもな……」
翔馬の脳裏にリーデルの言葉が蘇る。
――現実というものは、君の発想ほど柔軟ではない。
――他人の認識や、その他人が持つ〝壁〟は、そう簡単には崩せない。
(……こういうことなんですね、リーデル様)
翔馬は自嘲気味にフッと笑い、眉ひとつ動かさず、不満をぶつける役人たちに対して、机上の羊皮紙を冷ややかに指し示した。
「この計算は、〝全員が生き残る〟ためです。計算上最も効率的ですし、不満や感情を優先して、六日持たずに飢える方がよほど愚かではないですか? ……これでも不服があるのならば、どうぞ申し出てください」
まるで、領主の威光を背景にした押し付け。
逃げ道すら用意されない宿主や役人たちは、翔馬の冷徹な眼差しと、先に示された身分証を思い出し、いよいよ言葉を失った。
仮に、不服を申し出たとしても、この少年の機嫌を損ねるかもしれない。
結果、その主たる辺境伯の不興を買うようなことになれば、それこそ、この地の存亡に直結する。もはや、提案を受ける以外の選択がない。
「……分かった。ひとまず従おう」
「……おい、早く荷を下ろすぞ」
大人たちは不満を胸の奥に押し込め、しぶしぶと、しかしどこか険しい表情のまま、翔馬の提示した配分案に従って動き始めた。
あの喧嘩のような騒ぎが嘘のように、静かにことが動いていた。
ギスギスした沈黙の中で、ガルファンは後ろから腕を組んでじっと見つめていた。
クロイツに満ち始めた微かな〝歪み〟と、大人たちの胸の内にある小さな〝しこり〟を敏感に感じ取りながら、何か言いたげな顔で翔馬の横顔を見つめた。
しかし、能動的に状況を解決しようと動いたその一歩。
小さく息を吐くと、あえて言葉にせず、ただ静かに腕を組んだままでいた。
「ガルファンさん。……僕にも、できることがありました」
翔馬は、自らの手でパニックを解決したという確かな達成感に浸っていた。
自分の弾き出した計算と、リーデルから授かった身分証。これさえあれば、今回のような過酷な状況に見舞われたとしても、誰かの役に立つことができる。
そんな、若さゆえの、少し歪んだ万能感が、翔馬の胸を静かに満たしていた。
「……あぁ。大したもんだよ……」
ガルファンはぽつりと、感情なさげにそう言い、翔馬の背中をぽんと軽く叩いた。
(……国を超えて、このクロイツにも届く、あの領主サマの御威光がな……)
隣に並んだレオナは、翔馬が命懸けで自分を救い、そして今、誰かのために死に物狂いで知恵を絞ったと理解はしている。しかし、どこか腑に落ちない顔を浮かべる周囲の大人たちに、違和感を覚えていた。
「そうですね……それでも、飢えはしのげるでしょうし……」
人々のしぶしぶとした視線と、信頼する仲間たちの言葉。
照れくさそうに頭を掻く翔馬の胸の奥に、自分の頭脳と理論が正しいという、無自覚な慢心の芽。それが静かに、しかし深く根を張り始めていた。
◇
同じ刻。
ケーニヒシアとの国境から遥か南――ラグロ辺境伯領、城郭都市ラグロニーネ。
夜の帳が降りた領主館の執務室。
燭台の炎に照らされ、複数枚の羊皮紙に目を落としていたのは、リーデルだった。その傍らには、老執事ギルバートの姿がある。
「……ギルバート。本国からの〝刺客〟どもは、今どこまで来ている?」
重厚な執務机に向かい合うリーデルの静かな問いかけに、ギルバートは深々と腰を折り、落ち着いた声で応えた。
「……すでに隣領を通過したとのこと。あと二~三日もすれば、このラグロニーネへ〝侵攻〟してくることでしょう」
「ふん……こういう時だけは巻いてくるね」
リーデルは冷徹な笑みを口元に浮かべ、手の中の書類を卓上へ放り投げた。
「あちらには、なにか《《手柄》》を焦る事情でもあるのでしょうな」
ギルバートが静かに追認し、熟考する。
現王派は、この兄妹をラグロ領に封じ込め続けるつもりでいる。もし、本国へ戻る素振りを見せれば、あらゆる手で妨害を加えてくるだろう。
一方、前王の遺児を露骨に害すれば、前王派へ反論材料を与えるばかりか、世論の反発を招き、現国王の立場も危うくなるのは明白。
そうした危ういバランスもあってか、実のところ、ヴァルメイ支援において最も資材を供給しているのは現王派だった。
「……フフ」
リーデルは背もたれに身体を預け、不敵に笑う。
「二人をテノラーダへ遠ざけておいて、本当に正解だった。……あの子たちがこの街にいない以上、奴らがどんな毒針を刺そうとも、痛くも痒くもないからね」
「御意に。……して、どのように《《お相手》》なさるおつもりで?」
リーデルはプラチナブロンドの短髪をかき上げ、氷雪のような青い瞳を妖しく光らせた。
「決まっているだろう? ありとあらゆる法と手続きを駆使して、査察官どもをこの屋敷で《《大歓迎》》してやるつもりだよ。本国から遠く離れたこの地では、少なくとも私が《《王》》だからね」
領主としての知略と、不屈の胆力。
自分を頼り、そして自分の代わりに大切な妹を守って旅立ったあの少年――エスティの覚悟に応えるかのように、リーデルの口元には不敵な笑みが刻まれていた。
「あの子たちが無事にテノラーダへ着き、何かを学び取るまで……そうだね、じっくり二か月は、連中を書類の山に埋もれさせてみようか?」
「フフフ……それは何とも楽しそうにございますな、リーデル様」
深く刻まれた目元の皺の奥で、獣のような昏い光がギラリと失笑を漏らした。
北方へと延びる街道を行く少年たちと、ラグロニーネで一人本国の泥沼を受け止める若き領主。二つの場所で、それぞれの譲れない戦いが、静かに、そして力強く続いていた。




