第17話 急襲、境界線と刃
城郭都市ラグロニーネを出発して五日を数える頃。
車窓の景色は、ハルト南西部の穏やかな丘陵地帯から、川筋に沿った谷地へと移り変わっていた。
北方ケーニヒシア王国とをつなぐ街道筋には、点々と村落と宿場町が連なる。時には村落で空き家を借り、時には宿で休息を取りながら、二頭引きの馬車は、ハルトとケーニヒシアを分かつ、巨大な石造りの関所へと到達した。
川水によって削り出された谷底に聳える堅牢な城壁と、幾重にも張り巡らされた防壁。槍を携えるハルトの国境警備騎士たちが、厳しい眼光で往来する人々を監視している。
「止まれ! 身元と荷を改める!」
御者台のガルファンが手綱を吹き、馬車を静かに停止させた。
甲冑を鳴らして歩み寄る騎士へ、ガルファンは胸元から取り出した重厚な羊皮紙を手渡す。
「ハルト王国ラグロ辺境伯領主、リーデル・グライアス・ハルトニア様より賜った身分証と親書だ」
騎士は、身分証と、書状に捺されたラグロ辺境伯領主の文様を模す、赤い印を注視した。
流麗な筆致で記されているのは、一行が領主の命を受け、ケーニヒシア王国との物流実態調査および神殿間の交流に向かう公務である旨。
「……これは失礼を。確かに、ラグロ辺境伯閣下の親書に間違いございません。……して、他の方はどちらに?」
「後ろだ」
促された騎士が窓から社内を覗き込む。
質素ながら丁寧に作られた内装には、深い緑のチュニックを着た、珍しい黒髪黒目の少年と、質素ながら上質なウールの旅衣装に身を包んだ、美麗な少女がいる。
書状には詳細な身元こそ伏せられていたが、領主が直々にその身元と安全を保証する旨が明記されていた。
ふと、騎士の視線が少女の胸元で止まる。
それは外套の合わせ目に光るひとつの装飾品。六花の氷晶――いわゆる雪の樹枝状結晶を模した銀細工に、少女の瞳を思わせる青い宝石が埋め込まれている。水神の神殿の巫女にのみ許される証だった。
その気品ある佇まいに覚えのある騎士は息を呑み、即座に姿勢を正した。
深く詮索してはならない、高貴な秘密の旅路なのだと察したのだ。
「……水神の神殿の高貴なお方と、そのお付きの方とお見受けいたします。……数々の非礼、どうかご容赦を」
「いや、衛兵の役目を果たしたまでだろう。気にするな」
ガルファンが軽く応じると、騎士は書状を恭しく返し、胸に手を当てて深々と頭を下げた。
「良き旅路をお祈り申し上げます。……なお、この先は例年より早く寒波が降りており、飢えた獣の報告もございます。どうかお気をつけて。――開門! 皆のもの、最敬礼でお通ししろ!」
騎士の号令に合わせ、重々しい鉄製の門が引き上げられる。そして、両脇の衛兵たちが一糸乱れぬ動作で高く剣を掲げた。
これがこの国の最敬礼なのかと、窓の外を見つめる翔馬は息を呑んだ。
馬車はいよいよケーニヒシア国内へと足を踏み入れる。
谷沿いに進んだ先の橋で川を渡り、つづら折りの坂で標高を稼ぐにつれ、車窓の景色が変化する。ハルトの穏やかな広葉樹は少しずつ姿を消し、代わりに鬱蒼とした巨大な針葉樹が深い森を形成していた。
太陽は頭上にあるというのに、薄暗い雰囲気には異様ささえある。
揺れる車内で、翔馬はこめかみの奥に奇妙な感覚を覚えていた。
北へ向かうにつれ、少しずつ芽生えていた違和感が、よりハッキリしてくる。
風のそよぎ、馬蹄の音、擦れ合う葉の微細な音――感覚が恐ろしいほど敏感に研ぎ澄まされていく。
(なんだろう……? 感覚が冴えていくような……)
単なる旅の緊張ではない。書庫で文字を読み解いていた解析の力が、周囲の“空間”そのものを走査するように、広がりはじめていた。
視界の端にある草木の揺れや地形の起伏が、荒い感覚のまま脳裏へ滑り込んでくる。自身に起こる変化に戸惑い、翔馬がこめかみを抑えたその時。
「……チッ。……お二人さん」
突然、前方の御者台からガルファンの低い舌打ちが響き、ガラガラと鳴っていた車輪が軋んで止まった。
「……ガルファンさん?」
「……馬車から出るなよ」
ガルファンが静かに御者台から飛び降りる。濃紅の瞳は野性の鋭さを宿し、革の手甲を締め直しながら、周囲を注意深く睨み据えた。
ただ事ではない。翔馬がレオナと共に馬車から周囲を見回した瞬間、進行方向左手の暗がりから、不気味で異質な“違和感”がチリチリと刺すような感覚となって脳裏を走った。
(――あ、来る!?)
刹那、木々の隙間からぬうっと姿を現したのは、三体の巨大な獣だった。
尖った濃灰色の毛並みに血走った赤い目、白く鋭い牙。
「山魔狼……関所の騎士が言ってたのはこいつらか!」
ガルファンは低く身構えた。
山魔狼は、標高の高い山奥で、数十頭の群れをなして暮らす習性を持つ大型の狼で、特にマナを強く浴びた個体をいう。
このような街道筋に複数体が現れることなど、通常では考えられない。早すぎる寒波によって山奥の食糧が枯渇し、群れが崩壊。食い詰めたはぐれ個体が、マナの匂いと人を求めて街道まで降りてきたのだった。
「グアァッ!」
先陣を切った一体が、ガルファンの喉元を狙って地を蹴った。鋭い爪が喉元を裂かんと迫る寸前で、ガルファンはわずかに体を捻ってその突進をかわすと、通り抜けざまに、強烈な裏拳をその横腹へ叩き込む。
ドンッ!!
まるで爆発のような衝撃音が響き、重さ数百キログラムはあろう巨体が、悲鳴を上げながら木々をなぎ倒す。
そこに間髪入れず、ガルファンの死角から二体目が襲いかかる。ガルファンは踏み込んだ左足で地を割り、沈み込む体術でいなすと、顎下へ突き上げを一閃。
ゴキッ、という嫌な音が響き、二体目は泡を吹いて沈黙した。
(すごい……! 武器もなしに……!)
息を呑む翔馬たちの前で、ガルファンが足元に落ちた影を捉える。
「上か……!!」
樹上からまるで弾丸のように襲いかかる三体目を、ガルファンは迎え討つかのように飛び上がって、首筋を鷲掴みにする。そのまま凄まじい膂力で旋回し、豪快に地面へと叩きつけた。
ドガァンッ!
追撃の踏みつけが肋骨を砕き、魔狼の口から大量の血が吹き出す。
戦闘開始から、わずか十数秒。武闘僧侶の血を引く傭兵の、圧倒的な打撃術だった。
その一部始終を見届けた翔馬とレオナが馬車から降り、感嘆の声を漏らす。
「ガルファンさん……すごい……」
「見惚れるような強さです……」
「なあに、こんなもん朝飯前だぜ」
肩を竦め、ガルファンが息を整えようとしたその刹那――。
ガサッ……!
木々をなぎ倒し、絶命したはずの一体目が、狂気に満ちた目を血走らせて跳ね起きた。内臓を潰されていながら、体内のマナを暴走させ、最後の力を振り絞って跳躍する。その狙いはガルファンではない。
――馬車の傍らに立つレオナだ。
「なっ……こんの死に損ないがっ!」
ガルファンが地を蹴ろうとするが、三体目の血脂で足元が滑り、体勢を崩す。
間合いが、届かない。
「姫さん――!?」
レオナの瞳に、迫り来る巨大な顎と、刃のような牙が映る。
絶体絶命の瞬間、その横に立っていた翔馬の中で――溜め込まれていた違和感が、爆発的に弾けた。
――キン!
脳裏で澄んだ鈴の音が響く。
翔馬の視界からあらゆる色彩が消え失せ、世界が恐ろしいほどの緩慢さで回り始める。空中で牙を剥く獣の毛並み、飛び散る土煙、青ざめるレオナの表情、体勢を崩したガルファンがハッキリと見て取れる。
次の瞬間、翔馬を中心とした周囲十メートルほどの空間が、立体的な網目模様となって、脳裏に可視化された。
山魔狼の跳躍軌道、レオナとの距離。
そして――自分の腰にある長剣。
自らの体躯で繰り出せる最も無駄のない斬撃の軌道が、一筋の光の線となって脳裏に閃いた。直感的に悟った翔馬は、脳裏に滑り込んできたその線に導かれるように右手が動く。
ギルバートから毎夜叩き込まれた、愚直な剣術の基礎。
左親指で鍔を弾き、黒革の鞘からカチャリと鯉口を切る。右足が一歩、深く地面を踏みしめる。
――スゥッ。
濃紺の柄を握りしめた翔馬の右手から、細身の長剣が鞘を滑り出る。
王家の文様が刻まれた鈍銀の鍔が、遅延した静寂の世界で一瞬だけ煌めき、鏡のような輝きを放つ冷たい刀身が下から上へ――斜め一閃。
光の軌道を正確になぞった切っ先が、空中の山魔狼の首筋を、寸分違わず斬り裂いた。
ズシャッ――!!
毛を払い、皮を裂き、肉を断ち、骨を砕く生々しい手応え。生物の命を、鋼鉄の刃で奪い取る衝撃が、掌を突き抜けて翔馬に伝わってくる。
プシャッと鮮血が飛散し、首を深く断たれた山魔狼は、絶叫をあげる間もなく、回転しながら翔馬とレオナの足元へ崩れ落ちた。
「……あ」
次の瞬間、遅延していた世界が一気に加速し、元へと戻る。
赤黒い血が、乾いた落ち葉の地面をじわじわと染めていく。
同時に、翔馬の脳を暴力的な過負荷が襲った。こめかみを極太の釘で貫かれたかのような激痛と激しい眩暈。そして、遅れてやってきたのは――底知れない恐怖だった。
身体に残る肉と骨を断ち切る感触、血の匂い。
足元で痙攣し、死んでいく獣の生々しい質感。
自分が自らの意思で剣を振り、その命を奪った事実。
「はっ……つ……あ……っ」
翔馬の呼吸が急激に乱れ、膝の力が完全に抜けた。
ドサリ。
そのまま湿った地面へ情けなく尻餅をつく。
長剣を握りしめる右手は、激しくガクガクと震えていた。
「お……おいおいおい……!」
駆け寄ってきたガルファンが、絶句したように目を丸くして立ち尽くす。
息の残った個体を見落とした不覚を猛省しつつ、その瞳には強烈な困惑と驚愕が宿っている。
「エスティ……お前、今……なんだその剣速は……!? 空中で急所を一閃……? 素人の動きじゃねえぞ!?」
ガルファンの問いかけも、まるで重い水の中にいるかのように遠い。
極めて研ぎ澄まされた感覚の反動か、激しい頭痛と呼吸の中で、必死に胸を押さえることしかできなかった。
「エスティ――ッ!!」
悲鳴を上げ、レオナが翔馬の元へ崩れ落ちるように駆け寄る。
震える翔馬の身体を、両腕で強く、強く抱きしめた。
「エスティ! 大丈夫ですか!?」
大粒の涙を零しながら、レオナは必死に言葉を紡ぐ。
涙は、命の危機に瀕したからではない。自分を守るために、剣も使えないはずの少年が、恐怖に顔を歪ませながらも前に飛び出し、自分を庇ってくれたからだ。
「私を……私を守ってくださったのですね……! ありがとう……ございます、エスティ……!」
後ろから抱きすくめられた腕から伝わる、レオナの温もりと、必死の感謝の言葉。
翔馬は、右手に握りしめた長剣を地面に置くと、重く震える手を持ち上げ、レオナの華奢な腕にそっと重ねた。その温かさが、翔馬の凍りついた心を、少しずつ溶かしていく。
「レオナ……無事で、よかったです……」
激痛に顔を歪ませながら、翔馬は心の中で静かに噛み締めていた。
(僕は……抜けたんだ……。大切なものを守るために……剣を抜けたんだ……)
リーデルから託された、過去の悔恨と未来への期待が込められた一振りの長剣。
それを携えた翔馬は、北へ向かう過酷な街道の上で、この世界の当事者としての第一歩を、確かに踏み出した――のだが。
「エスティ……?」
安堵が巡った瞬間、翔馬の意識はプツリと途切れた。
レオナの腕に添えられていた手が、力なく地面へ落ちる。体温を感じていたはずのそこに、秋風が容赦なく吹き付けた。
「え……? 嘘……エスティ!? エスティが……! う……うああ……!
胸に抱くその身体を揺さぶり、レオナが叫ぶ。
「姫さん、落ち着け! 気を失っただけだ! コイツは生きてる!」
「でも……でも! エスティが……!!」
ガルファンが翔馬の息を確認し、取り乱すレオナの両肩を掴んで一喝した。
「いいから落ち着け! 峠を超えた先に宿場がある! 運ぶぞ! 手伝え!」
「う……うぅぅぅ……! ううう……!」
気迫に圧されたレオナは涙を拭い、翔馬が落とした剣を掴んでよろよろと立ち上がった。ずしりとした重みゆえか、動揺ゆえか、はたまた視界を塞ぐ涙ゆえか、足元が覚束ない。
「ったく! 頼むからしゃんとしてくれ!」
物静かで柔和な姫君と、髪を振り乱しながら泣き叫ぶ少女。二つの姿がガルファンの中でまったく結びつかず、激しい困惑を覚える。
二人は、友人でも、主従でもない。まして、恋仲でもないはずだ。
この狼狽えようは一体なんだ?
凛とした少女の弱点を感じながら、ガルファンは思う。
(あんの領主、俺に何か隠し事してやがんな……!?)
ガルファンは翔馬を背負い、レオナの手を引いて馬車へ押し込んだ。
夜の帷が降りる前に、一刻も早く峠を越えなければならなかった。




