第16話 腰に帯びる剣、その重み
午後の陽射し柔らかく、しかし秋風を感じる中。
御者台でガルファンが静かに馬を走らせる。
その後ろ、揺れる馬車の客室で、翔馬とレオナは膝を突き合わせて座っていた。
「……テノラーダって、どんな街なのでしょうね」
膝上の革鞄に手を置きながら、翔馬がぽつりと呟いた。
この世界には、写真や映像というものがない。あるのは、書物に描かれた絵くらいであり、ラグロニーネとの位置関係は地図で把握している程度でしかなかった。
向かいに座るレオナは、外套の裾を優しく整えながら、思いを巡らせるように紫紺の瞳を翔馬に向けた。
「私は行ったことはありませんが……巨大な盆地に拓かれた大きな街だそうです。何でも、深い黒色の石が採れ、それを用いた建物が並んでいるとか。今進んでいるこの道を含め、八本の街道の起点になっているとも聞きます」
「なるほど。だからこそ、物資が集まる街として機能しているんですね」
「ええ。それに、あの街には“炎神の神殿”があります。それもあり、武道や鍛冶に優れた方々が集うのだそうです」
「へぇ……。そういえば、特産品が多いと補給廠でも聞きました。ガルファンさんの故郷みたいですし、どんな街なのかとても楽しみです」
レオナは、旅に出ることが決まってから、テノラーダに関して調べられる範囲で調べていた。それもこれも、翔馬の旅が快適で、安全なものになるために。
互いに知っている知識を繋ぎ合わせ、これから向かう未知の街に思いを馳せる。
そんな真剣な会話の途中、馬車が街道の大きな窪みに足を取られ、ガタリと大きく傾いた。
「あっ……!」
体勢を崩したレオナの身体が、斜め前へと大きく滑る。
――危ない! そう叫んだ翔馬は咄嗟に腕を伸ばし、彼女の華奢な肩と背中を抱きとめた。
「っ……! すごく揺れましたね。大丈夫ですか?」
「あ……。はい、ありがとうございます、エスティ……」
揺れが収まったことに安堵した刹那、腕の中に収まったレオナと視線が合う。その身体は驚くほど小さく、柔らかかった。
ほのかに漂う、神殿のハーブとウールの温かい香り。
間近で重なる互いの視線に、翔馬の心臓がどっと跳ね上がった。
慌てて彼女の身体を離し、翔馬は顔を真っ赤にして頭を掻く。
そして、視線をあちらこちらへと泳がせた。
「ご、ご、ごめんなさい! ど、どこか痛めてはいませんか!?」
「いえ、その……大丈夫です……。……すみません……」
レオナもまた頬をほんのり桜色に染めながら、椅子へ座り直すと、照れくさそうに膝の上の手を握り直した。
幌の中に流れる、どこか気恥ずかしい静寂。
二人は照れ隠しのように、外の風景へ視線を逸らした。
「お二人さん、この道は荒れてるところも多いからな! 気を付けな!」
馬車の中へ言葉を投げるガルファン。
翔馬には、どことなく楽しそうに聞こえたが、気の所為だろうか。
「は、はい……」
一部始終を見ていたわけではなかろうに。
翔馬は、そう答えるので精いっぱいだった。
◇
秋の陽光が西の山並みから低く差し込むようになり、街道に薄暮が訪れた。
大きな町のない北の道。一行は、街道から少し外れた巨岩の陰に馬車を止める。
風を遮るのに格好の岩棚の下で、一行は初日の野営の準備に入った。
「よし、今日はこの岩棚の下で夜を明かすぞ。おいエスティ、客気分でぼーっとしてないで手を動かせ!」
御者台から飛び下りたガルファンが、同じく居室から降りた翔馬の背中をバシッと叩く。
「あ、はい! 何をお手伝いすればいいですか?」
「薪集めと火起こしだ。そこらの枯れ枝を集めて、風下に組み上げろ。なるべく乾いた枝にしねえと爆ぜるからな。火打ち石と火口はこれを使え」
手渡されたのは、硬い角閃石と小さな鉄片。そして乾燥した木粉と布切れだ。
元の世界で、電子レンジやせいぜいガスコンロしか使ったことがなく、ライターすら触った経験のない翔馬にとって、火起こしは完全な未知の領域だった。
薪というには頼りない折れ枝を集め、教えられた通りに組み上げた。
そこに木粉を少量と、布切れを置く。勢いよくカンカンと石を打ち合わせるが、火花は虚しく手元で散るばかり。
一向に火種へと燃え移らず、焦れば焦るほど手が滑る。
「うええ。……全然つかない……」
「ハハハ! 計算はできても、火ひとつ起こせねえか!」
馬の世話を終えたガルファンが、可笑しそうに大笑いしながら歩み寄ってきた。
「……もし道中で俺が倒れてみろ。お前が火を熾して姫さんを温めてやらなきゃならねえんだぞ?」
「そんな縁起でもないことを言わないでくださいよ……」
冗談にしても性質が悪い、とガルファンにそれとなく不満をぶつけたあと、翔馬はため息を吐いた。
とはいえ、本当にそうなってから『何もできません』では、この先の旅どころではなく、本当に命に関わるんだと思い直す。
「いいか? 火打ち石は力任せに叩くんじゃねえ。こいつを……こうやって、擦り付けるように滑らせて、火花を火種に“落とす”感じでやってみろ」
「はい。もう一回やってみます」
石と鉄片を持ち直す。カンッ、と澄んだ音が響き、散った大きな火花が木粉へと落ちる。すると、小さな赤い火が立ち上った。
すかさず、翔馬がそっと息を吹き込むと、パッと小さな炎へと広がった。
「つ、ついた……! ガルファンさん、つきました!」
「おう、上出来だ! 筋は悪くねえぞ!」
歓声をあげる翔馬の横に、夕食分の荷下ろしをし終えたレオナがそっと歩み寄ってきた。彼女は小さく微笑むと、懐から取り出した白いハンカチを濡らし、翔馬の頬へ優しく伸ばす。
「エスティ、顔に煤が。……少し動かないでくださいね」
「え……あ、すみません……」
間近に迫るレオナの可憐な顔。
濡れたハンカチが、翔馬の頬や額の煤を、丁寧に、優しく拭い去っていく。
指先の微かな温もりが肌に伝わり、翔馬は息を止めて固まっていた。
「ふふ、お疲れ様でした、エスティ。とても温かい火ですね」
ふわりとした笑顔を向けられる。
燃え上がった焚き火の光は、二人の顔を橙色に優しく照らし出していた。
「……あのな、人の前でいちゃついてんじゃねえ。さっさとメシにすんぞ」
ガルファンが用意した鍋で煮込まれているのは、この地方で飼育されている、牛のような生き物の干し肉に、蓮根のような形状を持つ人参色の根菜の輪切り、そして道中でレオナが手早く摘んできたハーブを入れた塩味の温かいスープだった。
「よ~し、スープができたぞ。熱いうちに食いな」
「ありがとうございます、ガルファンさん」
木彫りの椀にスープを装い、二人に手渡すガルファン。
翔馬は、湯気を立てる木椀から立ち上る香りに思わず唾を飲み込む。
一口すすると、喉から、食道から、胃に至るまでじんわり淀みなく熱を伝え、馬車に揺られ続けた身体の隅々に沁みわたっていくようだった。
その深みのある塩味と、ミントのようなハーブのよい香りが鼻腔から抜け、身体が芯からほぐれていくのを感じる。
「美味しいです……! ガルファンさん、料理も上手なんですね!」
「へっ! 輸送隊やってりゃ、嫌でも飯くらい作れるようになるんだよ。……さて、俺は周囲を見回ってくる。お前らは火の側で温まってな」
ガルファンは自分の椀を素早く空にすると、革の手甲を締め直し、闇の中へと消えていった。
静まり返った岩陰。
翔馬が、集めた枯れ枝を薪に投じる。
パチパチと爆ぜる音と、遠くでそよぐ秋風の音だけが響いている。
スープのおかげもあるのだろうが、焚き火の暖かさが少しずつ眠気を誘う。
翔馬は膝の上に、リーデルから託された黒革鞘の長剣を静かに横たえていた。
晴天の空をそのまま映し取ったような美しく艶のある持ち手に、鈍銀色の鍔に刻まれた、ハルト王家の文様。
行灯の光とは違う、焚き火の不規則な揺らめきの中で、剣は鈍い光を放つ。
「……エスティ」
左隣に座るレオナが、スープの椀を抱えながら、静かな声で言葉をかけた。
彼女の紫紺の瞳は、翔馬の膝の上の剣を見つめている。
「……その剣について、少しお話ししてもよろしいでしょうか」
「え……? あ……はい」
レオナは、どこか切ない表情を浮かべたあと、静かに息を吐き、覚悟を決めたかのように語り始めた。
「……その剣は……リーデル兄様が十五歳のとき、お父様から成人の祝いにと贈られたものです。兄様はそれをとてもとても大切にし、外遊の際も、稽古の際も、肌身離さず腰に帯びておられました」
翔馬は息を呑む。目の前の少女は、視線を落として続ける。
「そして……あの日も」
夜の冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。
寒さからではないだろう。その声が、瞳が、かすかに震えた。
「あの日……お父様とお母様が、兄様の前で魔族に害されたあの日も……兄様の腰には、その剣が在りました」
レオナは視線を剣から焚き火の炎へ移し、そのゆらめきを見つめた。
静寂の中、ぱちんと薪が爆ぜる音が周囲の闇に落ちる。
「でも……あの日、兄様は、あまりの恐怖と絶望に、その剣を抜くことが出来なかったといいます。目の前で……大切な家族が斃れていく中……ただ、剣を抱きしめて、震えることしか出来なかったと……」
翔馬は、自分の心臓がばくばくと大きな音を立てているのを感じる。
まるで耳の横で鼓動しているかのように、はっきりと。
「兄様はそれ以来、ずっとご自身を責め続けておられました。『自分は、守るべきものも守れなかった』『自分は、剣を抜くことすらできない臆病者だ』と……。ラグロ領に封ぜられてからも、兄様はその剣を自室の棚の奥深くに仕舞い込み、二度と触れようとされませんでした」
レオナは、翔馬の膝にある細身の長剣を真っ直ぐに見た。
そして、意を決して、翔馬を見据えた。
「そんな兄様が……ご自身の“喜び”であり、“悔恨”そのものと言えるその剣を、あなたに託したのです。……エスティ、兄様はあなたに、『守るべきものも守れなかった』過去の自身を重ねているのかもしれません」
「……リーデル様が……そんな……」
翔馬の胸の奥が、熱く、痛いほどに締め付けられ、リーデルが自分に告げた言葉が、翔馬の脳裏に鮮烈に蘇る。
――脅威に、危機に出遭ったとき、自ら剣を振って進める男になれ、エスティ。
過去の、剣を抜けなかった自分という過去の傷痕を知った今、リーデルの言葉の本当の意味と重みが、波のように翔馬の全身に押し寄せた。
絶望の淵に立たされ、何も守れなかった男が、自分の代わりに未来を切り拓いてほしいと願ったバトンのように思えた。
(そうだったんだ……)
翔馬は、黒革の柄を強く握りしめた。
金属の冷たさと、革の質感が指先に伝わってくる。
このズシリとした重みは、単なる鉄の重さではない。
まるで、『私のように後悔するな。大切な者を守るため、自ら剣を抜ける男になれ』という、リーデルの魂を削るような切実な祈りと、妹を守ってほしいという無音の叫びそのものだ。
「……僕に、抜けるでしょうか。……いざという時、大切なモノを守るために……」
「はい」
レオナは迷いのない、花が咲くような微笑みを向けた。
「兄様は、あなたなら、大切なものを守るために剣を抜くことができると……心から信じているからこそ、その剣を託したのだと思います」
そして「もちろん、私も」と。
何の裏付けもないその保証。レオナの願望が含まれてもいるのかもしれない。
しかし、翔馬にとっては、この兄妹の思いが、祈りが、何よりも嬉しかった。




