第15話 北への旅路、二人の仲間
出立の朝。
城郭都市ラグロニーネは、乳白色の深い朝靄にすっぽりと包まれていた。
冷たく湿った空気が、街路の石畳をじわじわと濡らしている。
領主の屋敷の正面には、一台の馬車が佇んでいた。
二頭の逞しい引き馬が、寒さに鼻息を白く吹き出していた。
その御者台に腰を下ろし、革の手甲を嵌めた手を温めながら待っていたのは、護衛のガルファンだ。
やがて、屋敷の重い木扉が、滑らかな音を立てて開く。
そこに姿を現したのは、深い緑のチュニックに厚手の外套を羽織り、腰に一振りの長剣を佩いた翔馬と、質素だが気品ある旅衣装に身を包んだレオナだった。
しかし、二人が抱え、あるいは肩に担いでいる荷物の量を見た瞬間、ガルファンは呆れ顔で額を押さえた。
「……おいおい、ちょっと待てお二人さん……」
ガルファンは御者台から飛び降りると、レオナの肩にかかる革鞄と、翔馬の抱える大きな木箱をひょいと取り上げた。
「お前ら、引越しでもする気なのか!? こっから二十日間、北の街道を行くんだぞ!? 旅の基本は、必要最小限の荷物だって散々言っただろが!」
がーっと喚くガルファンに対して、翔馬が恐縮そうに苦笑いし、隣のレオナも申し訳なさそうに身を縮める。
「すみません……これでもかなり絞ったんですが、書庫で使っていた羊皮紙や資料、それにレオナの調合道具などが入っていて……」
「エスティがお仕事に使う資料や、長旅で必要な薬草類は欠かせないと思いまして……」
はーっと息を吐いて肩をすくめるガルファン。旅慣れない二人にと自分を登用した領主リーデルの顔が脳裏に浮かぶ。
「ハハッ、まあいいさ! 立派な馬車を仕立ててくれた領主サマに感謝しな!」
そう言い、ガルファンは手際よく、馬車後部の荷台へ荷物をバランスよく固定する。その手慣れた無駄のない動きに、翔馬とレオナは感嘆のため息を漏らした。
「よーし、荷物はこれで全部だな? さ、乗った乗った! 日が昇りきる前に北の門を抜けるぞ!」
ガルファンに促され、翔馬は馬車へと乗り込み、レオナの華奢な手を取る。
間もなく、馬車はガラガラと音を立てて動き出した。
翔馬とレオナが客室から屋敷を見やると、そこには見送る二人の姿があった。
深く腰を折る老執事ギルバートと、プラチナブロンドを冷たい秋風に揺らしながら,片手を軽く上げるリーデル。その眼差しには、どこか期待と覚悟が入り混じっているようにも見えた。
小さくなっていく屋敷のシルエット。
翔馬が過ごした“安寧の檻”は、朝靄の奥へと静かに消えていった。
◇
ガラガラと軽快な音を立てて回る車輪の振動が、床板を通して腰に伝わってくる。
朝靄に包まれたラグロニーネの北門を抜け、すでに二刻ほど。
馬車は城郭都市の北に広がる、緩やかな丘陵地帯の登り坂を進んでいた。
後方、小さい窓から外を見やれば、かつて翔馬を匿っていた街の高く強固な石壁が、淡い紫色の靄の向こうで小さなシルエットとなって佇んでいる。
(……本当に出てしまったんだな)
翔馬は、外套の胸元を軽く引き寄せ、息を静かに吐き出した。
ほんのふた月ほど前。
自分は何の目的もなく、周囲の顔色ばかりを伺いながら高校生活を送っていた。
突如、何も知らずにこの世界へ投げ出され、震えていた。
自室の衣装棚に残してきた制服のブレザー。今、自分の腰にある王家の長剣。
流されるまま生きていた過去が、あの小さくなった街の影と重なって見える。
翔馬は胸の中で静かに呟き、前を向いた。
(……リーデル様、ギルバートさん。補給廠の皆さん。行ってきます)
その向かいに座るレオナは、上質なウールの旅衣装の膝上で両手を揃え、凛とした佇まいで静かに揺られていた。
神殿の豪奢な衣装ではない彼女は、可憐な少女そのものの華奢さを見せているが、その瑠璃色の瞳には、不思議と不安の影はなかった。
「お二人さん、生きてるかー? 酔って吐くなら馬車の外にしてくれよな!」
前方の御者台の窓から、威勢のいい声が飛んでくる。
手綱を器用に操るガルファンだ。翔馬は苦笑しながら、御者台へと顔を出した。
「大丈夫ですよ、ガルファンさん」
「ハッ、そうかよ。だが顔色が少し青いぜ。都会育ちのぼんぼんには、馬車の揺れもなかなか体に堪えるだろ?」
ガルファンはチラリと翔馬を見やり、ニッと野性味のある笑みを浮かべた。
ハルト王国の南西部に位置するラグロ領は、秋の深まりとともに穏やかで心地よい風が吹いていたが、北へ進むにつれて、肌に触れる空気にわずかな冷たさを増すのが分かった。
街道沿いに並ぶ木々も、徐々に広葉樹に、青々とした針葉樹が混じりつつある。
「……あの、ガルファンさん。ひとつ聞いてもいいですか?」
翔馬は風に黒髪を揺らしながら、前方を見つめるガルファンに問いかけた。
「あん?」
「なぜ、僕たちの護衛を引き受けてくれたんですか? ガルファンさんは第四輸送隊の隊長で、補給廠にとっても大切な人のはずなのに……」
翔馬の疑問は当然だった。
領主であるリーデルからの命令とはいえ、旅慣れない二人を抱えながら、往復で四十日もかかる旅程だ。熟練の輸送隊長にとっても過酷な負担であると考えた。
しかし、ガルファンは手綱を握り直すと、「ふん」と鼻で笑った。
「なんだ、そんなことか。……まあ、領主サマから直々に『エスティという荷物を無傷で届けられるのは、お前しかいねえ』って頭下げられたからな」
ガルファンは、リーデルから聞いた『本国中央の政争』といった暗い事情には一切触れず、ただ、一目置かれた男としての誇りを前面にして語る。そして。
「……あとな、俺も、お前みたいな“おもしれえヤツ”との旅を、いっぺんやってみたかったんだよ。ただの数字から、俺たちのやり方を見抜きやがった野郎だ。そんなやつが外で何をやるのか、横で見たくなったのさ」
「……そうでしたか」
翔馬は少し照れくさそうに頭を掻いた。
だが、すぐに少し申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ガルファンさんが抜けた後、第四輸送隊は大丈夫なんですか? 僕のせいで事故でも起きたら……」
「ハッ! お前が心配することじゃねえよ!」
ガルファンは手甲を嵌めた手で自分の胸を叩きながら、心底可笑しそうに笑った。
「あいつらは、三年間で俺のやり方が身に染みてる。それに『俺がいねえ間、調子に乗んじゃねえ。そんなことしたら戻ってから叩きのめす!』って言っておいたから、事故を起こすどころか、前より“臆病”になってるはずだぜ!」
「あはは……なんか、ガルファンさんらしいですね」
翔馬は胸を撫でおろした。
自分が補給廠で重ねてきた泥臭い作業が、巡り巡って現場の安全を支えている。その実感が、小さく胸を温めた。
◇
太陽が天頂をやや過ぎた頃。
丘陵地帯を抜けた街道沿いの見通しの良い平原で、馬を休ませるための小休止をとることになった。
ガルファンが馬に水をやり、積んできた干し草を与えている間、翔馬とレオナは昼食として、干し肉と固焼きのパンを口に運びながら、脚を伸ばしていた。
「……あのよ、エスティ。ひとつ聞きてえんだが」
馬の世話を終えたガルファンが、首の後ろを揉みながら歩み寄ってきた。
どこか困惑したような、バツの悪そうな顔をしている。
「え? 何ですか?」
「……そっちの『お姫様』のことだ」
ガルファンは声を少し落とし、翔馬の隣に座るレオナに視線を向けた。
「私のこと、ですか?」
レオナは、瑠璃色の瞳をガルファンに向け、不思議そうに小首をかしげた。
「さっき『どうぞレオナとお呼びください』なんて言われたが……流石にそんなわけにはいかんだろが」
それは一刻ほど前、馬車内での会話。
しきりに『お姫様』と呼ぶガルファンに、業を煮やしたレオナが「どうぞレオナとお呼びください」と言ったことが発端だった。
そういえば、ガルファンはそれに対して、否定も肯定もしていなかったな、と翔馬は思い出す。
「どうしてでしょうか? エスティも私を『レオナ』と呼んでくださっていますし、エスティに対しては呼び捨てしているではないですか」
レオナはさらに首をかしげ、心底おかしいという表情を浮かべた。
『その表情と態度、天然でやっているとしたら大概だよな』と翔馬は思いつつ、それを口には出さなかった。
「いやいや! この野郎はいいんだよ! さておき、俺がそんな気安く呼べるわけねえだろうが!」
ガルファンはガーっと喚くように叫んだあと、腕を組み、苦虫を噛み潰したような顔で口を開いた。
『なんで自分は呼び捨てでいいんだろう?』と翔馬は思いつつ、これも言わない方がいいと、口に出さないことにした。
「俺はこれでも、テノラーダの武闘僧侶の家系で育ってんだ。親父や兄貴から『目上の者と女は丁重に扱え』って、文字通り叩き込まれてんだよ。粗野な傭兵扱いされるのは構わねえが、筋の通らねえ無礼だけはどうにも出来ねえ。あんたはハルト王国の『お姫様』で、『領主サマの妹君』だろ」
言葉遣いや話し方は乱雑だが、相手に対する敬意はしっかりしている。そして一本筋の通ったような育ちの良さ。それがガルファンの言葉から滲み出ていた。
ガルファンの粗雑な態度に恐怖を覚えないのは、オラついた威圧感や攻撃性がないこの人間性なんだろうなと、翔馬は無言で納得している。
と、同時に、半刻ずーっとモヤモヤしていたんだな、とも。
「……あ! じゃあ、『レオナ姫』でいいか? それなら俺の腹も収まるんだが!」
「いいえ。旅を共にする“仲間”に対して、他人行儀が過ぎるではないですか」
ほぼ即答かつ真顔で返される。
ガルファンは『うぐっ……』と言葉を詰まらせ、天を仰いだ。
それを見たレオナはくすりと可憐に微笑み、優しく首を横に振った。
「お気になさらないでください、ガルファン様。私のことは、どうぞ『レオナ』とお呼びください。エスティと同じように」
「だから! それが! 無理だって話なんだよ!」
ガルファンは、レオナと対照的にぶんぶんと頭を振った。
雇い主の妹であり、王女。呼び捨てはガルファンの倫理観が断固拒否する。
隊長としての旅路では、どんな場面でも怖気づかないであろう男が、一人の少女の毅然とした態度に完全に翻弄されている。そのやり取りがあまりにおかしくて、横で見ていた翔馬は思わず吹き出してしまった。
「な、なんだよエスティ! 笑うこたあねえだろ!」
「すみません、ガルファンさん。……でも、お二人ともすごーく面白いなと思って……あはははは」
「エスティ……お前……!」
「む……エスティ、私は至って真面目にお答えしているんですよ?」
腹を抱えて笑い始めた翔馬に、再びガルファンは追加で苦虫を三匹噛み潰したような、それはそれは渋い表情を浮かべて睨みつけた。
それに合わせるかのように、レオナが少しむーっとしたように頬を膨らませた。
「す、すみません……! ふ……ふふふっ!」
「……ちっ、分かったよ! じゃあ折衷案だ! “姫さん”だ! これなら文句ねえだろう!」
ガルファンが半ばやけくそ気味に吐き捨てると、レオナは少し驚いたように目を丸くし、やがて諦めたように肩を竦めて柔らかく微笑んだ。
「……ふふ、分かりました。私としてはまだまだ足りないと思いますが、これ以上、ガルファン様に気を揉ませるのも本意ではありませんし」
「おう、決まりだ決まり! さ、休んだら出発すんぞ! 日が暮れる前に、最初の野営地に辿り着かなきゃなんねえからな!」
ガルファンは干し肉を掴み、逃げるように御者台へと戻っていった。
その背中を見送りながら、翔馬とレオナは顔を見合わせ、声を忍ばせて笑い合った。
不器用だが根は誠実なガルファンと、可憐だが芯の強いレオナ。
この二人とならば、北へ向かう旅路はきっと楽しいものになるだろう。
ぎこちない距離に、秋風とともに少しずつ溶けていく。
そんな予感が、翔馬の胸を滑り落ちていった。




