第14話 やさしくて、とても綺麗な嘘(後編)
リーデルの執務室。
先ほどまで翔馬が訪れていたそこへ、さほど時間を置かずに、ギルバートに導かれたレオナが入室してきた。ギルバートは扉を閉じると、いつものように壁際に居を占め、静かに目を閉じた。
「兄様、お呼びでしょうか?」
質素ながらも上質な衣装を纏ったレオナが、透明感ある紫青の瞳を揺らして兄を見つめる。それを満足そうに見たあと、リーデルは穏やかな声をかけた。
「ああ、こんな時間にすまない。大事な話があってね。……エスティのことだ」
レオナはぴくりと反応した。
就寝前のこの時間。わざわざ呼び出してまで話す内容が、世間話のように軽いわけがないと思っていたが、まさかその名がこのタイミングで出るとはまったく思っていなかったからだ。
「先に結論から言おう。彼に北方の貿易都市、テノラーダへの公務出張を命じた。つい先程だけれどもね」
「え……? ……て、テノラーダ……ですか?」
レオナの表情が強張る。
街中でのお使いとは異なる。数十日の旅路になることは明白だ。
これまで補給廠で事務方をしていたエスティを、急にラグロニーネの外に出すなど、いったいどういう話なのかと考える。
「いったいどういう経緯なのでしょうか、兄様。まして、これから季節は冬に向か宇中、北方はここよりもずっと寒冷です。……まさか、エスティをお一人で? 慣れぬ長旅に、異国の地。お身体を壊すに決まっています!」
そう捲し立て、なおも言葉を続けようとする妹を、リーデルは手で制してから、やれやれといったように肩をすくめた。
「きちんと説明するから落ち着きなさい。……まず、エスティが、ヴァルメイに対する物資補給支援について、ある提案を持ってきてくれてね。内容そのものは非常に面白いものなんだが、思惑通りに行くかというと、正直難しい。そこで、大きな物流のある貿易都市で、見識を深めてもらってはどうかと考えたんだ」
「……」
兄の言葉を聞きながら、レオナは数日前の出来事を思い出していた。
あれほど貪るように書物を読み耽っていた翔馬から、『文字と数字の書き方を教えてほしい』と頼まれた日のことを。
彼に言わせれば、書物の文字は『読めるが書けない』のだという。形として意味を読み解くことはできても、自らペンを走らせるとなれば話は別なのだと。
手を取り文字を教えるたび、何に使うのかと尋ねても、翔馬はただ楽しそうに笑って『自分なりの考えをまとめて、リーデル様にお伝えしたいんです』と答えるばかりだった。あの無邪気で誇らしげな笑顔が、今も鮮明に脳裏をよぎる。
「そうであるとしても……流石にお一人では……」
だからこそ、これから冬へと向かう過酷な北の旅路に彼を一人で放り出すなど、レオナにはどうしても受け入れ難い不安となって、その胸を締め付けていた。
どうすべきか――しばし思案したレオナは、覚悟を決めた。
スカートの布地を固く握り締め、真っ直ぐに兄へと歩み寄り、紫がかった瑠璃色の瞳で対面の淡い青を見据える。
「兄様、お願いです、私をエスティの旅に同行させてください! あの方は……誰かが隣で止めなければ、自らの限界すら忘れ、どこまでものめり込みます。身体を気遣い、傍で寄り添う者がどうしても必要なのです……! どうか、どうかお許しください!」
深く頭を下げるレオナを見ながら、リーデルは、内心『そうくると思っていたよ』とごちる。そして、わざとらしく頭を抱えて見せた。
「まったく……エスティのこととなると、君は突如として聞き分けがなくなるね。自分の立場や役割を理解しているのかい?」
責めるでもない、どこか心配を含むリーデルの声に、レオナは声が詰まった。
言われている通り、レオナ自身の立場を考えれば、それが許される道理がないことなど、百も承知だからだ。
神殿の巫女としての務めもある。まして王女の身でありながら、年頃の少年と二人で遠方へ旅立つなど、現実にはどう考えても無茶が過ぎる。
おとぎ話のような勇者との旅路など、絵空事だからこそ許されるものだと頭では分かっていても、出立の日に、笑顔で彼を見送る自分の姿がどうしても想像できなかった。
「分かっております……無茶な我儘だと分かっています! ですが……どうしても放っておけないのです……! 誰よりも脆いのに、誰よりも無理をしてしまう。そんなエスティを一人きりで貿易都市へ行かせて、また倒れてしまったら……私、一生自分を許せません……!」
レオナは、兄の目を真っ直ぐに見据え、スカートの布地を握りしめるその手は微かに震えていた。瑠璃色の瞳に涙が光っている。
「……やれやれ。強情な子だ。一体誰に似たんだろうね」
呆れたように肩をすくめながら、静かに椅子から立ち上がると、レオナへ向けてニヤリと悪戯っぽい笑みを向けた。
拒絶されると身構えていたレオナが、呆気にとられたように目を丸くする。
(少し前までなら、こんなに私へ食ってかかることなどあり得なかった。……あの少年は、この子の心をここまで溶かしたのか)
レオナをエスティの旅に同行させる手配など、とっくに済ませてあった。本国の刺客から二人を同時に遠ざけるため、ガルファンを護衛に指名したのもそれだ。
それでもあえて意地の悪い問いを投げかけたのは、妹の本心を確かめたかったからに他ならない。
かつての〝おとぎ話の勇者〟への盲信ではなく、一人の人間として隣に立ち、その背中を支える〝本物の覚悟〟であるのかどうかを。
「そうかそうか! レオナは、水神の神殿の代表として、炎神の神殿との親睦を深めに行きたい、と言うんだね?」
「……え? ……兄様? 親睦?」
「なるほど、それはとてもいい考えだと思うよ」
レオナのぽかんとした表情を置き去りに、リーデルは顎に手をやり、うんうんとわざとらしく頷く。
「あ、そうそう。先ほども言ったが、ちょうどエスティに公務を与えたところでね。それであれば、二人一緒にテノラーダへ向かうのはどうだろうか? うん、そうだ、そうしよう。馬車の仕立ても一台で済むしね」
やや早口にそう言ってのける。
レオナはその言葉に理解が追い付かず、あっけにとられた。
「ええと……兄様?」
「神殿間の親善も、とても大事だろう? 君は巫女なんだ。貿易都市の神殿へ赴き、しっかりと学んでくるといい」
そう言うと、妹に向かってパチンと茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせた。
「……あ」
レオナは目を見開いて、その姿を見た。
かつて、両親を目の前で害され、それ以降、復讐の炎に身を焦がしてきた兄。
ラグロ領へ封ぜられた後も、領地運営と、補給線の維持に毎日死に物狂いだった。
自分以外の力は信用しないとばかりに、重要なことはすべて自分で抱え込んで。
そんな冷徹な領主になり切ろうとしていた不器用な兄の、この仕草。
(兄様も……変わられたのですね。エスティによって……)
自分がエスティに同行したいと言い出すことも、おそらく見越していたのだろう。
どこか、昔のように柔らかい兄の姿が戻ってきていることを悟り、嬉しくなった。
「……はい! ありがとうございます、リーデル兄様!」
レオナは、大輪の花が咲くような、とても美しい笑顔を見せたのだった。
出発は、この日から七日後と決まった。
それからは、目まぐるしくも充実した、嵐のような準備期間となった。
◇
ハルト王国南西部に位置するこのラグロ領も、深まる秋の冷気が日増しに強まり、街路樹の葉は日に日に朱や黄を濃くしている。
そんな中、最も苦労していたのは翔馬だ。
毎日毎日、補給廠に通い詰め、自らが作成した帳簿の数字と書類のチェック項目を、荷役頭や若手役人たちに丁寧に伝え回っていた。
「任せときな! お前が書いてくれたこの表、本当にわかりやすくて助かるぜ。帰ってくるまでに完璧に使いこなしてみせるからよ!」
最初こそ本国からの〝居候のボンボン〟と眉をひそめていた現場の者たちが、今や翔馬を一人前の頼れる仲間として肩を叩く。翔馬はその温かい手のひらの感触に、確かな手ごたえを覚えていた。
一方、ガルファンも、第四輸送隊の副官らを集め、翔馬が提案した〝無事故のルート選定マニュアル〟の叩き込みに余念がない。
「いいか! 俺が留守だからって、速度なんて求めんじゃねえ! いつも通り、怪しいと思ったら引き返せ! 荷物とてめえらの命を守るのが、第四隊のやり方だ!」
さらに夕刻になれば、ガルファンは翔馬を馴染みの食堂へ連れ出した。
約二十日間のルート、街道における野営の心得、水や保存食の配分。そして、万が一でも脅威と遭遇した場合の対処を打ち合わせる。
「道中の〝敵〟は俺が片付ける。お前は戦うなよ、エスティ。怪しい物音がしたら、とにかく俺の背中か、馬車に隠れて気配を消せ。〝生き残るが勝ち〟なんだからな」
――などと言われたものの、エスティはエスティで、ギルバートから剣術の指南を受ける日々を過ごした。老執事曰く『せめて剣術の基本だけでも』との申し出だ。
その善意を断れなかった翔馬は、その申し出に〝喜んで〟応じた。
……が、補給廠と屋敷の書庫で頭脳を、剣術指南で身体を、それぞれ酷使したおかげか、出発前の七日間は、過去にないほど寝つきがよかったと、翔馬は述懐することとなる。
レオナもまた、長旅へ向けた準備を静かに進めていた。
神殿の豪奢な法衣ではなく、動きやすい上質な旅衣装へ。
また、万が一の怪我や病に備え、薬草や気付け薬、聖水を精製しては、小さな革嚢に手際よく詰めた。
「エスティがそうするのならば、私もできる限りのことをしなければならないのです。……彼の隣に並び立ちたいのですから、これくらいは」
神官長ラウレンスにそう告げる姿と手つきには、かつての儚い祈り手として、勇者を待ち焦がれる少女の面影など毛頭たりともない。
さらにリーデルは、辺境伯たるその権限を駆使し、〝神殿間の親睦外遊〟のための公式書類を作成していた。また、先行して炎神の神殿へ封書を飛ばし、向こうの受け入れ態勢を急速に整えさせていた。
できる限りの準備をし、万端な状態で二人を送り出すために。
◇
出発前夜。翔馬は自室に灯るランプのやわらかな明かりの下、荷造りを完全に終えた静かな部屋に、ぽつんと立っていた。
革の細ズボンに、深い緑のチュニック。
防寒用の厚手のマント。リーデルから託された王家の長剣。
すでにこの世界の装いは、翔馬の身体と心に完全に馴染んでいた。
ふと、翔馬は衣類棚の前へ歩み寄り、その木扉を静かに開ける。
棚の最奥で丁寧に畳まれて収められている、紺色のブレザーと制服のズボン。
学校に通い、何ひとつ自分で決めず、周囲の空気を読んで流されるまま生きていた「高城翔馬」の遺物だ。
それを手に取ることはしない。ただ、静かに見つめる。
(僕は……もう、流して、流されるだけの存在には戻りたくない)
翔馬は、あの日、見知らぬ天井を見上げていた頃を思い返す。
現実離れした超常の世界の恐怖に震えていた頃を。
だが今の翔馬には、ここで出会った大切な人々がいる。生まれて初めて、人の役に立ちたいと足掻いた結果がここにある。
自らの意思で、大切な人たちを守るために、外の世界へ踏み出そうとしている。
元の世界へ帰るためではない。
この超常の世界で、大切な人たちと共に生き抜くために。
翔馬は、長剣の柄にそっと触れ、黒革と金属の冷たい質感を感じ取った。
振れる男になれ――リーデルの言葉が胸の奥で熱く響く。
かちゃんと木扉を静かに閉めた翔馬は、ベッドへと身体を横たえた。
窓の外で吹き抜ける冷たい秋風の音を聞きながら、静かに、しかし力強く目を閉じた。




