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第15話:全額の会計

地下へと続く階段の先に、闇の市場はあった。


湿った石畳の広間には、鉄の檻が並んでいる。中には痩せ細った人々が、虚ろな目でこちらを見ていた。その光景だけで、胃の底が煮えくり返るようだった。


広間の奥、装飾された演台の上に、男が立っていた。


ベンバル子爵。


だぶだぶの絹の衣をまとい、ふてぶてしい二重顎をした男だ。その手には葡萄酒のグラスが、まるで王笏のように握られている。


「ほう。……「空間会計」のガキか。マルタはしくじったようだな」


ベンバルが指を鳴らす。


檻の陰から、6人の奴隷が現れた。首の枷にはめられたまま、震える手で剣や槍を握っている。彼らの眼には、恐怖と、助けを求める微かな光が同居していた。


「さあ、わしの可愛い商品たちだ。大人しく捕まれば、痛い目には遭わせんぞ」


ベンバルの下品な笑いが、石壁に反響する。


「……ハル、トア。奴隷を頼む。殺すな」


「わかってる。任せて、レン」


ハルが前に出る。その小柄な背中を、トアの巨大な影が覆う。


「お前たち、もう戦わなくていい。俺たちが、その枷を外してやる」


トアの低い声が、奴隷たちの足を止めさせた。彼らの目が揺れる。剣を持つ手が、微かに下がる。いやいや武器を握らされている者たちの、迷いが伝わってくる。


その隙を、ハルは見逃さなかった。


「——バインド!」


少年の掲げた掌から、光の鎖が奔った。


6本の鎖が、宙を裂き、奴隷たちの四肢に絡みつく。腕を、脚を、胴を、光の輪で締め上げ、動きを封じる。剣や槍が、手から滑り落ちた。


奴隷たちは、声も上げられないまま、石畳の上に倒れ込んだ。鎖は、彼らを傷つけない。ただ、動けなくするだけ。縛られた者たちの表情から、恐怖がスッと消え、代わりに安堵のような色が浮かんだ。


「……いい腕だ、ハル」


「ふふ。これでも、カインさんには足元にも及ばないけどね」


少年の声が、一瞬だけ沈んだ。だが、すぐに前を向く。


「行こう、レン。ベンバルは、あんただけの獲物だ」




「……なっ」


ベンバルが目を剥いた。手に持っていたグラスが、葡萄酒の赤を床に撒き散らしながら落ちる。


「わ、わしの奴隷が……!」


「商品、と言っただろう。自分でそう言ったんだ」


俺は一歩、前に出る。


「お前が売ってきたのは商品ではない。人間だ。」


「……チッ」


ベンバルのふてぶてしい顔から、余裕が剥がれ落ちた。代わりに、粘り気のある殺意が、その小さな目に滲み出る。


「冒険者風情が……。いいだろう。わしを怒らせた代償は、重いぞ」


ベンバルが掌を上に向けた。


その瞬間、俺は——消えた。


正確には、消えたように見えただけだ。


潜伏。


俺が暗殺者として習得したスキルの一つ。気配を消す。呼吸の音も、心臓の鼓動すらも、外界から遮断する。俺という存在が、世界から漏れ出す情報を、根こそぎ閉じ込める。


だが、俺はただ隠れるだけではない。


索敵。


俺の感覚が、広がる。石畳の上を這う空気の流れ。鉄の檻の冷たさ。そして——ベンバルの心臓が、恐怖と怒りで激しく脈打つ音。


奴の殺意が、熱源のように浮かび上がる。


(……右掌に魔力が集まってる。来るぞ)


「——グラビティホール!」


俺が立っていた場所の石畳が、轟音と共に円形状に砕けた。重力魔法だ。空気そのものが鉛に変わり、床を圧し折る。もし直撃していれば、俺の骨など紙細工のように砕かれていただろう。


だが、俺はもうそこにいなかった。


俺は、空中にいた。


空中歩行。


足音もなく、石畳から3メートル上の空間を、歩いている。地面を蹴る必要はない。空気そのものを足場にする。音もしない。風すらも切り裂かない。


ベンバルは、俺が消えたことに気づいていない。魔術師の索敵は、魔力依存だ。俺は別の異世界の人間だからか魔力がない。


(……5メートル圏内。)


俺は懐から紙幣を決済した。手のひらに乗る、たった一枚の紙幣。


千円。


この世界では珍しい、俺とパン屋のおじさんだけが持っている、現代通貨だ。


「——どこに隠れた!」


ベンバルが叫びながら、広間全体に重力波を放つ。石柱が軋み、檻が歪む。だが、俺には届かない。潜伏のお陰で自分の真上にいることすら気づいていない。


俺は、ベンバルの背中に向かって、囁いた。


「……探す必要はない」


「——!?」


ベンバルが振り返ろうとする。だが、遅い。


「ここにいる」


俺の手の中の千円札が、光を帯びた。


「等価交換」


千円が、砕けた。


1枚の紙幣が、千枚の硬貨へと分裂する。銀色の光の粒子が、俺の掌から溢れ出し、流星群のように舞う。


そして——その全てが、俺の意志によって、標的を定めた。


「回収、そして心臓に——決済」


千枚の1円硬貨が、同時に、ベンバルの胸の内側に出現した。


肋骨に守られた空洞、その中心。跳ねる心臓の、筋肉と筋肉の隙間、冠動脈の枝分かれ、心室の壁、弁膜の裏側——あらゆる場所に、千枚の硬貨が、針のように突き刺さった。


音は、なかった。


だが、ベンバルの体が、ピクリと跳ねた。


「———————」


声にならない悲鳴が、奴の喉から漏れた。だが、それは叫びと呼べるものではなかった。肺に空気を送る心臓が、もう機能していない。脳に酸素が届かない。ベンバルの目が、見開かれたまま、焦点を失っていく。


奴の口から、血が溢れた。大量の血だ。千枚の硬貨が、心臓の組織を、ミキサーのように引き裂いたのだ。


ベンバルの体が、ゆっくりと崩れ落ちた。絹の衣が、血を吸って、黒く変色していく。


「……カインは、毒で死んだ」


俺は、倒れたベンバルを見下ろした。


「毒薬の経費は、帳簿にあった。20金貨だ。たくさんの冒険者の命を、お前は20枚の金貨で買った」


ベンバルは、もう答えない。


「俺は、千円で、お前を買った。……安いもんだ」


「等価交換、そして回収——」


俺が手をかざすと、ベンバルの胸から、千枚の1円硬貨が千円札となり、体外へと引き抜かれた。


再び一枚の紙幣に戻り、俺の懐に収まった。


……これが、俺の戦い方だ。


決済し、回収する。痕跡を残さない。対象は、ただ、死ぬ。


暗殺者の仕事としては、完璧だったろう。


だが——俺の手は、震えていた。




広間の隅で、ハルが光の鎖を解き、最後の奴隷の枷をトアが砕いていた。


「……これで、全部だ」


解放された人々が、呆然とした顔で、自分の首をさすっている。中には、崩れるように泣き出す者もいた。


「大丈夫だ。もう、誰もお前たちを売らない。ベンバルの奴隷役もこれで終わりだ」


トアの声は、静かだった。だが、その巨大な背中は、カインの喪失を背負ったまま、それでも彼らを守るように立っていた。


俺は、広間の隅に座り込んでいた。膝を抱え、俯いている。手の震えが、止まらない。


メロン、ガルド、マルタ、そしてベンバル。復讐の旅路で、俺がその手にかけた命の数だけ、俺の中の何かが削れていく。


カインを失ったあの夜、何度も誓った。仇を討つ。必ず。だが、実際にその瞬間が来ると、俺の中にあったのは、歓喜でも達成感でもなく——ただ、冷たい虚しさだった。


「……レン」


トアが、俺の前に立った。その巨大な掌が、俺の頭に置かれる。


「……終わったよ」


「……ああ」


「カインの仇だ。お前が、仕留めた」


トアの声が、少し震えていた。俺は顔を上げる。トアの目が、赤かった。


「……カインに、報告しなきゃな」


「……そうだな」


ハルが、俺の横に座り込んだ。少年は何も言わず、ただ俺の肩に、小さな頭を預けた。




俺たちは、路地裏の出口付近に、小さな祭壇を作っていた。


石の上に、酒と、百合の花を供える。花が好きだったカインに、精一杯の手向けだ。


トアが、聖なる光を灯す。小さな光が、闇の中に揺れた。


「……カインさん」


ハルが、震える声で口を開いた。


「……仇、討ちました。レンが、やってくれました。あんたがいつも守ってくれた俺たちが、今度は、あんたのために戦いました」


ハルの目から、涙がこぼれた。


「……悔しいな。あんたがいたら、もっと、きれいに終わらせられたのに。あんたの剣があれば、俺たちが怖がることなんて、何一つなかったのに」


「……」


「でも——俺たち、やりました。カインさん。この地下の市場も、奴隷たちも、全部、解放しました」


「……ああ」


俺は、祭壇の前に跪いた。


「……カイン」


声が、掠れた。


「……討ったぞ。ベンバルを。」


言葉が、詰まる。喉の奥が、熱くなる。


「……1000円だった。お前の命を奪った男の命は、俺の1000円で、精算できた」


俺は、硬貨を握りしめた。


「……安すぎるだろ。お前の命は、こんなもんじゃない。もっと——もっと、値打ちがあった」


涙が、止まらなかった。


「……ごめんな。間に合わなくて。お前を守れなくて」


トアが、俺の肩を掴んだ。


「レン。お前は、やり遂げた。カインも、それを分かってる」


「……そうか」


「ああ。……あいつは、きっと笑ってるぞ。『ようやく、重い扉を開けたな』ってな」


……カインの声が、聞こえた気がした。


いつも、前衛で、真っ先に敵陣に飛び込み、何度も窮地を救ってくれた女剣士。赤い髪を翻し、太陽みたいに笑う、俺たちのリーダー。


その背中を、もう二度と見ることはできない。


だが——俺たちが、自分たちの手で、扉を開けた。カインが開けてくれた道を、受け継いで、ここまで来た。




俺たちは、地下市場から、夜の街へと出た。


東の空が、白み始めていた。


夜明けだ。闇が晴れ、光が、街の屋根を照らしていく。まるで、カインの赤い髪の色のように。


「……行こう」


俺は、前を向いた。


「カインの分まで、俺たちが生きる。この街の闇を、一つずつ、精算していく。それが、俺たちがやるべきことだ」


「……ああ」


トアが、頷いた。


「付き合うよ、レン。どこまでも」


「僕も」


ハルが、俺の隣に並んだ。


3人の影が、朝日に伸びていく。カインがいない、3人の影だ。


だが——その影は、もう、震えてはいなかった。


俺は懐の財布を、もう一度、握りしめた。


(カイン——あんたの仇は、討った。だが、まだ終わりじゃない)


(この街には、まだ、ベンバル以上の闇がある)


(……俺は、全員を精算する。この街の闇を、全額回収するまで)


(だから、見ててくれ。——暁の天剣の、俺たちを)


朝日が、完全に昇った。


俺たちは、光の中へと歩き出した。


——第1章 完——

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