第3話_推しの正体が、負け惜しみを言う
「あの橋、スイッチ押した本人が踏んだままじゃないと出ないんだよな」
翌日の昼、テラスで北見を待つ間に、俺は火曜の配信の続きを思い出していた。
ちょうど来た北見に言うと、彼女は隣へ座る途中で止まった。
「だから自分だけじゃ渡れないのに、すごい自信満々に走ってって。あれ、面白かった」
「そこ覚えてるの、最悪」
返事が、妙に早かった。
俺は北見を見た。
北見も俺を見て、それから空いている席を見回した。昼休みにしては珍しく、奥のテーブルには誰もいない。
「……その話、なんだけど」
「ああ。北見も観てるんだろ」
「うん。観てる、というか」
北見は座ったが、鞄の持ち手を握ったままだった。
「昨日から考えてたんだけど。話していいのか、まだ迷ってて」
「なら、無理に言わなくていいけど」
俺は買ってきたパンの袋を開けた。昼飯は食べながらでも待てる。
少しして、北見が持ち手から手を離す。
「……やっぱり、真壁くんには話したい」
スマホを取り出し、自分の手に持ったまま画面を動かした。
見覚えのある青紫の髪。
襟元の星と、宇宙船の切符みたいな髪飾り。
それは配信を管理する画面だった。公開済みの火曜の配信タイトルと、その編集ボタンのある部分だけが見える。
「これ、私」
俺は画面を見た。
北見を見た。
もう一度、画面を見た。
「……何が?」
「星路リノ」
「いや、名前は分かるけど」
「私がやってる」
俺が目を上げると、北見は画面を閉じた。
俺はようやく、彼女の声を頭の中でもう一度聞いた。
昨日、説明書を閉じた時の言い方。
火曜の配信で、橋から落ちた後に言い訳していた時の間。
似ていると思ったことはあった。けれど、俺の駒を潰しに来るやつと、スマホの中で月面を歩く女の子を、同じところに置いたことがなかった。
昨日、俺は何を言った。
性格がどうとか、負け惜しみがどうとか。
思い出す台詞が一つもファンの発言じゃない。
「……本人?」
「うん」
「本当に?」
「その聞き方だと、私が何回うなずいても終わらなくない?」
俺は口を閉じた。
そういう返しをする北見は知っている。知っているので、余計に否定できなくなった。
北見が、今度は少し困った顔で笑う。
「昨日、真壁くんにリノの話された時、もっと話したかった。知らないふりじゃなくて」
「……俺に言ってよかったの?」
北見は閉じたスマホに一度目を落とした。
「まだ、ちょっと怖い。でも、さっきも言わなくていいって、待ってくれたじゃん」
「無理に聞くことじゃないし」
「うん。……だから。知ってても、昨日みたいに遊べるかなって」
自分のスマホは鞄の中だ。出そうとも思わなかった。
俺は机の上に置いていた手を、膝へ戻した。
「誰にも言わない」
「うん。ありがと」
「……いつも、配信ありがとうございます」
北見の眉が寄った。
「急に?」
「いや、だって、ずっと観てたから」
「六月からって言ってたよね」
「うん。まかろんって名前で。コメント、たまに」
言ってから、余計に恥ずかしくなった。
大したことは書いていない、はずだ。と思うほど、何を書いたか思い出せなくなる。
「まかろん……」
北見が名前を繰り返す。
こんなことなら、もっと普通のハンドルにしておけばよかった。
俺は名前を変える方法を考えかけ、今どうにかする話じゃないと気づいた。
「パン派なのに?」
「そこかよ」
「マカロン好きなんだと思うじゃん」
「真壁の『まか』に、『ろん』足した。語呂だけ」
そうなんだ、と彼女は笑った。
俺もつられて笑いそうになったが、今その声が自分に向いていることを意識して、変に口元が固まった。
リノの声だ。
でも、顔は昨日までの北見だ。
いつもなら、イヤホンを外せばいったん落ち着ける。今日は耳に何も入っていない。
視線の置き場に困って、俺は彼女が持ってきた袋を見た。
「お昼、食べます?」
「食べるけど、なんで敬語?」
「いや、なんとなく」
「真壁くんも買ってきたんじゃないの」
俺の袋から出ている焼きそばパンを指して、北見が座り直す。
いつもなら、もう少し自分の荷物をどかせと言っていた距離だった。今日は俺の方から袋を引き寄せた。
「袋、こっち置こうか」
「いえ、大丈夫です」
「真壁くん、パンにも場所譲ってるよ」
俺の肘が机から落ちかけていた。
北見は自分の袋を足元へ移し、そのぶん俺の昼飯を机の上へ戻した。
「昨日のやつさ」
北見がスマホの画面を何度か触り、盤面を描いたメモを開いた。
「帰ってから考えたんだけど。ここ先に置けば、真壁くん入れなかったよね」
赤と青の四角が並んでいる。
昨夜、俺たちの対戦を思い出して作ったらしい。
俺は穴を探した。
見つかった。けれど、言う前に北見がこっちを見る。
「どう?」
「……リノさんがそう言うなら」
「誰?」
しかも『さん』まで付けた。
「いや、北見が」
「昨日まで、その意見、全力で潰してきたよね?」
俺はパンの袋の端を折った。
彼女が見せた赤い囲みは、やっぱり一か所空いている。
そこを突いたら、また彼女は説明書を開くんだろう。配信でも、思い通りにいかない時ほどよく喋る。
それを目の前でやっていいのか、変なところで迷ってしまう。
「じゃあさ」
北見が画面を伏せた。
「土曜日、空いてる?」
「空いてるけど。何かあるの」
「駅前のモール。ミニゴルフできたんだって」
「へえ」
「二人で行かない?」
俺が一瞬黙ると、北見が顔を寄せる。
「江崎たちを誘う返事は、募集のチャットにするから」
「……俺に聞いてる?」
「うん。真壁くんに」
普段から呼ばれている名前なのに、さっきの『まかろん』より、こっちの方が困る。
俺はうなずいた。
「了解、船長」
配信で、リノが「次こそ渡るからついてきて」と言った時の、お決まりの返事が出た。
北見は一瞬目を丸くしてから、声を出して笑った。
「それ、画面に向かって言うやつ」
「……そうだった」
「今は真壁くんが行きたいか聞いてるんだけど」
俺は、手元のパンを見た。
昨日みたいに、そこは塞ぐだろと軽く返すことが、なぜか難しい。
「行きたい。北見となら」
思ったまま言ったら、彼女の手が止まった。
俺も一拍遅れて、自分が何を言ったか分かった。
「いや、初めてだから。ミニゴルフ。いつも一緒にゲームやってるし」
「……うん。分かってる」
分かっているなら、こっちを見たままにしないでほしい。
「私も初めて。じゃ、ちょうどいいね」
北見はストローの袋の端をつまんだまま、もう一度だけ言った。
「土曜日、空けといてね」
「今、空いてるって」
「うん。聞いた」
それでようやく、袋が開いた。
昼飯を食べ始めた彼女の横で、俺は伏せられたスマホのことを考えていた。
あの赤い囲みの穴を、まだ教えていない。




