第2話_その負けは、おまけしない
「真壁くん、ここ」
共用室のドアを開けると、北見が隣の椅子へ鞄を置いた。
窓側には、既にゲームの盤が広げられている。
「席、取っておいた」
「鞄の席じゃなくて?」
「それはどかす。真壁くんが来たら」
来てるだろ、と言うと、北見は鞄を膝へ移した。
水曜日の四時半。夏休み前と同じ机で、向かいでは江崎がカードを混ぜていた。
「久しぶり。真壁、そっち終わったらこっちもやろうぜ」
「負けるまで待ってて」
「なんで俺が負ける前提?」
「北見に言ったんだけど」
隣から、駒の入った袋を押し付けられた。
「そういうこと言う人から倒す」
北見柚乃とは、この春、同好会に入ってから知り合った。
同じ二年で、学科は別。夏休み前までに四回くらい遊んだ。四回とも、終了時間になってからもう一回と言われた。
今日も、スマホの横には説明書が出してある。
相手の準備は万全らしい。
「昨日、ルール読み直したのか」
「昨日だけじゃないけど」
俺は夏休みの宿題を提出されているのか。
盤にはまだ何も置かれていない。なのに北見は、駒の色を俺に選ばせる余裕まで見せた。
「好きな方でいいよ。どっちでも勝つから」
「じゃあ勝つ方」
「色の話をしてる」
選ばせてくれたのは二秒くらいだった。
陣地を囲んで得点を取る、短いゲームだ。
駒は、自分の駒と角が接する場所へ足していく。囲みの中に相手の駒が入れば、その囲みは得点にならない。
俺が端から小さく伸ばすと、北見は中央へ大きく手を広げた。
「真壁くん、それ、慎重すぎない?」
「広く取ればいいってもんでもないだろ」
「広く取れるときは取った方がいいんだよ」
自分の陣地を指でぐるりと辿り、北見が俺の顔を覗く。
「今ならまだ、すごいって言ってくれていいよ」
「もう言えなくなる予定なのか」
「そういう意味じゃない」
北見は俺の駒を見て、もう一枚、壁のように駒を置いた。
俺の進む先がほとんど塞がる。
ほとんど、だ。
俺は盤の下側へ視線を落とした。
昨日の夏帆も、こんなふうに俺の顔を見ていたんだろうか。
「真壁くん」
指が止まった。
「そこ置くと、私のここが繋がる」
北見は、自分の狙っている場所を指した。
「……教えていいのか」
「後で気づいて負けたって言われたくない」
少しむっとして、俺の手元の駒を見ている。
俺は置きかけていた駒を戻した。
「じゃ、こっち」
「え、そっちでいいの?」
彼女が嬉しそうに、中央の広い囲みを閉じにかかる。
「ここ全部、私の点だから」
中の空きマスを数える指が、なかなか止まらない。俺の小さな囲みを足しても、半分ほどにしかならない。
その指のすぐ横、駒と駒の角に、俺の駒が入り込める一マスが残っていた。
俺はそこへ、自分の最後の小さな駒を入れた。
「お邪魔します」
「……ちょっと待って」
北見が盤を覗き込む。
俺の駒から、角、角と目で辿り、最後の一枚で止まった。
「待って。そこ、入れるの?」
「繋がってる」
「でも私、こっちを囲って」
「中に俺の駒がある」
北見の指が、数えかけた場所で止まる。
「……この囲み、全部ゼロ?」
「そうなる」
彼女は説明書を開いた。
さっきまで膝にあった鞄が、いつの間にか床へ下ろされている。
北見の指が一行を往復する。
俺も読む。夏休み前と同じことが、ちゃんと書いてあった。
「ここ、もっと大きく書くべきだと思う」
「昨日も読んだんだろ」
「昨日の私にも言ってる」
「……そこ、ずっと空けてたの?」
「見せたら塞ぐだろ」
「入るなら、先に言ってよ」
「お邪魔しますって言った」
「置く前に!」
北見は説明書を閉じた。
きっちり二つ折りにして、端を揃えてから、俺を見る。
「勝ったのと性格がいいのは別だから」
「負けたら人の性格の話するのも、どうなんだよ」
言い終わって、自分で笑っていた。
向かいから江崎が盤を覗く。
「どっち勝った?」
「真壁くん。でも、もう一回やる」
「決まってるのか」
「今決まった」
北見が俺の前へ駒を集める。
片づけてくれているのではなかった。二戦目の準備だった。
「勝った方を褒める時間とか、ないの?」
「ない。その肩書き、今からなくすから」
俺の最後の一枚だけ、やけに丁寧に袋へ戻された。
「こっちは待ってるんだけどなあ」
「江崎も次、一緒にやる?」
「それならやる」
結局、三人でもう一度、陣取りをした。
北見は今度、俺の小さい囲みばかり潰しに来た。
「中央、空いてるぞ」
「今日はそっちに用はないので」
恨まれている。
俺が次の一枚を選ぶと、北見まで身を乗り出してくる。今度はどっちに置こうか、少し長めに迷ってやった。
その後、ようやく江崎のカードゲームへ移れた。
*
六時半、棚に箱を戻す頃には、北見の勝ちは一つ増えていた。
「次、これも持ってくる」
棚の上段を見ながら、彼女が背伸びをする。
届きそうだったので手を出さずにいたら、箱ではなく俺を見た。
「持ってくれてもいいんだよ」
「届くか見てた」
「観察しなくていいから」
受け取った箱を空いた段へ置く。北見は駒の袋を振り、落としたものがないか机の下まで確かめた。
俺も椅子を戻し、残っていた紙コップを集める。
「夏休み、何してた?」
聞かれて、バイトとゲーム、と答えた。
「あと、配信ちょっと観たり」
「誰の?」
「星路リノって知ってる?」
北見の手が止まった。
駒の袋の口を、片方だけ結んだ状態で。
「……観てるの?」
「六月くらいから。昨日も橋のとこだけ観た」
北見は袋を結び直した。
「あそこ、見たんだ」
「知ってる? 戻る橋に自分から走っていくやつ」
彼女は小さく息を吸い、それから俺の顔を見た。
「明日、お昼空いてる?」
話が変わった。
さっきのゲームで何か、まだ納得していないのかもしれない。
「十二時過ぎなら」
「じゃ、テラスで。ちょっと話したいことある」
もう一度勝負を挑まれた時より、声が少しだけ小さかった。




