第1話_その返事は、笑うためじゃない
「真壁くん、もうちょっとこっち座って」
森園夏帆が、自分の隣ではなく、テーブルの向かいを指した。
カラオケの小さな部屋で、その席だけやけに遠かった。近いと言いにくいのかと思って、俺は座り直した。
「ここ?」
「うん。あのね、前から思ってたんだけど」
夏帆が膝の上で指を組む。
教養の講義で知り合って半年。ノートの抜けを教え合ったり、空き時間に飯を食ったりしてきた。二人だけのことも、何度かあった。
「私、真壁くんのこと、好きなんだ」
エアコンの風が首の後ろに当たっていた。
寒いと思っていたはずなのに、急に気にならなくなる。
「……俺も」
言ってから、これだけでは足りないと思った。
「俺も、森園のこと好きだよ。だから、その、付き合えたら嬉しい」
夏帆が口元を押さえた。
泣きそうなのかと一瞬思った。違った。
「っは、待って、真壁マジじゃん」
入り口側で、土井祥吾が吹き出した。
俺はそっちを見た。土井のスマホは、さっきからずっと縦向きで、こちらへ向いていた。
「ごめん、真壁くん。これ、罰ゲーム」
夏帆は笑いながら謝った。
俺の目ではなく、土井のスマホを見ていた。
「さっきカードで負けた人が告白するってなって。真壁くん、遅れて来たから知らないか」
だからその席だったのか。
夏帆と俺が、どちらも入る席。
頭の中で、さっきの「嬉しい」だけが、行き先をなくしていた。
「いや、あの返事は百点だわ」
土井が画面を操作した。すぐに、テーブルに置いた俺のスマホが震える。
遊び仲間のグループに、動画が届いていた。
最初に映っていたのは、背筋を伸ばして座り直す俺だった。
再生しなくても、その先で何を言うか分かる。
「……何人に送った」
「いつものグループだけ。え、そんな怒ること?」
俺は口の端を上げかけた。
ここで笑えば、帰るまでの空気は悪くならない。明日の講義でも、俺が変にしなければいい。
でも、さっきの返事を言った俺は、別におかしなことをしていない。
「消して。これ以上、誰にも送らないで」
「分かったって。冗談だろ」
「俺の返事は、冗談じゃなかった」
最後の方は声がうまく出なかった。
土井はようやく笑うのをやめた。夏帆が俺のスマホに目を落とす。
「そんなつもりじゃ……」
「俺が喜ぶのは、分かってたんだろ」
言った途端、夏帆が黙った。
その顔を見続けるのもしんどくて、俺は自分の画面へ視線を戻した。
「どこに送ったかは、後でちゃんと教えて。今日は帰る」
財布から部屋代の分を出そうとして、小銭を一枚落とした。
拾う間、誰も何も言わなかった。
廊下へ出ると、隣の部屋から知らない誰かの歌が聞こえた。
俺は駅へ向かう前に、受け取った動画と送信先が分かる画面を保存した。指が何度も別の場所を触った。
それからグループを抜けた。
真壁悠晴、という自分の名前が、参加者の一覧から消えた。
夏帆から、個別に「ごめんね」と届いた。
返事は、今は書けなかった。
*
夜九時を過ぎてから、机の上のスマホで配信を開いた。
『こっちの橋は渡れます。さっきは渡れなかったけど、原因が分かったので』
星の飾りを付けた女の子が、画面の隅で胸を張る。
星路リノ。六月にゲームの動画を見つけてから、時々配信を観ているVTuberだ。
画面の奥では、小さな配達ロボットが月面の足場に立っていた。
リノがスイッチを押す。橋が架かる。彼女が走り出す。
その一歩前で、橋が引っ込んだ。
『待って。原因、もう一個ありました』
落ちたロボットが戻ると、リノはすぐスイッチの前へ連れていった。
『ここまでは来られたからね。次は、渡る方もやります』
いつもなら、ここで笑っていたと思う。
今日は、息が少し抜けただけだった。
配信を小さくして、届いていたメッセージを開く。夏帆の名前を押しかけ、別の通知に気づいた。
『明日の同好会、来る?』
北見柚乃。
ゲーム同好会の、やたら再戦を申し込んでくるやつだ。
『前の続き。今度は勝つ』
夏休み前、最後に遊んだ盤面の写真まで付いていた。
俺の駒が、北見の陣地の端に一つだけ入り込んでいる。
そういえば、これで負けた北見は、次の講義に遅れそうになるまで説明書を読んでいた。
今度こそルールの読み落としを見つける、と言っていたが、あれから二か月経っている。
『まだそれ言ってんの』
『まだ負けたままなので』
返信が早い。
俺は椅子にもたれた。机の端に、明日の講義で使うノートが置いてある。その下には、同好会で借りたゲームの一覧。
明日は行かないつもりだった。
誰かと顔を合わせること自体、面倒になっていた。
『行く。四時半だろ』
『うん。逃げないでね』
『そっちこそ説明書を理由に延長するなよ』
送ってから、少しだけ画面を見ていた。
北見から届いたのは、笑う顔でも慰めでもなく、腕を組んだ怒り顔のスタンプだった。
俺は明日のアラームを、消さずに置いた。
それから盤面の写真を開き直す。北見が塞ぎ直してきそうな場所を、指で一つなぞった。
あれだけ次を楽しみにしている相手に、あっさり勝たせるつもりはなかった。




