第021話_応援するなら、こっちを見て
「今は、それ取れない」
北見がテーブルへ置いた袋を、俺は駒に当たらないところへ少しずらした。
「まだ何も言ってないんだけど」
「悪い。あと一手」
「うん。……パンなんだけどね」
紙袋の口から、焼けたチーズの匂いがした。
俺は手札の二枚を見比べた。片方なら材料が集まる。もう片方なら、先に作っておいた品物を売れる。
「パンなら、なおさら後で」
「冷めるよ」
「今食ったら、考えてたこと忘れる」
「もう半分くらい、こっち見てない?」
江崎が向かいで笑った。
「こっちは売る方を待ってる」
それが余計だった。
俺は材料のカードを伏せ、販売の方を出した。
「ここの注文を取る」
「そこ、もう俺が取った」
江崎が自分の台を指す。
俺が探していた注文の札は、品物の駒の下から、端だけ覗いていた。
北見が袋を持ったまま止まった。
「……あと一手って、それ?」
「今のは、練習で出てよかった失敗」
俺は記録用のノートを開き、『取られた注文を数えない』と書いた。
江崎に、当たり前のことだな、と言われた。
*
日曜の三時。
十時から江崎と続けていた大会の練習に、北見が一時間だけ顔を出してくれた。
俺は盤面を片づけ、改めて彼女を見た。
「来てくれてありがと。さっき、悪かった」
「別に。パンに負けたわけじゃないから」
「俺は負けたけどな」
江崎の勝ちは、今日これで二つ目だ。
北見が袋を開ける。
小さなチーズパンが、三つ入っていた。
「これ、片手で食べられるから」
「ゲームしながらは食うなよ。駒、油付くし」
「休憩中の話。江崎くんのもある」
「ありがとう。俺は今、ちゃんと休む」
江崎は先に手を拭いた。
北見も隣の椅子を引き、俺がノートを閉じるまで待ってから腰を下ろす。
「そんなに書くことあった?」
「同じ負け方しないように」
「これ、字が大きいね」
彼女の指の先には、昼前に書いた『売れる時に売る』があった。
「自分に強く言いたかった」
「さっきは、売れない時に売ったけど」
「今、書き足した」
北見はパンをひと口食べ、笑うのを飲み込んだ。
俺も自分の分を取る。チーズはもう熱くなかったが、中は柔らかかった。
店の奥では、別の客が積み上げた木の駒を崩していた。大きな音がした後、三人分の笑い声が重なる。
俺たちも少し休み、コップを盤から離して次の準備をした。
「今度、見てていい?」
「入らないの?」
「まず、真壁くんの練習を見たい」
北見が、俺の隣へ椅子を寄せた。
「じゃあ、応援する」
「江崎の方じゃなくて?」
「パン、二人にあげたでしょ。こっちは選んでいいじゃん」
言われると、手札を混ぜる指の動きが少し変になった。
普段なら、応援の声を聞くのは画面の向こうだ。
難しい場所の前で一度止まり、いける、と自分へ言うリノを観ている。今日は北見が俺の手元を見て、何も言わずに次の一手を待っていた。
「じゃあ、いいとこ見せるか」
「注文、空いてるか確認してね」
「そこはもう大丈夫」
北見が小さく身を乗り出した。
「いけそう?」
「たぶん」
俺は、今売れる品物を売らずに、大きな注文の分を揃えた。その間に、江崎が先に点を積んだ。
北見の目が、俺の手元と、進んでいく江崎の得点を往復する。
最後に駒を進めたのも、江崎だった。
北見が目を閉じた。
こらえた笑いが、鼻から少し漏れている。
「応援、早かった?」
「いや。俺が欲張った」
「そっか」
「勝ったのは俺だから、そっちも見て」
江崎が得点の駒を押し出した。
北見はそちらを見て、ちゃんと拍手をした。俺も負けた分の札を片づける。
次のページには、『あと一手』と書いて、線を引いた。
その線の横から、北見が覗く。
「それ、言わないようにするの?」
「言った後、本当に一手で終わるようにする」
「難しい方にしたね」
*
最後の一局には、北見も入った。
三人で短く終わる組合せにすると、彼女は俺が欲しかった材料を迷わず取った。
「応援係じゃなかった?」
「さっきの一局はね」
「今は?」
「勝ちたい人」
俺の隣にいた椅子が、今は机の斜め向こうにある。
北見は自分の品物を作り終えると、売るためのカードを手前へ残した。俺が手を伸ばした注文を、次の番できっちり取る。
「そこ、俺が行くの見てたろ」
「見てたよ。応援してたから」
「集めた情報の使い方、変わってないか」
彼女は答えず、得点を二つ進めた。
結局、最後は江崎の点へ二人とも届かなかった。北見が差を数える横で、俺はノートをしまった。こちらの記録にまで負けた回数を足されたくない。
四時になり、箱を棚へ戻す。
店の外へ出て江崎と別れると、北見は駅へ向かいながら俺を見上げた。
「役に立った? 今日」
「うん。パンも、応援も嬉しかった」
「その後、材料取ったけど」
「それは今度、取り返す」
北見が笑った。
俺は隣へ並び、少し歩いてから続ける。
「来てくれたのが、一番よかったよ」
彼女の歩幅が、一度だけ小さくなった。
「……最初、こっち見なかったのに」
「それは悪かったって」
「うん。次は、勝ってるところも見たい」
七時半からの配信に向け、彼女はここから家へ戻る。
改札の前で手を振られ、俺も振り返した。
今日は江崎に、ずいぶん負けた。
それでも、次も北見に来てほしいと思った。ノートに増えた線まで見られるのは、少し困るけれど。




