第15話_帰すつもりの、もう一戦
「飲み物、二つでいい?」
玄関で靴を脱ぎかけたところへ、北見のお母さんが顔を出した。
先に上がっていた北見が振り返る。
「うん。私が持ってく」
「じゃあ、台所に置いとくね」
俺は片足だけ靴下のまま、頭を下げた。
「真壁です。お邪魔します」
「いらっしゃい。柚乃から聞いてるよ。ゆっくりしてね」
何を聞いているのかは、聞けなかった。
北見は俺の残った靴を見て、ようやく廊下の端へ寄ってくれた。俺も靴を揃えて、その後へ続く。
金曜の二時過ぎ。
通された部屋の机には、画面を消したモニターと、畳める腕の付いたマイクがあった。俺が普段、夜に聞いている声は、あの前で喋ったものらしい。
でも、その手前の低い棚に、見覚えのない箱が三つ並んでいた。
うち一つには、丸いコースを走る駒が描いてある。
「あれが、話してたやつ?」
「そっち?」
「短いやつ、あるって言ってたろ」
北見は机を一度見てから、棚の前へしゃがんだ。
箱を出し、俺が座れるようにクッションを少し寄せる。
「これ。対戦できる」
「負けても、帰る時間延ばせないぞ」
「まだ始まってないんだけど」
彼女は箱の横にコントローラーを二つ置き、飲み物を取ってくると言って部屋を出た。
俺は受け取ったクッションへ座る。マイクの方をもう一度見てから、手元の箱の裏を読んだ。
*
『ショート・ラン』は、一周三分ほどの対戦ゲームだった。
走りながら輪を拾い、終わりまでに持っていた数で競う。速く行けばいいわけではないが、出遅れると目の前の輪を相手に取られる。
「最初は、ここのコースでいい?」
「北見が一番慣れてるやつ?」
「遊び方が分かりやすいやつ」
彼女がメニューを選ぶ手は迷わなかった。
俺はひとまず、自分の駒を動かす。ジャンプの高さを確かめている間に、北見が最初の輪を拾った。
「もう始まってるぞ」
「うん。分かってるよ」
「説明の時間じゃないのか」
「押すボタンは説明したじゃん」
そうだった。
俺は追いかけ、坂の途中で三つ続けて輪を落とした。隣から短く笑う息が聞こえる。
さっきまでの準備は、ずいぶん丁寧だった。コップの下に敷くものも、充電するコードも、先に揃えてあった。
対戦が始まると、北見は俺が落ちた穴の縁まで、自分の駒を寄せて待った。
「そこ、もう一回通る?」
「次は取る」
「どうぞ」
次の周回で、俺は手前の輪を一つ諦めた。ジャンプを早め、坂の上へ直接乗る。
北見の駒が追いつく前に、奥の三つを拾えた。
「あ」
「そっち、通れるんだな」
「通れるけど、手前を取らないの?」
「こっち三つあるから」
彼女が、俺の画面の端を見た。
同じテレビなのだから、隠しようがない。俺はもう一周だけ先にやり、次には同じ跳び方で来た北見とぶつかった。
「通れなくなった」
「先にいた方が取るんだろ」
「真壁くん、覚えると面倒だね」
「教え方がよかったんじゃないか」
「そこだけ褒められても」
結果は一点差で俺の勝ちだった。
北見はコントローラーを置かず、親指だけで次のコースを選んだ。
「今の、得意って言ってなかった?」
「言ってない。分かりやすいって言った」
「じゃあ、今度は?」
「私が好きなやつ」
言い直すところは、きっちり言い直すらしい。
俺も姿勢を戻し、次のスタートへ指を置いた。
*
夕方には、俺が二勝、北見が三勝していた。
途中で別のゲームも挟み、飲み物を一度もらった。廊下で会ったお母さんに礼を言うと、空いたコップを持っていってくれた。
部屋へ戻ると、北見がさっき負けたコースをもう一度出していた。
「六時までだよな」
「うん。今、五時四十八分」
「一回、三分」
「だから、いける」
北見の声が、妙に明瞭になった。
配信で、残り時間を数えながら最後の挑戦を決める時と同じだ。俺はテレビの時計を指す。
「片づけと、玄関まで行く分」
「……一回なら、余裕あるでしょ」
「一回で終わる?」
「終わる」
俺はコントローラーを取った。
北見が自分で決めた時間だから、その範囲なら、もう一戦したかった。
最後は二人とも輪を落とした。
同じ坂で跳び合い、残った数も同じになる。引き分けの画面で、北見の指がもう一度ボタンへ近づいた。
「続きは、今度」
「……分かってる」
彼女は先に電源のメニューを開いた。
俺もコードを巻き、二人で箱を棚へ戻す。帰る用意をしている間、北見はマイクの位置を直し、机に伏せてあったメモを起こしていた。
まだ俺の知らない夜の準備が、この後にある。
それを急がせずに遊びを終えられたことに、少しだけほっとした。
玄関を出たのは、六時の二分前だった。
北見は門のところまで来て、鞄を持った俺の手を見た。
「ゲームだけなら、オンラインでもできたんだけど」
「うん」
「わざわざ来てもらって、移動もあるし」
彼女が言い終わる前に、俺は首を振った。
「だから来た」
「……何が?」
「同じとこで、北見が笑ってる方がいいから」
門の向こうで、自転車が一台通った。
北見は俺から少し目をそらして、その音が遠くなるまで黙っていた。
「それなら、また来て」
「次はあの坂、先に取るからな」
「帰る前に宣戦布告しなくていいよ」
彼女は笑ってから、家の方へ一度目を向けた。
「あ、今度の日曜、服を見に行きたいんだけど。付き合ってくれる?」
「いいよ。何時?」
「一時半。駅前で」
俺はうなずき、別れる前にスマホへ予定を入れた。
夜九時。配信を開くと、あの机の向こうからリノの声が聞こえてきた。
知らないゲームの説明は、今日も聞きやすかった。
それでも、最初のコースで小さく笑った声を思い出すと、俺は画面へ打とうとしたコメントとは別に、日曜が楽しみだという文を彼女へ送りたくなった。
今は配信の方へ、いつもの短い挨拶だけを送った。




