第12話_あと一時間、帰りたくない
「もう一周する?」
水族館の出口で聞くと、北見は首を振った。
「展示は、ちゃんと見た」
「うん」
「でも、まだ帰りたくない」
北見が館内図から手を離した。俺は鞄からスマホを出し、今日の予定を開く。
「この後、用事ある?」
「夜は家にいる。北見は?」
「今日は配信もないよ」
俺は時計を見た。四時を少し過ぎたところだ。
夕飯までには帰ると、朝、家で話していた。
「じゃあ、あと一時間、どっか寄らない?」
「一時間」
「足りない?」
「……まずは、それで」
延長の仕方まで強い。
俺は笑って、駅とは違う方向を指した。
「館内で座りそびれたし。外の店、行ってみるか」
「私、さっき看板見た」
北見がすぐに歩き出す。
帰り道を惜しんでいた人とは思えない速さで、道路の角まで案内された。
*
窓の横の席に、背の高いパフェの写真が立っていた。
二人で楽しむ、という文字の下に、白いクリームとプリンと細い焼き菓子が重なっている。
「これ、食べたい」
「すごいな」
「ね。上、プリンだよ」
俺は隣のページで飲み物を探した。
北見は写真の飾りを一つずつ見てから、こちらを覗き込む。
「何にする?」
「コーヒー。あと、このポテト」
「そっちなんだ」
「あの量の甘いやつは、付き合えない」
「……分かった。じゃ、パフェ一つ」
彼女は写真をもう一度見てから頼んだ。
俺も注文を済ませ、机の端へメニューを戻す。窓の向こうでは、水族館から駅へ向かう人が信号を渡っていた。
「さっきの、一緒に見るのよかった」
「クラゲ?」
「うん。動くまで待ったの」
北見はコップの水を少し飲んだ。
「配信だと、ずっと一匹が動くの待つわけにもいかないから。別の話したり、先に進んだりするし」
「今日は俺がいたから、質問増えたけどな」
「増えてもよかったよ」
彼女が机の上へ手を戻した。何かを説明する時とは違って、その先の言葉は足されない。
俺も、コーヒーが来るまでに何か話さなくてはとは思わなかった。
ポテトの後に運ばれてきたパフェは、写真より大きく見えた。
「……下、結構あるね」
「上ばっかり見てたんだろ」
「下も見たよ。写真では」
それでもプリンを食べている間は、北見のスプーンはよく動いた。果物の下からアイスが出てくると、ようやく一度置かれる。
「まだ余裕?」
「食べるの、急いでないだけ」
「俺も急がせてないぞ」
彼女は俺の皿を見た。
「一つ、交換してほしい」
「どこを?」
「ここの甘いところと、そっちのしょっぱいの」
「全部甘いだろ、それ」
「そうなんだよね」
取り皿へポテトを二本移すと、北見もアイスを少し分けてくれた。甘いのはそのくらいでよく、苦いコーヒーの後に食べた。
北見は一本だけ食べ、もう一本をパフェの皿の横へ置いた。少しして、止まっていたスプーンがまた動き始める。
最後のアイスがなくなる頃には、コーヒーも冷めていた。空いた皿を端へ寄せると、北見は膝に掛けた鞄を持ち上げかけ、俺がまだカップを持っているのを見て戻した。
もう飲む分は残っていなかった。
それでも、窓の向こうの信号が変わるまで、二人とも立たなかった。
*
店を出たのは、五時を少し回った頃だった。
来る時とは違う通りを歩き、バス停まで行く。行きに使った駅へ戻る便が、ちょうどロータリーへ入ってきた。
「これ?」
「うん。次、十五分後にもある」
北見が時刻表を確かめた。俺も家に着く時刻を計算して、夕飯に間に合うと分かってから、道の向こうの小さな広場を見た。
「一本後にする?」
「いいの?」
「もう少し歩きたい。俺も」
北見はバスの方へ一度目を向け、それから俺にうなずいた。
ロータリーを出ていくバスを見送り、広場の端をゆっくり回った。水族館の建物はもう見えず、通りの向こうに駅へ向かう看板だけがあった。
話しかけようとして横を向くと、北見もこっちを見ていた。
「何?」
「……別に」
彼女は小さく笑って、俺の歩く方へ向き直る。
俺も話を探すのをやめた。さっきのクラゲみたいに、同じ方を見ているだけでよかった。
次のバスが来る少し前に、北見が時刻表の下へ戻った。俺も隣に立つ。今度は二人とも、来たバスに乗った。
駅で、彼女は自分のホームへ向かう案内を確かめてから、もう一度だけ俺へ手を振った。
家へ向かう電車で、さっきまではすぐ隣にあった袖の色を思い出した。
画面へ『今日は楽しかった』と打っている間に、北見からも同じ言葉が届いた。
俺は書きかけを消さず、そのまま送った。




