第5話 夜空
「天体観測しよう!」
本格的に冬が訪れ始めた十一月のある日、いつものように、いつの間にか、私の意識をかいくぐって現われた火凜の右手には何やら白色の器具が。目を凝らすとそれは望遠鏡であった。
「なんで?」
「死ねない理由を見つけるため」
スコープを覗き込み、ニヤリと笑う。レンズにはまだカバーがあるし、なにも見えていないはず。なんというか……とてもマヌケな姿であった。
先日のカレーの件しかり、火凜の提案が私の心を動かしてきたことは否めない。だから私は無言で頷いた。
今日の仕事は終わりとばかりに、地平線へと太陽は姿を消し始めている。火凜と二人、窓の前に座る。日が沈むまでの間、手持ち無沙汰な私たちがやることといったら、お喋りくらいしかなかった。
「やっぱり天体観測するなら午前二時がよかったんだけど、さすがに眠たいし無理だよねえ」
ロックバンドのギターイントロが脳内に再生される。十一月の深夜はきっと肌をさすように寒いんだろうな、と考えているとぶるりと肌が震えた。
「この前のカレーありがとね。あの後お母さんとちょっとだけ話すこともできた……」
室内との寒暖差で曇り気味の窓を指でこする。視界がクリアになり、輝きのない白い昼間の月が見えた。
「おばさんは何か言ってた?」
「良い意味で変わったって言われた」
「ほうほう……それで、どんな顔してた? 水那がおばさんと話した時」
どんな顔?
記憶の波をさかのぼり、脳内をぐるぐると回して思考する。浮かび上がったのは目つきが険しい、見ず知らずの人から見れば怒っているような顔。
しかし、あの時は……。
「嬉しそうだった。見たことないくらい」
私という人間の言葉であんなに人を笑顔にさせられるんだってビックリするくらいには。
火凜はどこか遠い目を呟く。
「もうそろそろ私のレッスンも終わりかなあ」
「レッスンなんてしてたっけ……。それに、まだ生きる理由もないのに死ねない意味なんて分からないよ……」
「水那はニブチンだねえ」
既に答えは提示してあるのに、と火凜は苦笑した。
そんな筈はない。火凜の言葉を思い返しても、『死ねない理由』そのものを明示されたことはないはずだ。もしかして、ここからは私自身が気づかなければ見えない場所に理由は埋まっているのかもしれない。
火凜との日々、ゲームや料理、果ては日常の些細な言動まで振り返っても答えは出てこない。まだ私には早いということか。
これ以上考えていても今の私が見つけられる答えではなさそうなので話題を変える。
「火凜と私はどうして関わるようになったんだろう?」
母親と話している時、ふと疑問に思ったことを聞いてみる。
「ええ、忘れちゃってるの!? そんなのアレだよ、あれ。あれこれあって……ああなってこうなって……」
「覚えてないじゃん」
火凜が身振り手振り、大袈裟に空中を掴むように手足をせわしなく動かす。
「うそ、うそ。忘れるわけないじゃん」
「ほんと?」
「あれは高一の春だった……」
したり顔で話し始めた火凜。だが私は口を挟まずにはいられなかった。
「私と火凜が話し始めたのって夏休み明けだったよね」
そう、確か火凜と言葉を交わしたのは私が不登校になる寸前の時期だった。あと一週間早く学校に行くのをやめていたら二人で天体観測に興じることもなかったに違いない。
やはり火凜も覚えていないのか……。
「一人のお馬鹿さんが教室にいてビックリしたの」
私の顔を指さして、火凜はいたずらっ子のように笑う。
決して馬鹿にするような口調ではなく、むしろ心底嬉しそうに声が弾んでいた。
「私たちアーティフィシャルジーンズは天才なの。文武両道、容姿端麗。それだけじゃない、人の心でさえも機敏に感じ取れるんだ。どうすれば周りの評価が高まるか、みんなに好かれるかが分かる」
「それは……凄いね」
そういえば……小学校でも中学校でもクラスで一番優秀で、一軍と呼ばれるような子達はアーティフィシャルジーンズだった。
もしそれが私だったらと想像してみる。私は……手放しでは喜べない。人の心が分かる。きっと便利に違いない。
だけど大変だろうな、と思わずにはいられない。
心ほど複雑で、闇を含んでいるものはないからだ。あんなのものを直視してしまっては精神が持たない。火凜も同じ気持ちのようで苦々しく顔をしかめていた。
「だから分かっちゃうの。人が仮面を被っているのが。その人の本性、私と向き合っているときにどんなことを考えているか」
私を直視する火凜の双眸は今なにを捉えているのだろう、なにを見透かしているんだろう?
「別にね、仮面を被ることを悪いって言うわけじゃないよ? 人によく見られたい、誰かに好かれたい。自己肯定感を高めて、自分を好きになるっていう当たり前の気持ち。自己肯定感ほど人生において大切なものもないからね」
そこまで話して火凜は一息ついた。窓を開けて換気をする。
十一月の冷たい風が火凜の黒髪をなでた。その姿は、幼さが消え私の知らない大人の表情をする火凜だった。
「それにむき出しの心で生活するには世界は汚すぎて、残酷すぎる。そんな生活をしていたら精神がもたないよ」
火凜は笑いながら、仮面をとって過ごす人を勇者と呼ぶか愚か者と称すかは判断に迷う、と付け加えた。さすが天才、火凜の言うとおりだ。
そんな風に自分をさらけ出して、仮面を被ることができない愚か者は精神を病んで、今は八畳の世界に閉じこもっている。
「だけど、いたんだ。どんな時も自分の心のままに過ごすお馬鹿さんが。春風になびかれながら、教室の片隅で生きるあなたがね」
「…………」
「透き通る水のように、ありのままに生きる水那は誰にでも仮面を被る私とは正反対」
スーパーヒューマンとして誰からも期待され、その期待に応え続けてきた一人の少女の独白。
「そんな水那が私にはとても眩しくて輝いて見えたんだ。この人みたいに生きてみたいって。一種の憧れだった」
そして、興味を持ったのだと。勇気をもって夏過ぎに話しかけてみたのだと。
「だからこそ、私が望んだ道を歩むあなたが俯いて、世界から隔絶されて一人で死んでいくのは見たくなかった」
「それが私を助けてくれる理由?」
火凜は否定とも肯定ともとれるように首を動かした。いつしか太陽は眠りにつき、夜空を無限の星たちが輝かせる。
「そろそろ準備しようか」
「私理科室の顕微鏡くらいしか触ったことないんだけど……」
「この説明書さえあればなんとかなる……はず!」
ポケットから取り出した四つ折りの紙を二人で見つめる。よく分からない器具の名前、たくさんのパーツ。
幸い本格的な望遠鏡ではなく、小学生程度の知識でも動かせるタイプのようだ。
漢字にふりがなが添えられた説明書と格闘すること十分。ようやく組み立てられた望遠鏡を万感の思いで覗き込む。
「どう?」
「…………っ!」
私は火凜の問いに答えることができなかった。漆黒の闇の中で太陽の光とは異なる小さく、力強く輝く星たち。
飲み込まれそうな闇の中で、自分の存在を知らせるように輝く姿はまるで世界に飲まれないと抗い続けているよう。
跳ね回る心臓が、体を浮遊させる高揚感が、なにより胸に訪れる『感動』が、他の一切を遮った。五感は他の四つが消えて視覚の一つだけ。
「……こんなに、綺麗なんだね。いつも私の上に広がる景色は」
「人間には生み出せない神秘さがあるよね。毎日見逃してたのがもったいないくらい」
「うん、うんっ!」
「星空を見るたび思うんだ。下向いて歩くのは損だって。上を向いて、胸張って歩こうって」
火凜の言うとおりだ。どんなに苦しい時でもこの神秘の下で生きていると思えば勇気をもらえる。
何億年経とうが一生かかってもたどり着けない星たちに自分が重なる。光に勇気をもらえる。世界は怖くて汚い場所。そう信じて疑っていなかった。
けれども、それだけじゃないかもしれない。
人を避けて、全てを捨て去るのは時期尚早だった。きっと、この八畳を飛び出して、新鮮な冬の風を全身に浴びて見る星空はもっと綺麗なのだろう。
見てみたい、外の世界に行ってみたい。
「今日はこれを伝えたかったんだね」
「伝える?」
「え、だって何かを伝えたくて天体観測したんでしょう?」
「いや、伝えたいことなんてないけど」
「じゃ、じゃあ」
一体なぜ天体観測に誘ったんだ、と聞く間もなく火凜の口が動く。
「水那を喜ばせたかったから。水那に私の好きなものを見て一緒に笑いたかったから」
「なにそれ……」
好きなこと、宝物を一緒に共有したい。なんて純粋な好意。
「なんで火凜は私を助けてくれるの?」
「そんなの水那のことが好きだからに決まっているじゃん。隣に立つだけで心臓がうるさいくらいドキドキするくらいには」
「ずいぶんと不純な動機だね」
とは言いつつ、嫌な気分にはならなかった。
おふざけかな、と一瞬考えたが、なんとなく本当だと感じる。
半年の間、同じ世界に身を置く住人としての勘だ。十一月の夜だというのに頬が熱い。
「はああ、ニブチンだねえ」
「私のことが好きってことは分かったよ?」
盛大にため息を吐く火凜。しかし、他になにがあるのか。
もしかして付き合って欲しいとかその先を求められている?
「はいはい、これで私の授業は終わり。こっからは水那が考えて答えを出してね。なんでおばさんが喜んだのか、どうして私が天体観測したのか。なんで料理をしたのか。そして、どうして死んではいけないのか」
火凜はそう言い残して、告白の返事も聞かずに部屋を出て行った。まるで、もっと重要なことを伝えたから充分だとばかりに。
真っ暗な部屋の中に残ったのは白い望遠鏡と心臓が静かに高鳴る私。十七年生きてきてようやく気づいた星たちが寒空のなか花を咲かしていた。
一人真っ暗な部屋で考える。ベッドに寝転び天井を見上げる。
火凜に――唯一の友達に告白されてしまった。別に困ってはいない。今すぐ付き合う必要はなさそうだし。けれど火凜と付き合ったらつり合ってなさすぎて笑われるかも。そっと顔の右半分を撫でる。
生きること、社会、人間への絶望。その結果として残った傷跡を初めて後悔する。
せめてオシャレには目覚めるべきだろうか? 毎日ジャージで過ごす彼女なんてダメかな?
それに、もし付き合ったらキスとかするのかな……って、今はそんなこと考えている場合じゃない。火凜は告白よりもっと大事なことを伝えようとしていた――ように見えた。
あの言葉、私への好意が本当だということは間違いないはずだけれども、言葉の背後にはそれ以上の想いが隠されているはず。
「もう授業はない。自分で考えるしかないんだ」
料理を一緒にしたこと――これだけは理由が分かる。
それは毎日訪れる日常のうつくしさ。今を生きることに向き合ってみると見える素晴らしさ。
だが、残り二つが分からない。
お母さんが笑顔になった理由、火凜が今日伝えたかったこと。私は一向に答えにたどりつけず、チクタクと時計の針だけが進む。
沈黙――私の大好物だったはずなのに今は苦しくなる。救いをもとめるように立ち上がりテレビを点けた。
「愛子さん、ぼくと付き合ってください」
画面の向こうでは中肉中背の男性が片手を突き出し頭を下げていた。深夜ドラマのありふれたワンシーン。
そう、いかにもで飽き飽きとするテーマが題材。私の頭から足元に一筋の電流が走る。
笑顔と告白。火凜が伝えたかった『生きている理由』。
私の頭に訪れた思考は、自画自賛、自意識過剰、そんな言葉が似合うほどバカバカしい『答え』。とっても単純で、陳腐で、使い古された言葉が『生きている理由』として導き出される。
でも、もしこれが理由なのだとしたら、なんて美しいんだろう。この世界で生きていくためにはこの八畳に一人ではダメなんだ。
外に出よう……!
生きている理由に気づいたんだ。今日から私は変わる。たとえ傷ついて下を向きそうなになっても、夜空の星を見て顔を上げればいいのだから。




