第4話 ご飯
「ジャガイモ、人参、鶏肉……さあ、何を作るでしょーか?」
「……カレー」
「な、なぜ分かった!? さては君、天才だな?!」
キッチンの端に置かれたカレー粉を華麗にスルーして火凜が大袈裟に両手をあげる。口調からして揶揄っているのは間違いない。
アホな振りをしている天才を無視して私は包丁をにぎる。
「あっ、猫の手ちゃんとやってる! かわいいー」
はて、手を見て可愛いとは……火凜は変わった感性を持っているようだ。
「改めて聞くけどなんで料理するの?」
「生きる喜びを教えるために決まっているじゃん」
私が理解できないのが理解できない――そんな顔で見つめられても私にはさっぱり意図がつかめない。だって料理なんて誰でも毎日できる。そう、いわゆる日常のワンシーン。
こんなことで生きる意味を見いだせるのだろうか。
「特別でもなんでもない、普通のことに喜びなんて……」
「ふっふっふ……水那さん。幸せを感じるのに特別なことは必要ないんだぜ?」
火凜は胸を張ってぐっと親指をたてた。なんだか火凜のテンションがやけに高い気がする。
「水那は人参を切って」
そう言われても料理なんてしたことないわけで……火凜の指示するまま私は手を動かす。数分後――眼前には不揃いな形の人参が小山をつくっていた。
「ごめん」
厚さだけは均等に、と釘を刺されていたため、一応厚みだけは均等――ま、まあだいたい一緒だ。
「これくらいだったら全然大丈夫」
そう言った火凜は既に他の食材をあらかた切ってしまっていた。
「ご飯は後でおばさんに持ってきてもらうとして……」
ぶつぶつ言いながら火凜はキッチンをうろつく。同い年と比べて積んできた人生経験のなさになんとも言えない気分だ。
「じゃあ一通り炒めようか」
これくらいだったら私でも出来るだろうと高をくくったのもつかの間「油、油!」と火凜が慌てた様子で私の両手を押さえる。
「あぶら……?」
「鍋に油ひかないと汚れちゃうよ」
そ、そうなんだ。初めて知った。顔が少しだけ熱い。炒める最中も私はフライパンから野菜をこぼしたり、焦がしてしまったり等々。料理ってこんなに難しかったんだ、と愕然とした。
西日が窓から差し込み、純白の壁をオレンジ色に染め上げる頃、ようやくカレーは完成した。
「結構時間かかったね」
「……ごめん」
ひとえにそれは私の手際の悪さのせいだ。テーブルの上に置かれたカレーは学校に出るような綺麗な見た目をしていた。私ではなく火凜がほとんど作ったのだから当然といえば当然だ。
「ご飯にカレーをかけて完成っと!」
ほかほかの白米をお皿の端によけてルーを注ぐ。なんてことはない。しかし、なんだかとても達成感があった。火凜が横で頬を緩ませている。なんか胸がフワフワした。
「いただきます……」
「味はどう?」
目を輝かせて目の前に座る火凜が尋ねてくる。スプーンでルーと白米をかき混ぜて、ひとすくい。偶然にも私が切った不揃いの人参がちょこんと銀色のスプーンの上に躍り出てきた。
実はあまり人参が好きではない。しかし、火凜の前でそんなことを言うのは憚られた。それに……先ほど自分が斬ったオレンジ色の野菜はいつもより美味しそうにみえる。
食事を栄養補給と割り切っている私のお腹が音を鳴らした。珍しい、非常に珍しい。右手を口の前に運ぶ。ちょっと口を開き、人参ごと口の中に。
「……おいしい」
私の様子を見て火凜もカレーを口に運ぶ。
「おいしいいい!」
頬に手を当てて「しあわせー」と口端をあげ笑う。
その姿は同性の私から見てもとてもかわいくって、きっと学校でも火凜は人気者なんだろうな、と確信する。それから私たちはしばしの間無言でカレーを堪能した。
お皿が底を見せ始めた時、火凜が手を止めた。私が顔をあげると、まっすぐ私を見つめる火凜と視線が交錯する。
「生きているって意外と悪くなくない?」
「……うん、少しだけ。ほんの少しだけど良いなって思えた」
料理をするだけで「生きる喜び」なんて大層なものが分かるはずない、そう思っていたけど、なんとなく火凜が伝えたいことが分かった気がする。
「料理の前さ、水那は普通のことに喜びを感じないって言ったけど、そんなことないよ。時間は止まることなく、恐ろしいスピードで流れるから見落としがちだけど……日常には幸せが溢れてる。ご飯を作ることや食べること、ふかふかの布団で眠ることだって、日常として流そうとしないで向き合ってみて。とーっても素敵なことじゃん?」
私は生きる意味なんて無いって決めつけて、今を生きること目を配っていなかった。しかし、私が無意味と切り捨てた生活の中にもどこかに幸せってやつが隠れているのかも。
いや、隠れているんじゃない。堂々と正面にありすぎて感じにくいだけなんだ。
「そうだね。もっと生きることに向き合ってみるよ」
私がそう言うと、火凜は今日一番の笑顔で頷いた。正直まだ「生きている理由」までは分からない。
しかし、火凜が見ている世界がほんの少し見えた気がする。モノクロの世界にほんの僅かな彩りが加わる。色は人参のような優しいオレンジだ。冷淡で恐ろしい世界に優しさが付け足されたような感じがした。
完全に太陽が隠れて月光が夜空を煌めかせる頃、火凜は帰っていった。全身の力を抜き、体育座りで壁によりかかる。体中をめぐる疲労感。
いつ以来だろう、こんなに疲れたのは。それは決して苦しみなんてものではない。心地よい、という言葉の方が似合っている。
鼻をかぐと未だにカレーの匂いがわずかに空中を漂っているのが感じられた。残ったカレーは火凜が持って帰った。鍋を抱えながら「明日の夕飯だ」と肩を揺らして部屋を後にした。
一人暮らしだから家事も大変だろうな。
そういえば私と火凜はいつ出会ったのだろうか。火凜が転校してきたのが中学一年生の時だから……五年は前のことだ。
当時から人気者だった火凜とクラスの日陰で生きていた私。交わるはずのない人生。そんな私たちが出会ったのは確か――コンコンッと思考を遮るノック音が空気を揺らす。
「今日はご飯どうする? カレー食べたのよね?」
扉の前からそんな声がした。既に筋肉痛がきてる体をロボットのように動かして、扉を開ける。相変わらずどこか怒ったような顔つきの母親が世界の外側にいた。
「うん。今日はいらない」
そう言って母親の顔を見れば、なぜか驚いたような顔をしていて「どうしたの?」と柄にもなく尋ねてしまう。
「ごめんなさい。顔を見してくれるとは思わなくて……」
ああ、言われてみればそうだ。私がご飯の時以外で部屋の扉を開けることはなかった。無意識のうちに口が勝手に動く。
「今日ね……カレー作ってみて、楽しかったよ」
呂律がまわらない。自分から話しかけることも随分と久しぶり。
「あら、よかったじゃない」
どこか変じゃないか、そんな疑問もあるけど母親は目を細めて頷いてくれた。
「それで、料理が思ったよりも難しくて……あの、その……」
言葉に詰まりたどたどしい私の声に、それでも母親は優しくと視線を交わしている。お腹にぐっと力を入れて、足を踏ん張った。
「いつもありがと」
伝えたかった思いを言葉にのせる。母親の目が一瞬大きく見開かれ、次に目尻が下がり柔和な表情が現われた。
こんな顔するんだ……。
同じ家にずっと住んできて、私の人生という道に常に寄り添っている母親にまだ知らない側面があったことに衝撃を受ける。
「どういたしまして」
心の底から、他に一切の感情を含ませない純粋な喜び。私がたった一言、お礼を言うだけでこんな表情をしてくれる……私にそんな力があることに心が震える。
間違いなく私は今、自分の存在価値、成長するにつれて失ってきたものの欠片を見つけた。
「なんだか水那変わったわね。今日1日だけで。もちろん、すごっく良い意味でね」
「そうかな?」
「いつもより目が前を向いているし、背筋も伸びている気がするかなあ。それに顔の動きが賑やかっていうか……そう! 表情が豊かになったわよ」
頬に手をやる。勿論変化は感じない。きっと母親じゃなかったら気づけないくらい小さな変化のはずだ。
しかし、私は確かに変わった――変えられた。
火凜によって。約束どおり、火凜は私が知らない世界を魅せてくれているのだ。
「ふふ、お母さん今度は水那のご飯が食べたいな」
扉を閉める間際、そう言って母親は私の頭を撫でた。現状私はカレーしか作れない――いや、カレーも作れないのに気が早い。
今日だって火凜に頼りっぱなしだったし、それに私は境界線を乗り越えられない。私はこの8畳より外に出ることはできない。
けれど、いつかは作ってあげられるだろうか。その夜、私はこの部屋ではない暖かみのある場所で母親とカレーを食べている夢を見た。




