第3話 越えられない境界
そこは透き通るような暗闇だった。
現実の暗闇はドロドロとしていて吸い込まれそうな不気味さがあるものだが今目の前に広がる闇は違った。なんというか――そう、深海の中にポツンといるような感覚だ。
私は歩く。まっすぐと、出口を探して。前方から大きくて丸い泡が海流に流されるようにこちらへ向かってきた。いや、私が進んでいるのかもしれない。どっちが前でどっちが後ろか、そんなことも分からない。
泡が横を通過する時、何気なく視線をやる。驚くことに泡の中には私がいた。教室の隅何かをする様子もなく机に一人座る私。
前方からまた一つ……いや、無数の泡が押し寄せてくる。そのどれもが中に私を封じ込めていた。上履きを隠されて裸足で授業を受ける私、土砂降りの雨の中ずぶ濡れで帰宅する私。これは――私の過去だ。
確かあの日は傘がいつの間にかなくなっていたなぁ。それから押し寄せる無数の泡の私はどれも同じ表情をしていた。
思い返してみても学校にいい思い出はない。もう少しマシな過去を見せてほしい……そうか。私にはこんな思い出しかないんだ。
一際大きな泡が一つ、まっすぐとこちらへ向かってきた。紅く、燃えるような不気味な色。見たくない、見てはいけない。そう確信しているのに視線が自然と吸い寄せられる。
泡の中には炎にくるまれる私がいた……。
朝目が覚めると同時に頭が痛む。なんだか夢を見ていたらしく疲労感が全身を伝う。夢、か。悪夢だったのか、はてはハッピーエンドで終わってくれたのか。
そういえば私には夢がない。小さな頃から何かになりたいと思ったことも、何かをつかもうと思ったこともなかった。私はとても静かで感情の起伏のない子供だったのだろう。
学校という常にリアクションを求められる場とは徹底的に馬が合わない子供。
そんな私が生きる理由を見つけられるだろうか。とても不可能な難題に思えたけど、火凛なら……そう微かに思う自分もいたのだった。
「ご飯を作ろう!」
「……いきなり何言ってるの?」
「だーかーらー、ご飯を作ろうって言ってるの」
いつもの如く昼過ぎに現われた侵入者は突然そう宣言した。ご飯を作るって……なぜ?
「この前言ったでしょ。私の考える世界を魅せるって。その一環だよ」
「ご飯を作ることとみえる景色なんてあるの?」
私は疑いの目を向けずにはいられない。
しかし、「水那ご飯作ったことないじゃん」とその一言に反論は浮かばず、しぶしぶ首を縦に振るしかなかった。
「こんな立派なキッチンがあるのに使ったことないなってもったいないよ」
「おばあちゃんは使ってたんだよ……たしか」
部屋の端に置かれたコンロは私がここに住処を決めてから一切手を付けていない。現在寝起きしているのは庭に建てられた離れだ。
一人部屋にしては広いこの場所は老後におばあちゃんが住んでいたらしい。一軒家の隣に建てられた離れと母屋は細長い廊下で繋がっている。
大学生が住むようなワンルームが庭にポツンとある、そんなかんじだ。
「そういえばおばあちゃんの記憶全然ない……」
「あんまり関わりなかったの?」
「うん……私が小学校に上がって少ししたらおばあちゃん死んじゃったから……」
「そっか……」
「お年玉貰ったりとか、それくらいしか記憶ないよ」
我ながら現金なやつだ。お金をもらったことしか覚えてないなんて、おばあちゃんにちょっと申し訳ない。けど、私がおばあちゃんについて覚えていることなんてほんの少ししかないんだ。
「いいなあー」
あっ……しまった。火凜にはそんな僅かな記憶もないんだ。試験管から生まれて、ずっと家族を知らない。全知全能の力、圧倒的な美の代償だ。それはあまりに大きな代償に感じる。
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。家族がいないなら作ればいいからね!」
どんっと胸を叩いて火凜が笑う。なぜかチラチラと私の方を見ながら、鼻息荒く。
「材料は近くのスーパーで買おっか」
「了解。じゃあこれお金」
火凜になけなしの五千円を握らせる。私の全財産だ。
「いやいや、一緒に買いにいこうよ!」
ああ……そういえば火凜に言っていなかった。
「無理」
「がーん! 一緒に歩くことすら拒まれるくらい私のこと好きじゃないんだ!」
そういうことじゃないんだけどな……百聞は一軒に如かず。見せた方が早いか。
「ちょっと待ってって」
どうせ無理だと分かりながらも一応準備することにした。万が一外に出られた場合のことを考えて。さすがにこの顔で出て行くわけにはいかない。
「準備できた?」
「ちょっと待って」
アレが必要となることなんて滅多にないから場所が分からない。数分探し回った結果、引き出しの中に目的の物を見つけた。黒い眼帯、というには大きすぎる布だ。顔の半分を隠せられる特注の品。
身につけてみると、顔ぴったりとフィットした。
「じゃあ行こっか」
近くのスーパーまでおよそ5分。しかし、非常に気乗りはしない。
(そういえばこの部屋を出るの1年ぶりくらいだな)
ぼんやりと考えて、部屋の扉を潜った時、目に映ったのは外の世界。白黒以外の彩りがあり、木製の床は生活感がしみこんでいた。
……気持ち悪い。人という自分に危害を加えるかも分からない生物の痕跡を見たこと、争いの絶えない外の世界に出たことを強く実感してしまう。
予期していた通り、それは起こった。まず、体が動かなくなった。制御不能。
つま先から頭のてっぺんまで、果ては舌の先まで痺れて感覚が失われる。頭がきゅーっと締め付けられ、呼吸ができない。交感神経が暴走して歯止めがきかなくなる。
息苦しさから逃れようと必死に息を吸い込めば吸い込むほど苦しさは増していく。立っているのもやっとだ。
「水那?」
た、助けて。火凜へ手を伸ばそうとした。しかし、まるで壊れたテレビ画面のように白黒の砂嵐が視界を覆った。
もうダメだ……気がついた時には私は暗闇の中に意識を飛ばした。
「ん、んん……」
「大丈夫⁉」
目を開けると私は床に倒れ込んでいた。後頭部の辺りが痛む。危険な倒れ方をしたことば容易に想像がついた。
「だ、だいじょうぶ」
確かに痛みはあるが、死ぬほどではない。それを喜ぶべきかは判断が分かれるが。
「よかった……うう、急に水那が倒れたからどうしようって……体調悪い?」
「ううん……体は問題ない」
私が倒れたのは別の理由。私はゆっくりと体を起こすと再び扉に手をかけた。
扉を押して、境界線を一歩踏み越える。すると、再び息苦しさが私を縛る。苦しそうに悶える私を見て火凜が再び駆け寄ってきた。
「見ての通りだけど、私はこの部屋の外に出られないの」
「ええ!」
「この部屋の外にでるだけで、体が勝手に緊張状態になって……息が吸えなくなる」
「外に出るだけで体調が悪くなるってこと?」
火凜の言葉に首肯する。
「というわけだから火凜が食材買ってきて」
放心している火凜を尻目に私は言った。
「料理するんでしょ。私は外出られないから代わりに買ってきて。お金は……いつか払うよ」
火凜はそっと私の肩を抱きしめた。
「ごめんね。無理させて」
「言ってなかった私が悪いよ。それにどうせこの顔だと外出られなかったし」
そっと右頬を撫でる。覆われた布の下、女の子の肌にしてはあまりにザラザラとしていた。自ら火を点けて燃やした顔。あの日、死にきれなかった結果として残った傷跡。
「はやく行かないとスーパー閉まっちゃうよ?」
火凜はなにかを言おうと口を動かし――そっと閉じた。
「そうだね」
火凜は私の体から離れた。そして、そっと扉の奥へと消えていった。私はごろんとベッドに寝っ転がる。一生外に出られない。分かったとき少し、ほんの少しだけ動揺した。
しかし、次の瞬間には受け入れられた。別に外に出ようと願ったことなんてないんだ。これからもないだろう。なら、別にいいじゃないか。
神様が言っているのだ。私に外に出るな、と。そう思って1年、私は特に不便をしていない。こんな思考をしてしまう私はやはり人間にしてはどこかおかしいのだろうか。




