99話「視線の先」
一週間後。
Roseの店内には、開店前から賑やかな声が響いていた。
『美園さん、これどこに置くの?』
『その皿は奥。グラスの隣』
『こっち?』
『逆』
『最初から右って言ってよ』
『奥って言ったでしょ』
『あたしから見た奥と、美園さんから見た奥が違うんだよ』
『同じ店内にいるんだから同じだよ』
陽菜は皿を持ったまま、美園を振り返る。
『日高先輩、美園さんが厳しい』
『言われた場所へ置けばいいだけでしょう』
『日高先輩まで冷たい』
カウンターの端でグラスを並べていた樹里は、陽菜の持つ皿へ目を向ける。
『それは右だ』
『ほら、美園さん』
『陽菜が立っている向きが変わったからでしょ』
『あれ?』
『もういい。貸して』
『怪我人から仕事を奪う気?』
『ほとんど治ってるでしょ』
『じゃあ、働かせて』
『だから、皿を右に置いて』
『はーい』
陽菜がようやく指定された場所へ皿を置く。
頬の痣は、化粧をすればほとんど分からない程度まで薄くなっていた。
身体にはまだ僅かな痛みが残っているものの、日常生活に支障はない。
それでも中井は、陽菜が少しでも重そうな物へ手を伸ばすたびに視線を向けていた。
『中井くん』
「はい」
『今、持とうとしたでしょ』
「何をですか」
『このお皿』
「持っていません」
『でも立ちかけた』
「念のためです」
『先に聞く約束』
「まだ何もしていません」
『目で手伝おうとしてた』
「それは止められません」
『じゃあ、見守ってて』
「そうしています」
『熱い視線で?』
「普通にです」
『愛は?』
「皆さんがいます」
『二人ならあるの?』
「準備を続けてください」
中井が顔を逸らす。
その耳が少し赤くなっているのを見て、陽菜は満足そうに笑った。
『元気になったね、陽菜』
美園が呆れたように言う。
『ずっと元気だよ』
『数日前まで、一人じゃ食事もできなかったのに』
『できなかったんじゃなくて、食べさせてほしかったの』
「陽菜さん」
『何?』
「その話はしなくていいです」
『中井くんがプリンをあーんしてくれた話?』
「言っているじゃないですか」
樹里が無言で陽菜を見る。
『日高先輩もしてほしい?』
『いらない』
『美園さんにしてもらったら?』
『黙って準備しろ』
『はい』
陽菜の声が店内へ響く。
四年前には失われた光景。
けれど今は、特別なものとして飾る必要もなく、三人の日常としてそこにあった。
*
予定の時間より少し早く、佐藤がやってきた。
「お疲れさまです」
『佐藤くん、早かったね』
「準備を手伝おうと思って」
『もうほとんど終わってるよ』
「では、何か残っていることは」
『ない』
「即答ですね」
『今日はお客さんでいいよ』
「それだと落ち着かないんですけど」
『じゃあ、そこに座って待ってて』
「一番落ち着かないやつです」
佐藤は店内を見回し、カウンターに並べられたグラスへ目を向ける。
「グラス、もう少し出しますか」
『足りると思う』
「取り皿は?」
『出した』
「氷は」
『十分ある』
「本当に何もないですね」
『だから言ったでしょ』
美園が笑う。
その笑顔を見て、佐藤も僅かに表情を緩めた。
樹里は二人の様子を見たが、何も言わなかった。
続いて、凛と柚希が一緒にやってきた。
「こんばんは」
「お邪魔します!」
『いらっしゃい』
美園が二人を迎える。
『凛ちゃんは手伝ったことがあるから、勝手は分かるよね』
「今日は客として来ました」
『それでいいよ。陽菜みたいに邪魔されても困るから』
『あたし、ちゃんと手伝ったじゃん』
『皿を一枚運んだね』
『一枚じゃないよ。三枚』
「そこは誇るところなんですか」
凛が尋ねる。
『気持ちが大事なの』
「結果も大事です」
『凛ちゃん、会社から厳しい』
柚希が笑いながら店内へ入る。
その直後、扉がもう一度開いた。
「こんばんは」
零が、少し緊張した顔で立っていた。
仕事帰りなのか、普段着の上に薄手の上着を羽織っている。
『零、いらっしゃい』
「陽菜さん、もう身体は大丈夫なんすか」
『うん。ほとんど治ったよ』
「そうっすか」
短い返事。
しかし、陽菜の顔や立ち方を確かめる視線から、本当に心配していたことが分かる。
『心配した?』
「しました」
『素直だね』
「聞かれたから答えただけっす」
『ありがとう』
「……はい」
零は僅かに目を逸らした。
「零ちゃん」
柚希が声をかける。
零が顔を向ける。
「柚希さん」
「来てくれてよかった」
「自分も、柚希さんが来るって聞いたから」
零はそこで言葉を止める。
柚希の目が僅かに大きくなった。
「私が?」
「京都で話した人がいた方が、入りやすいと思っただけっす」
「そっか」
柚希は笑う。
嬉しかった。
その理由を、零がすぐに別の言葉で薄めたことが、少しだけ残念でもあった。
なぜ残念なのかまでは、まだ考えなかった。
「隣、座る?」
「いいんすか」
「もちろん」
柚希が自分の隣の席を引く。
零は小さく頭を下げ、そこへ座った。
*
最後に店へ来たのは、青柳だった。
「遅くなってすみません」
「まだ始まっていません」
中井が迎える。
「来てくださって、ありがとうございます」
「櫻井さんの復帰祝いなんだろ。断る理由はないよ」
青柳は店内を見渡す。
陽菜へ軽く頭を下げたあと、その視線が凛のところで止まった。
「遠藤さん」
名前を呼ばれ、凛が顔を上げる。
「こんばんは」
「こんばんは。この前はありがとうございました」
「私は、特に何もしていません」
「店を出るとき、忘れ物がないか確認してくれました」
「仕事としてです」
「今日は仕事ではありませんよね」
「……はい」
「なら、今日は普通に話してもいいですか」
あまりにも真っ直ぐに尋ねられ、凛は僅かに戸惑った。
「私でよければ」
「ありがとうございます」
青柳は凛の正面ではなく、一つ斜めの席へ座った。
近すぎない。
かといって、会話を避ける距離でもない。
その選び方に、凛は僅かな配慮を感じた。
『全員揃った?』
陽菜が店内を見回す。
『それでは、あたしの完全復活を祝って――』
「完全ではありません」
中井が訂正する。
『ほぼ完全復活を祝って』
「まだ医師の確認前ですよね」
『中井くん、細かい』
「大事なところです」
『じゃあ、あたしが会社に戻ってこられたことを祝って』
『それならいい』
樹里が言う。
『日高先輩の許可が出ました』
『私が決めることではありません』
『細かいなあ』
陽菜はグラスを持つ。
『心配かけてごめんね。今日は来てくれてありがとう』
一度、全員の顔を見る。
『ちゃんと戻ってきたので、乾杯!』
グラスが重なる。
大きな音ではない。
それでも陽菜には、自分を迎える音に聞こえた。
*
食事が始まると、店内はすぐに賑やかになった。
陽菜と柚希の笑い声。
それを止めようとする中井。
佐藤へ料理を運ばせながら、客として座れと言う美園。
零は最初こそ緊張していたが、柚希が話しかけ続けるうちに、少しずつ肩の力が抜けていった。
「零ちゃん、これ食べた?」
「まだっす」
「美味しかったよ」
「では、もらいます」
「取ろうか?」
「自分で取れます」
「遠いでしょ」
柚希が皿を取り、零の前へ料理を置く。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
零が一口食べる。
柚希はその反応を待っていた。
「どう?」
「美味しいっす」
「よかった」
「柚希さんが作ったわけじゃないっすよね」
「うん。でも勧めたのは私だから」
「では、柚希さんのおかげっす」
「そういうこと」
二人の会話を聞いていた陽菜が、意味ありげに笑う。
柚希がすぐに気づく。
「陽菜さん、何ですか」
『別に』
「絶対何か考えていますよね」
『柚希ちゃん、楽しそうだなって』
「楽しいですよ。みんなで食べているんですから」
『零が隣だからじゃなくて?』
「違います」
「自分、席を変わった方がいいっすか」
「変わらなくていい!」
柚希の声が大きくなる。
零が驚いて目を見開く。
「……せっかく隣に座ったんだから、そのままでいいよ」
「分かりました」
零は素直に座り直す。
柚希は陽菜を睨んだ。
陽菜は何も知らない顔で料理を食べている。
*
凛は会話に参加しながらも、空いた皿や減った飲み物へ何度も目を向けていた。
立ち上がろうとしたところで、美園が声をかける。
『凛ちゃん、今日は座ってて』
「でも、グラスが空いています」
『私がやるよ』
「手伝います」
『前に働いたからって、今日も店員になる必要はないよ』
「気づいたので」
凛は空いたグラスを集めようとする。
その前に、青柳が一つ手に取った。
「これを運べばいいですか」
「青柳さんはお客さんです」
「遠藤さんもですよね」
「私は、以前お手伝いしたことがありますから」
「今日は頼まれていない」
「そうですが」
「では、一緒に座りましょう」
青柳はグラスをテーブルへ戻す。
凛が困ったように見る。
「気になりますか」
「何がですか」
「空いたグラスが」
「目に入っただけです」
「料理の残りも確認していました」
「……見ていたんですか」
「はい」
青柳は悪びれずに答えた。
「遠藤さんは、前に会ったときも周りのものばかり見ていました」
「店を手伝っていたからです」
「今日は客なのに?」
凛は言葉に詰まる。
「誰かのグラスが空くと気になる。料理が減れば、次に何を頼むか考える。話に入れていない人がいれば、そちらを見る」
「普通のことです」
「そうでしょうか」
「青柳さんこそ、私を見すぎではありませんか」
声が少し硬くなる。
青柳は、そこで初めて自分が踏み込みすぎたことに気づいたようだった。
「すみません」
素直に頭を下げる。
「不快にさせるつもりはありませんでした」
「……いえ」
「褒めるつもりでした」
「今の話の、どこが褒め言葉なんですか」
「遠藤さんが見ているから、周りの人は安心して気を抜けるんだと思います」
凛の表情が僅かに変わる。
「ただ」
「まだあるんですか」
「遠藤さん自身は、いつ気を抜くんだろうと思いました」
凛は青柳を見る。
最初に話したときも、この男は凛が誰にも見せようとしなかった部分へ触れた。
人が見落とす仕事を見つけ、それを言葉にした。
今回も同じだった。
だが、前とは違う。
見つけてもらえた嬉しさだけではない。
自分の内側へ、許可なく一歩入られたような落ち着かなさがあった。
「青柳さんには関係ありません」
「はい」
青柳は反論しなかった。
「その通りです」
あまりにも素直に引かれ、凛の方が戸惑う。
「では、聞かないんですか」
「何をですか」
「私がいつ気を抜くのか」
「聞いていいんですか」
凛は口を閉じる。
自分から話を戻してしまった。
「……分かりません」
「何が?」
「いつ気を抜いているのか、自分でも分かりません」
青柳は、すぐに答えなかった。
「そうですか」
「それだけですか」
「俺が勝手に答えを出すことではないので」
青柳は目の前のグラスを持つ。
「ただ、今日は少しくらい気を抜いてもいいと思います」
「どうしてですか」
「遠藤さんが見なくても、中村さんが見ています」
カウンターでは、美園が店内全体を確認していた。
陽菜が無理をしていないか。
料理が足りているか。
会話から外れている者はいないか。
凛が見ていたものを、美園も見ている。
「それに」
青柳が続ける。
「俺も空いたグラスくらいなら気づきます」
「青柳さんも客でしょう」
「では、二人で気づかないふりをしますか」
「意味が分かりません」
「今だけです」
青柳は僅かに笑う。
凛はその顔を見たあと、集めようとしていたグラスから手を離した。
「一杯だけ、飲み物を取ってきます」
「それは自分の分ですか」
「はい」
「なら、行ってきてください」
「許可を求めたわけではありません」
「分かっています」
凛は立ち上がり、カウンターへ向かう。
背中へ青柳の視線を感じた。
振り返らなかった。
それでも先ほどまでとは違い、空いたグラスには触れなかった。
*
『随分、見られてたね』
美園が飲み物を用意しながら言う。
「気づいていたんですか」
『私は店内を見てるから』
「青柳さんにも同じことを言われました」
『何て?』
「美園さんが見ているから、私が見なくてもいいと」
『いいこと言うじゃん』
「私のことを見すぎです」
『嫌だった?』
凛はすぐに答えなかった。
「少し」
『少しだけ?』
「踏み込まれたような気がしました」
『じゃあ、もう話したくない?』
凛は自分の席にいる青柳を見る。
青柳は中井と話している。
凛を見てはいない。
「……そこまでは言っていません」
『そっか』
美園はそれ以上、何も言わなかった。
新しいグラスを凛へ渡す。
『今日は客でいて』
「はい」
『誰かに見てもらう側でもいいんだよ』
凛はグラスを受け取る。
「美園さんまで、同じことを言うんですね」
『私は凛ちゃんのこと、前から見てるから』
「そうでした」
凛は小さく笑い、席へ戻った。
青柳が顔を上げる。
「おかえりなさい」
「……ただいま戻りました」
「仕事みたいですね」
「癖です」
「俺と同じですね」
凛は反論しなかった。
自分の席へ座る。
テーブルの上には、先ほどまで空だった凛の取り皿に、料理が少しずつ取り分けられていた。
「これは?」
「遠藤さん、ほとんど食べていなかったので」
青柳が答える。
「勝手に取ってしまいました。嫌いなものがあれば残してください」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
凛は箸を取る。
誰かのために料理を取り分けることは、何度もしてきた。
自分のために取り分けられた皿を前にすることには、慣れていなかった。
青柳はもう、凛を見ていない。
中井との会話へ戻っている。
それでも凛は、最初の一口を食べるまで、何度かその横顔を見てしまった。
*
食事会は、予定していた時間を少し過ぎて終わった。
「今日はありがとうございました」
陽菜が一人ずつ見送る。
『こちらこそ。みんなが来てくれてよかった』
「次は怪我をしていないときに集まりましょう」
凛が言う。
『そうだね。今度は誰の復帰祝いにする?』
「誰も怪我をする予定はありません」
『じゃあ、普通に集まろう』
「それが一番です」
青柳が凛の隣に立つ。
「遠藤さん、今日はありがとうございました」
「私は何もしていません」
「少し話せました」
「……そうですね」
「また会ったときは、話してもいいですか」
凛は僅かに迷った。
「踏み込みすぎなければ」
「気をつけます」
「本当にお願いします」
「はい」
青柳は頭を下げ、中井と一緒に店を出ていく。
凛はその背中を見送った。
『帰らないの?』
陽菜に尋ねられ、凛が我に返る。
「帰ります」
『青柳くんの背中、そんなに面白かった?』
「見ていません」
『見てたよ』
「見ていません」
『凛ちゃん、顔が――』
「櫻井さん」
『はい』
「まだ完治していませんよね」
『急に怖い』
「余計なことを言う元気があるなら、明日から仕事を増やします」
『日高先輩、助けて』
『自業自得です』
『味方がいない』
凛は陽菜を睨んだあと、柚希へ顔を向ける。
「柚希ちゃん、帰りましょう」
「あ、私……」
柚希は零を見る。
「零ちゃん、駅まで一緒に行く?」
「いいんすか」
「帰る方向、途中まで同じだよね」
「はい」
零が頷く。
「では、一緒に帰ります」
「うん」
柚希は凛へ申し訳なさそうな顔をする。
「凛ちゃん、ごめん」
「どうして謝るんですか」
「一緒に来たから」
「帰りまで同じである必要はありません」
「怒ってない?」
「怒っていません」
凛は柚希と零を見る。
「気をつけて帰ってください」
「ありがとう」
「凛さんも、気をつけてください」
零が頭を下げる。
凛は一人で店を出る。
少し前を、青柳と中井が歩いているのが見えた。
声をかけるほどの距離ではない。
凛は歩く速度を変えなかった。
追いつこうとも、離れようともしない。
ただ、自分の少し先を歩く青柳の背中が、何度も視界に入った。
*
陽菜は中井に送られ、樹里も店を出た。
最後に残った客は、佐藤だった。
「片づけ、手伝います」
『客でいいって言ったのに』
「もう閉店後です。今は客じゃありません」
『じゃあ、何なの?』
「手伝いです」
『答えになってない』
「では、何なら残ってもいいんですか」
美園の手が止まる。
佐藤は笑っていなかった。
食事会の間、何度も美園を見ていた。
忙しく動く姿。
陽菜の体調を気にする姿。
凛へ言葉をかける姿。
誰かのことばかりを見ている美園を、佐藤だけは見ていた。
『……好きにすれば』
「では、好きにします」
佐藤は上着を脱ぎ、椅子の背へ掛ける。
テーブルの上に残された皿を集め始めた。
美園は止めなかった。
二人だけになった店内で、食器の重なる音が響く。
さっきまで大勢の声で満たされていたRoseが、急に広く感じられた。
美園はカウンターの中から佐藤を見る。
目が合いそうになると、視線を逸らす。
自分から誰かを求めること。
待つだけではなく、近づくこと。
陽菜へ言った言葉が、今度は自分へ返ってきていた。




